第二十一話 奇術師はいつだってタネを隠さない②
あれから、一か月の月日が経った。
多々羅司は、あの人工知能マルスを政府に売り込んだ。
政府は当初、慎重な姿勢を崩さなかった。
都市全体を一企業の人工知能に管理させるなど、いくら治安維持のためとはいえ危険が大きすぎる。
専門家も、議員も、報道も、最初はそう口にしていた。
だが、ある日を境に空気が変わった。
反対していた者たちは沈黙し、懸念を示していた記事は紙面の隅へ追いやられた。
代わりに、ニュースは連日のように同じ言葉を繰り返す。
犯罪のない街。
誰もが安心して暮らせる社会。
未来の治安維持。
そして何の運命か。
マルスによる都市管理の実験場所として、夕烙区が選ばれた。
それからというもの、街の景色は少しずつ変わっていった。
古い街灯には小型カメラが取り付けられた。
交差点には認証端末が置かれた。
路地裏には警備ドローンが巡回し、工事現場では見慣れない作業用ロボットが土砂を運んでいた。
以前はただ古びているだけだった街が、今では妙に整って見えた。
そして、実際に犯罪は減った。
夜の路地で聞こえていた怒鳴り声は消えた。
駅前でたむろしていた連中も姿を見せなくなった。
酔客同士の喧嘩も、ひったくりも、裏通りの取引も、目に見えて減っていった。
町の治安は、確かに跳ね上がった。
だが、その代わりに失われたものもあった。
人の声だ。
安全になった街から、笑い声が減った。
商店街の店主は、客よりも監視カメラを気にするようになった。
公園では子どもが走らなくなった。
若者たちは路地裏に集まらなくなり、誰もが目立つ行動を避けるようになった。
犯罪者だけが怯えているわけではない。
普通に暮らしているだけの人々も、いつしか首の後ろに視線を感じるようになっていた。
街は安全になった。
その代わり、誰も街を楽しんでいなかった。
*
そんな平和の中でも、bar Emrysには閑古鳥が鳴いていた。
昼下がりの店内には、古びた木の匂いと、磨かれたグラスの静けさだけがある。
いや。
一つだけ、静けさとは無縁のものがあった。
「それでね、それでね紅」
「外は鬱陶しい蠅。中には壊れたラジオのように話し続ける小娘」
紅は煙草を咥えたまま、心底うんざりした顔で呟いた。
「世紀末だな」
「誰が壊れたラジオよ!」
「他に誰がいる」
「せめて最新式スピーカーって言いなさいよ!」
「うるさいことに変わりはないだろう」
ここに来てからずっと喋り続ける紬の声を、紅は右の耳から左の耳へ流していた。
その時、barの扉がゆっくりと開かれた。
入ってきたのは、初老を迎えた男だった。
少し背の曲がったその男は、両手に重そうな荷物を提げている。
「うっかり、買いすぎました」
マスターは荷物をカウンターの端へ置くと、大きく息を吐いた。
それから手を閉じたり開いたりして、自分の指が無事か確かめる。
「以前に比べて、ずいぶんと平和になりましたね」
「まあ、その代わり、人は激減しましたが」
紅は咥えていた煙草を灰皿に押しつけた。
「当然だ。どれが監視しているのか分からん」
店の外へ、紅は視線を向ける。
「そんな中で誰が遊びたいというのか。俺の商売も上がったりだ」
「紅、そもそも商売してたの?」
「黙れ、小娘」
マスターも悲しそうな表情を浮かべた。
「私の仕事も変わらず、閑古鳥が鳴いていますよ」
少し背の曲がったマスターからは、あまりにも哀愁が漂っていた。
さすがの紅も、紬も、何とも言えない目を向ける。
「……暇だ。外に出る」
紅は大きなため息を漏らしながら、椅子から立ち上がった。
「え、待ってよ!」
紬は慌ててオレンジジュースを飲み干し、紅の後を追う。
*
外に出ると、やはり街全体から人の気配が薄れていた。
かつては昼間であろうと、それなりに人の流れがあった。
客引きの声。
商店街の呼び込み。
どこかで起きる小さな口論。
良くも悪くも、夕烙区は騒がしい街だった。
だが今は違う。
通りは整っていた。
警備ドローンは一定間隔で空を巡回し、監視カメラは音もなく角度を変える。
作業用ロボットは正確に道路工事を進め、ゴミ一つ落ちていない道が伸びている。
綺麗だった。
平和だった。
だからこそ、気味が悪かった。
最初は、犯罪者たちもマルスを甘く見ていた。
