第二十六話 奇術師はいつだってタネを隠さない⑦
古びた屋敷の前には、十数人の魔導師が立っていた。
その一人ひとりが、国家機関に所属する精鋭だ。
一般の魔導師では足元にも及ばないほどの訓練を受け、いくつもの修羅場を越えてきた者たち。
けれど今、彼らはたった一人の男を前に、冷や汗を止められずにいた。
心臓を、常に指で摘ままれているようだった。
いつ握り潰されてもおかしくない。
そんな圧が、目の前の男から静かに漂っている。
深紅のコートを纏う男――紅の魔術師は、煙草を咥えたまま、何の緊張もない目で彼らを見渡した。
「おいおい、小僧」
紅は先頭に立つ国谷へ視線を向ける。
「誰を捕らえるんだ」
「もちろん、あなたを」
国谷正人は、いつもの軽薄そうな口調を崩さず答えた。
だが、その視線だけは真剣だった。
「そうか」
紅は鼻で笑う。
「俺に一度も勝てたことのないお前がか?」
「ええ。こっちにもメンツってもんがあるんすよ」
「ほう」
紅は煙草を指で挟み、ゆっくり煙を吐いた。
「なら、そのメンツのために命を張れるか?」
国谷は即答した。
「もちろん」
次の瞬間、彼のマギマギアが淡く輝いた。
魔装展開。
国谷の全身を、白銀の装甲が覆っていく。
肩、胸、腕、脚。
一切の無駄がない滑らかな輪郭は、兵器でありながら芸術品のようでもあった。
国家魔導師に与えられる魔装は、一般の装備とは比較にもならない。
膨大な魔力を安定させ、術式を即座に補助し、使用者の限界をさらに先へ押し広げるために作られた、国家予算級の結晶。
その性能を示すように、国谷の周囲へ冷気が溢れ出した。
地面に白い霜が広がる。
空気が冷え、周囲の魔導師たちの吐息が白く染まった。
このまま放置すれば、町一つを凍てつかせかねない。
そう錯覚するほどの魔力だった。
だが。
紅の周囲だけは、揺らめく陽炎に包まれていた。
冷気は近づくそばから歪み、溶ける。
凍りかけた空気さえ、紅のそばでは熱に押し返されていく。
「やっぱ、格違いっすね」
国谷は苦笑した。
「でも、俺も成長してるんすよ」
足元から氷が走った。
白い亀裂のように広がる凍結が、紅の足元へ迫る。
だが、届く寸前で氷は蒸発した。
熱を帯びた白い蒸気が、地面から噴き上がる。
その瞬間、国谷の姿が消えた。
空気を裂く音。
眼にも止まらぬ速さで放たれた蹴りが、紅の頬をかすめ取る。
「……」
紅が身を逸らした、その先に。
国谷はすでに氷の槍を作り上げていた。
「第三階位――氷は槍に変化し、敵を穿つ<アイス・ランス>!」
鋭い氷槍が、紅の胸を貫いた。
だが、手応えはない。
紅の体が陽炎のように揺らぎ、槍は虚像をすり抜ける。
「逃がさねっすよ」
国谷が足を踏み鳴らす。
半径十五メートル。
地面一帯が、一瞬で白く凍りついた。
その氷結領域へ陽炎が触れた瞬間、空間がわずかに歪む。
逃げ道を塞がれた紅は、虚像を維持できずに数歩後退した。
「今ので俺を逃がしていたら、修行やり直しだったな」
紅は楽しげに笑った。
「何度食らったと思ってるんすか」
国谷も口元を上げる。
「もう見飽きましたよ、その魔術は」
「そうか」
紅の赤い瞳が、静かに細くなった。
「なら、これはどうだ」
彼が片手を掲げる。
瞬間、周囲の空気に微細な赤が灯った。
「第二階位――火は空気に紛れ、雨となり降り注ぐ
<エンバー・フォール>」
火の粉が、空から舞い落ちる。
それはただ燃えているだけの火片ではない。
紅の火を通すための印。
