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紅の魔術師  作者: ベルナルド
一章 紅の魔術師

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第一話 紅に染まる町


 東京都夕烙区には、こんな噂がある。


 かつて栄華を極めた魔術師。

 その生き残りが、今もこの街に潜んでいるという。


 名は――紅の魔術師くれない まじゅつし


 彼がこの街で何をしているのか。

 何を目的に生きているのか。

 それを知る者はいない。


 ただ、その名だけが、夜の噂として残っていた。


 夕烙区の夕暮れは、静かには終わらない。


 沈みかけた陽の光がビルの谷間に呑まれ、代わりに無数の電子掲示板が街を照らし始める。

 人の波は絶えず、靴音と喧騒が重なり合い、どこを見ても光に満ちている。

 けれど、その明るさはどこか薄っぺらくて、紬には街全体が落ち着きなく騒いでいるように思えた。


 その中を、一人の少女が駆けていた。


 荒い息が漏れる。

 肩まで流れる金色の髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。

 胸の奥では心臓が痛いほど鳴っていた。


 左腕の腕輪型端末――マギマギアが淡く光る。

 空中に展開された半透明の画面には地図アプリが映し出され、目的地を示す赤い点が点滅していた。


 位置は、そう遠くない。


 だが次の瞬間、背後から飛んできた怒号に、(つむぎ)の肩がびくりと跳ねた。


「待て、ガキ!」


 反射的に空中画面を手で払う。

 表示された地図は収縮し、腕輪の中へと消えていった。


 唇を噛む。


「お姉ちゃんを助けるためにも……絶対に、あの人に伝えなきゃ」


 喧騒から逃げるように、紬は人目の少ない路地裏へ駆け込んだ。

 細く、薄暗い通路。

 さっきまでの騒がしさが嘘みたいに遠のき、自分の足音ばかりがやけに大きく響く。


 けれど、その暗がりの奥で待っていたのは、救いではなかった。


 行く手を塞ぐように立っていたのは、数人の男たちだった。

 手には金属バット。

 目元には下品な金色のサングラス。

 その立ち方だけで、まともな相手ではないと分かる。


「めんどうかけやがって」


「俺らから逃げ切れると思ってたのかよ」


 足が止まる。


 息が詰まった。

 (つむぎ)は一歩、また一歩と後ずさる。

 けれど、背後からぬっと伸びてきた手が、肩を強引に掴んだ。


「つかまーえた」


 耳元で、湿った声が笑う。


「余計に走らせやがって」


 振り返った先にいたのは、滝のように汗を流した男だった。

 醜悪な笑みを浮かべ、紬の肩に食い込むほど強く指を立てている。


「離してください!」


 身体をよじり、必死にもがく。

 だが、力はびくともしない。

 爪が肩に食い込み、鋭い痛みが走った。


「いっ……!」


「おとなしくしろよ」

「あんまり暴れると、もっと乱暴しなくちゃいけなくなるだろ?」


 男の手が、今度は紬の顔へ伸びる。

 頬を乱暴に掴まれ、無理やり上を向かされた。


「へぇ……こいつ、いい顔してんじゃねえか」


「先に遊ぶか?」


「おい、兄貴に怒られるぞ」


「いいだろ。どうせ死ぬんだからな」


 男たちが下品に笑う。

 その気色の悪さに、背筋が凍る。


 嫌だ。

 怖い。

 でも、ここで終わるわけにはいかなかった。


 男の手がわずかに緩んだ、その一瞬。


「っ!」


 (つむぎ)は全力で足を振り上げ、男の股間を蹴り上げた。


「がっ――!?」


 男の顔が歪む。

 その隙に、紬は強引に身体をねじって拘束を抜けた。


 すぐさま腕輪を空へ突き出す。


「第四階位――暗闇を照らす光(ライト)!」


 叫びと同時に、周囲の空気が腕輪へと引き寄せられる。

 収束した魔力が白い閃光となって弾け、路地裏いっぱいに光が広がった。


「しまっ――!」


 男たちは慌てて目を閉じようとした。

 だが遅い。


 白光が闇を押し流し、男たちは悲鳴を上げて顔を押さえた。


「ぐっ、ああっ……!」


「目が……!」


 光の余韻がまだ残る中、股間を押さえていた男が、怒りで顔を真っ赤にしながら立ち上がる。


「ゆるさねぇ……!」


 男は片手で身体を支え、もう一方の腕を紬へ突きつけた。

 その手首には、重厚なマギマギアが巻かれている。


「魔装展開」


 機械的な音声が、場違いなほど冷たく響いた。


 "System Boot: Standard Combat Mode."