触れたものを、次の炎が食らいつきやすい状態へ変える、灼熱の媒介だった。
火の粉が地面へ落ちる。
凍てついた氷床はじゅう、と音を立てて溶け始めた。
「こ、これは……!」
国谷が身を捻る。
だが、舞い散る火の粉のすべてを避けることはできない。
一片。
また一片。
赤い火の粉が、彼の魔装へ触れる。
紅が、指を鳴らした。
瞬間。
国谷の全身が発火した。
「っ……!」
炎が魔装を包み込む。
周囲の魔導師たちが息を呑んだ。
だが、国谷は崩れない。
「そう簡単に、俺は溶けさせないっすよ」
氷の魔力が爆発的に膨れ上がる。
「第二階位――空気は凍てつき、世界は罅割れる<フラクチャード・エア>」
世界が、軋んだ。
空気そのものが凍りつく。
漂っていた火の粉は、赤い光を抱いたまま空中で停止した。
透明な氷が、何もないはずの空間を覆っていく。
そこへ、細い亀裂が走る。
ピシリ。
まるで、空間そのものにひびが入ったかのようだった。
国谷を包んでいた炎は、凍りついた大気に流されるように拡散し、消えていく。
「俺、結構強いんっすよ」
国谷は、薄く笑った。
「少しは成長しているみたいだな」
紅は満足そうに呟く。
「だが――お遊びは終わりだ」
紅の右手に、白い光が宿った。
それは炎ではなかった。
少なくとも、見た目だけなら。
掌に凝縮された光は、太陽の一欠片を切り取ったように眩しく、周囲の輪郭を白く焼いていく。
空気が膨張し、遠くの壁が揺らめく。
地面に残った氷が、触れられる前から音もなく蒸発していった。
国谷の顔が引きつる。
「ま、まじっすか……!」
「第二階位――迸る火は手に集まり、空間に響かせる
<ヘリオス・レイ>」
光線が放たれた。
それは火の槍ではない。
灼熱そのものを一直線に撃ち出したような、白く鋭い破壊の奔流だった。
このままでは、背後の街ごと抉れる。
国谷は即座に両手を広げた。
「第二階位――氷は光を折り、灼熱を天へ逃がす<プリズム・グレイシア>!」
巨大な氷の結晶面が、斜めに展開される。
ヘリオス・レイはその面へ衝突し――真正面から砕くのではなく、氷面を滑るように進行角度を変えた。
灼熱の光が空へ逸れる。
雲を穿ち、白い尾を引いて天上へ消えていった。
「やるじゃないか」
紅はもう、国谷を見ていなかった。
その隙を見逃さず、懐へ踏み込んでいた。
「っ!」
紅の蹴りが、国谷の顔面へ迫る。
国谷は咄嗟に片腕を凍結させ、盾のように構えた。
衝撃を受け止める。
だが、完全には殺せない。
骨まで響く衝撃とともに、国谷の体が大きく吹き飛ばされた。
地面を削り、数メートル滑る。
「ぐっ……!」
腕を下ろし、すぐに紅の姿を探す。
しかし。
そこにはもう、誰もいなかった。
揺らめく陽炎だけが、熱を残して消えていく。
「くっそ!」
国谷は顔をしかめた。
「追うぞ!」
「は、はい!」
圧巻ともいえる戦いに呆然としていた魔導師たちは、その声で我に返る。
慌てて国谷のあとを追って走り出した。
*
bar Emrys。
店内のテレビには、先ほどから同じ映像が何度も流れていた。
魔導局を襲撃する、紅の姿。
坂東源次を名乗る男の声明。
世間を煽るように繰り返される報道。
ソファに座った紬は、口を半開きにして画面を見つめていた。
「ま、マスター……」
「はい」
「く、紅がついに犯罪犯しちゃった……」
紬は震える声で言った。
「わ、私も共犯で国家転覆罪だー……」
「どこで知ったんですか、そんな言葉」