 "Safety Limiter: Active. Output fixed at 80%."

 "Stable Mana-Link established. Ready for deployment."


 男たちの顔色が変わる。


「お、おい……街中で魔装はまずいぞ!」


「サツが来るぞ!」


「ガキにやられたなんて、兄貴にどう説明する気だよ!」


「舐められたまま終われるかよ!」


「うそ……まさか、魔装……!?」


 紬の喉がひゅっと鳴る。


 魔装。

 それは普通の魔導士見習いが相手取れる代物じゃない。

 こんな場所で使うこと自体が狂っている。


 逃げなきゃ。


 そう思ったときには、もう遅かった。


 男の身体がぶれた。


 次の瞬間、紬の身体は壁に叩きつけられていた。


「かはっ……!」


 一拍遅れて、全身に激痛が走る。

 呼吸ができない。肺が潰れたみたいに苦しい。

 何が起きたのか理解するより先に、涙が勝手に滲んだ。


 殴られたんだ。


 そう分かった瞬間、余計に痛みが鮮明になる。


 苦しい。

 痛い。

 立てない。


 でも――。


 お姉ちゃんを助けられるのは、私だけなのに。


 諦めたくない。

 なのに、身体が動いてくれなかった。


「はは……はははっ!」


 男が両手を広げ、薄暗い空を仰ぐ。


「やっぱ最高だぜ、この力は」


「借金まみれにはなったが……この力さえあれば、いくらでも稼げるんだよ!」


 その声には、歓喜と渇望が滲んでいた。


「すげぇ……」


「やっぱ魔装ってやべぇな」


「お前らも買えよ。俺がバイヤー紹介してやるよ」


 そのときだった。


 革靴の音が、重く路地裏に響いた。


 喧噪の残り滓も、男たちの笑い声も、その音の前では妙に薄く聞こえた。


「おいおい」


 低く、気だるげな声。


「いつから街中で魔装が使えるようになったんだ?」


「俺の知らん間に、法でも変わったのか」


 男たちが振り返る。


 闇の奥から、一人の男が歩いてきた。


 深紅のコート。

 長身。

 片手でハットのつばを押さえ、まるで散歩の途中にでも立ち寄ったみたいな気軽さで、こちらへ向かってくる。


「なんだてめぇ」


「取り込み中だ。引っ込んでろ」


「てめぇも殺されてぇのかよ」


「はぁ……」


 男は心底うんざりしたようにため息を吐いた。


「まったく」


 その赤い眼が、冷たく男たちを見下ろす。


「ガキども。実に不愉快だ」


 ぞくり、とした。


 紬は息を呑む。

 怒鳴っているわけでもない。

 なのに、その一言だけで空気が変わった。


「なんだ、お前。立場が分かってねぇのか?」


 魔装をまとった男が殺意を滲ませる。

 装甲が軋み、空気中の魔力を取り込む音が不気味に鳴った。


 だが、深紅の男はまるで意に介さない。


「模造品を身に付けた程度で、強くなったつもりか」


「笑わせる」


「貴様らはただ、他人の力で吠えているだけの醜いガキだ」


 男のこめかみに青筋が浮く。

 魔装が膨張するように脈打ち、血管じみた赤が表面を走った。


 機械音声が、無機質に告げる。


 "Safety limiters: Disengaged."


「そこまで死にたいなら……ぐちゃぐちゃにしてやるよ!」


「第三階位――鬼のような身体(オーガースキン)!」


 赤黒い装甲が男の身体をさらに覆い、蒸気が噴き上がる。

 男は地面を踏み砕く勢いで足に力を込め、飛びかかろうとした。


 その刹那。


 男の顔に、火が灯った。


「ぎゃああああああっ!?」


 何が起きたのか、紬には見えなかった。


 ただ一瞬、空気が揺れた。

 その次には、男の顔面が業火に包まれていた。


 男は地面を転げ回る。

 けれど火は消えない。

 顔だけでは終わらず、炎は全身へと広がっていく。


「あ、あああああっ!!」


 悲鳴。

 焦げる臭い。

 さっきまで力を誇っていた男が、無様にのたうち回っている。


 なのに、その男――深紅のコートの男は、まるで興味もなさそうにポケットへ手を入れた。


 煙草のケースを取り出す。

 一本、口にくわえる。


 まだ火はついていない。


 男は指を鳴らした。


 火花が弾ける。

 小さな火が煙草の先に宿った。


 ゆっくりと煙を吸い、細く吐き出す。

 紫煙が夜気に溶けていく。


 それから男は煙草を指先でつまみ、目の前へ掲げた。


「なあ、ガキども」


 その声だけが、妙に静かだった。


「俺は火が好きでな」


「こびりついた汚れも、腐った臭いも、薄汚れたゴミも」


「燃やせば綺麗になる」


 煙草の先の小さな火が、ふっと膨らむ。


 ただの灯火だったはずのそれが、獣みたいに息を吹き返し、赤く、妖しく燃え上がった。

 炎は指先から手のひらへ這い上がり、その手全体を包み込む。


 なのに皮膚は焼けない。

 最初からそこに在るべき火だったみたいに、男の手に馴染んでいる。


 やがて男は、その燃え盛る手をゆっくりと構えた。


 親指を立て、指を折る。

 手は銃の形をとった。


 炎をまとった銃口が、真っ直ぐに男たちを指す。


「――実に、素敵だと思わんか」


 轟音。


 炎が撃ち出された。


 業火は荒々しく空気を焼き裂きながら、それでも紬だけは避けるように軌道を変え、背後にいた男たちへ食らいつく。


「「ぐあああああっ!!」」


 男たちは悲鳴を上げて転げ回った。

 だが、火は消えない。


 深紅の男はゆっくりと歩み寄る。

 転げ回る男たちを見下ろし、鼻で笑った。


「やはりゴミはよく燃える」


「だが今日はゴミの日ではない」


「実に残念だがな」


 ひらりと手を振る。


 その動きだけで、男たちを焼いていた炎が一瞬で消え失せた。


「な、何しやがった……!」


 魔装も解除され、男は焼け焦げた身体をさらしたまま地面に這いつくばる。


「しぶといな」


「喚く元気が残るとは」


 次の瞬間、革靴が男の顔面にめり込んだ。


「がはっ!?」


 鼻血が飛び散る。

 男の身体が地面へ叩きつけられた。


「おい。俺のお気に入りだぞ」


 男は革靴の先についた血を見て、露骨に顔をしかめる。


「……ちっ。愚図め」


 さらに一歩、前へ出る。


 その気配に、周囲の男たちが青ざめた。


「や、やめろ! 死んじまうだろ!」


「この程度で魔導士が死ぬわけあるか」


 男は面倒そうに視線だけを向ける。


「まあいい。どけ」


 蹴りが腹へ突き刺さる。

 男の身体は吹き飛び、壁に叩きつけられた。


「貴様らが何者かは知らん」


「だが次に俺の前へその汚らしいツラを晒したなら――灰しか残さん」


 低い声。

 けれど、その言葉には冗談の余地が一切なかった。


 男たちは息を呑み、揃って後ずさる。


「おい。さっさと散れ」


「また燃やされたいのか?」


「ひ、ひぃ……!」


 蜘蛛の子を散らすように、男たちは路地裏から逃げ出していく。


 だが、深紅の男は一人の肩を乱暴に掴んで引き止めた。


「おい。そこでくたばってるゴミも持っていけ」


「わ、分かりました!」


 男たちは仲間の足を掴み、荷物みたいに引きずりながら、そのまま闇の外へ消えていった。


 静寂が戻る。


 遠くから、街の喧騒だけが聞こえてくる。


 深紅の男はそこで初めて、紬へ視線を向けた。


「おい、小娘」


 赤い眼が細まる。


「貴様も貴様だ」


魔導士(まどうし)を名乗るなら、そこで諦めるなどというつまらん真似はするな」


「何も生まんぞ」


 夕風が吹いた。

 夜の到来を歓迎するみたいに、深紅のコートが翻る。


 男はもう用は済んだとばかりに背を向ける。

 革靴が再び、重く路地裏に響き始めた。


 待って。


 そう思ったときには、紬は声を上げていた。


「待ってください!」


 足音は止まらない。

 けれど、紬は痛む身体を引きずるようにして叫ぶ。


 この人しかいない。

 そう直感していた。


「あなた……もしかして」


紅の魔術師(くれない まじゅつし)、なんですか……?」


 ぴたりと足音が止まった。


 男が、ゆっくりと振り返る。

 その顔は、心底嫌そうだった。


「ちっ……だから善行は嫌いなんだ」


「いつも俺に面倒ごとを運んできやがる」


 ハットを深くかぶり直す。

 露骨に不機嫌そうな顔のまま、男は口を開いた。


「俺はその名が嫌いなんだがな」


 短く息を吐く。


「……まあ、そうだ」


 赤い眼が、真っ直ぐに紬を射抜く。


「俺が紅の魔術師くれない まじゅつしだ」


「それで――何の用だ、小娘」

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