マスターは静かにグラスを拭きながら答える。
「そもそも、あれは偽物です」
「え、偽物?」
紬は勢いよく振り向いた。
「本当に!?」
「ええ。紅様があのような演説をなさるはずがありません」
「そこ!?」
「それに、映像自体もよく見れば不自然です。編集の痕跡がある。あれだけ都合よく、紅様の姿だけを映し続けているのも妙でしょう」
「う、うそっ……」
紬は再びテレビへ向き直る。
先ほどまで本気で信じかけていた自分が、少し恥ずかしくなる。
だが、すぐに別の不安が押し寄せた。
「じゃあ助けに行かないと!」
紬は立ち上がる。
「魔導局が、お姉ちゃんたちが、意気揚々と紅を捕まえに行っちゃうよ!」
「紅様のことです」
マスターは慌てない。
「何か、お考えがあるのでしょう」
「でも……」
「我々は、大人しく待機しておくに限ります」
「でも、紅のこと心配だし……」
紬は両手を握りしめる。
ふざけた言葉を並べていたが、その指先には力がこもっていた。
紅が簡単に負けるとは思っていない。
けれど、追われる立場になった紅が、一人で何を背負い込むのかが怖かった。
「私にできること……できること……」
紬は頭を抱え、店内をうろうろと歩き始める。
「うーん……」
窓の外には、重たい曇り空が広がっていた。
現在、指名手配を受けている男――紅は、一人で歩いていた。
視線を落とし、考え込む。
頭の中では、断片的な情報が何度も組み替えられていた。
坂東は、確かにいた。
姿も、声も、語り口も。
少なくとも、あれは坂東源次の輪郭を持っていた。
だが――蘇ったとは思えない。
なぜなら、紅はこの手で坂東を魂ごと焼き払った。
肉体だけではない。
存在の芯そのものを絶った。
魂が失われた者を蘇らせるなど、第〇階位の魔術であっても不可能に近いだろう。
ならば、あれは魔術ではない。
別の何かで、坂東を“再現”している。
「……」
紅は足を止める。
それに、今回の一連の事件には、妙な違和感があった。
逢楽廻にしては、整いすぎている。
坂東は破滅的だった。
自分の理想のためなら、もっと剥き出しに世界を踏み潰す男だった。
だが今回は違う。
わざわざ紅を招待し、マルスを見せ、騒ぎを起こし、逢楽廻の名を差し出し、通信施設へ誘導した。
餌を撒き、その餌に食いつくタイミングに合わせるように、次の演目が始まる。
まるでゲームだ。
いや。
観客の目線まで計算して作られた、ショーのようだった。
「多々羅司……」
紅は、静かにその名を口にする。
逢楽廻の手口とは違う。
これはどこか、あの男の匂いがする。
リリィに調べさせてはいる。
だが、司に関する情報は不自然なほど綺麗に整理され、肝心な部分だけが霧の向こうにある。
何か、決定的なものが必要だった。
司へ繋がる証拠。
坂東の再現方法。
逢楽廻の拠点。
それを見つけなければ、舞台の中央へ進むことすらできない。
「情報が……情報が足りん」
「おいおい」
軽い声が、すぐそばから聞こえた。
「そんなところで考え事かい」
紅は顔を上げる。
「指名手配さん」
路地の先に、一人の男が佇んでいた。
腰には一本の刀。
口には立派な葉巻。
獰猛な笑みを浮かべ、まるで長年待ち望んだ獲物を見つけた獣のように、紅を見ている。
「やはり来ていたのか」
紅が目を細める。
「爆刀のタムラ」
「お前を殺せる機会なんぞ、滅多にないんだ」
タムラは肩を揺らして笑った。
「そりゃあ来るさ」
「やはり回りくどいぞ。ずいぶんな」
「仕方ないだろ。それがボスの意向なんだ」
タムラは葉巻を指で摘まみ、紫煙を天へ吐き出す。
「そのおかげで、お前を味見できるんだ。幸せだぜ、レイモンド」
紅は、淡々と答えた。
「俺の前に立つ以上、後悔するなよ」
「後悔?」
タムラは刀の柄へ手をかける。
「俺の役目は、お前をある場所まで運ぶことだ」
「……」
「だがしかし、この俺に案内をさせるんだ」
口元が、さらに吊り上がる。
「手段は手荒な方法しか知らねぇ」
「分かるだろ、レイモンド」
「ああ」
紅もまた、わずかに笑った。
「貴様はいつだって荒い男だ」
「なら、やることは一つだろ」
タムラは、葉巻を地面へ落とした。
「ごちゃごちゃ考えたって仕方ねぇだろう!」
煙を踏み消す。
「いざ尋常に――」
紅の指先に、火が宿る。
同時に。
タムラの刀の鞘の内側で、鈍い爆発音が鳴った。
「――殺し合おうぜ!」
爆発の勢いで、タムラの体が弾かれるように前へ出た。
足元でも炸裂。
二重の加速が重なり、彼の姿は一瞬で紅の懐へ迫る。
抜かれる刀は、途中で一度砕けた。
刃が無数の破片となって散る。
だが、そのまま終わらない。
破片は宙で軌道を変え、再び吸い寄せられるように接合していく。
完全な刃へ戻るのと、紅の眼前へ届くのはほぼ同時だった。
迫る業火を、タムラの刀が切り裂く。
そのまま振り抜かれた斬撃が、紅の頬をかすめた。
「……」
紅は最小限の動きでそれをかわす。
頬に、一筋の熱が残る。
遅れて皮膚が裂け、血が一滴だけ落ちた。
紅の手に、業火の剣が形作られる。
次の瞬間。
炎の剣と、タムラの刀がぶつかった。
金属音とは違う、熱と爆ぜる魔力が噛み合うような音が響く。
鍔迫り合いになる――寸前。
タムラの刀が、再び破裂した。
刀身の破片が、至近距離からショットガンのように紅へ襲いかかる。
紅の体が陽炎に揺らぎ、破片は虚像を貫いて背後の壁へ突き刺さった。
だが、それすら計算済みであるかのように。
飛び散った破片は再び空中で軌道を変え、綺麗に元の刀身へ戻っていく。
「ご挨拶は終わりだな」
タムラは、楽しげに刀を肩へ担ぐ。
「目は覚めたか、レイモンド」
「よく眠れたよ」
紅の赤い瞳が、静かに熱を帯びる。
「貴様はやはり、本気を出さねばならんな」
「当然だろ」
タムラは嬉しそうに笑った。
「この俺は、爆刀のタムラ様だぜ」
紅は深紅のコートの裾を揺らし、魔力を解き放つ。
「第二階位――深紅のコートは灼熱に変わり、その身を焦がす<イグニッション・ベール>」
深紅のコートが、灼熱の羽衣へ変わった。
燃えているわけではない。
存在そのものが高温化し、近づく空気を揺らし続ける。
足元の地面が焦げ、細かなひび割れが広がっていく。
そして紅は、右手を掲げた。
「第二階位――灼熱は湧き上がり、収束し、その姿を剣と化す<イグニス・グラディウス>」
炎が掌へ収束する。
揺らめいていた熱が一本へ凝縮され、形を持つ。
赤でも橙でもない。
白に近い灼光を放つ剣。
その刃は金属ではなく、ただ温度だけで世界を切り裂くような存在感を持っていた。
タムラが、口を鳴らす。
「ひゅー。かっこいい」
「ずいぶんとお熱いぜ」
「灰になるなよ、タムラ」
「そっちも、俺に殺されるなよ!」
二人の男が向かい合う。
夕暮れの路地には、もう他の音がなかった。
風も。
街のざわめきも。
遠くのサイレンさえ、届かない。
そこにあるのは、二人の強者が放つ圧だけだった。