どうせ機械だ。
裏道を使えばいい。
マギマギアを偽装すればいい。
監視カメラの死角くらい、いくらでもある。
そう考えていた者たちは、一人残らず捕まった。
どれだけ裏で犯罪をしようとも、マルスは見逃さなかった。
人の目が届かない場所にも、機械の目はあった。
やがて、犯罪者だけでなく普通の市民も気づいた。
次は、自分たちの番かもしれない。
信号無視。
無許可駐車。
飲酒運転。
軽い口論。
公共端末への悪戯。
笑って済まされていた小さな逸脱さえ、マルスは記録する。
誰もがこう感じた。
怖い、と。
目は、ありとあらゆる機械に存在する。
その目からは、誰も逃れられない。
「ふん」
紅は近くの監視カメラを見上げた。
「俺を監視しても無駄だ」
カメラのレンズがわずかに動く。
「機械の目で俺を測るなど、悠久の時が経っても不可能だ」
「紅? 誰に話してるの?」
紬が首を傾げる。
「喋ることもできない木偶の坊にだ」
「木偶の坊? 何それ」
「役立たずという意味だ。覚えておけ、お花畑脳みそ」
「お花畑って可愛いじゃん!」
「褒めていない」
二人がそんな調子で歩いていると、少し先の工事現場で異変が起きた。
土を運んでいた土木作業用ロボットのクローラーが、突然止まったのだ。
巨大な車体が、道路の中央で沈黙する。
「おい、どうしたんだ」
作業員たちがロボットの周囲に集まる。
「いや、こいつが急に固まりまして」
「誰か直せるやついるか?」
誰も手を挙げない。
親方らしき男が舌打ちし、仕方なさそうにロボットへ近づいた。
「おい、ポンコツ」
男はクローラー部分を軽く蹴った。
「値段分の働きはしやがれ」
その瞬間。
黒く沈んでいたロボットの目に、赤い光が灯った。
「危険性を確認」
無機質な声が響く。
作業員たちの顔から、笑みが消えた。
「対象を確認」
ロボットの目から赤いセンサー光が伸び、周囲の作業員たちへ向けられる。
腕に装着されたマギマギアが、次々と読み取られていく。
「市民保護を優先」
「潜在的加害対象を検出」
「危険と判断」
「制限を解除します」
親方が後ずさる。
「お、おい……?」
「対象を無力化します」
ロボットの前部に取り付けられていた巨大なブレードが、勢いよく動いた。
鉄の塊が唸りを上げ、親方の体を吹き飛ばす。
「親方!」
一瞬、誰も動けなかった。
だが、赤い目が作業員たちへ向けられた瞬間、ようやく現実が追いつく。
「う、うわぁぁぁぁぁ!」
作業員たちは一斉に逃げ出した。
ロボットはクローラーを軋ませながら動き出し、巨大なブレードを振り上げて追いかける。
逃げ遅れた作業員の一人が、足をもつれさせて転んだ。
「や、やめてくれ……!」
男は涙を流しながら、必死に命乞いをする。
だが、機械に慈悲はない。
「対象、逃走不能」
「無力化を実行」
ブレードが振り下ろされる。
その刃が男に届く寸前。
業火が、ロボットの車体を横から吹き飛ばした。
鉄の塊が横転し、道路を削りながら火花を散らす。
「ふふふ」
深紅のコートが風に揺れた。
「俺の勘は正しい」
紅は嬉しそうに笑っていた。
「ようやく暇を満たせそうだ」
「なんで喜んでるのよ、紅!」
呆れた顔をする紬の横で、紅は横転したロボットを見下ろす。
「貴様、この請求書は俺に送るなよ」
紅は作業員に向けて言った。
「製造会社に送っておけ」
「い、いや、それはそうですが……あなたたちは一体?」
紅は帽子のつばを持ち上げる。
「俺は紅の魔術師だ」
「その相棒だよ!」
紬もなぜか胸を張った。
作業員たちは、何だこいつら、という顔をした。
その時。
横転したロボットの目が、再び点滅する。
「損壊確認」
「紅の魔術師を確認」
「危険度、測定不能」
「支援を要求します」
瞬間、周囲の空気が変わった。
工事現場にいた他の作業用ロボットが、一斉に停止する。
近くの監視カメラが紅へ向く。
作業員たちのマギマギアが勝手に起動した。
「な、なんだよこれ!」
作業員の腕輪から、魔力の光が漏れ出す。
紅は笑った。
「ほう。いいだろう」
その目に、退屈はもうない。
「遊び足りないのなら、付き合ってやる」
作業員のマギマギアから火の玉が飛び出した。
紅はそれを片手で受け止める。
火は紅の掌に触れた瞬間、まるで主を見つけた犬のように従順になった。
「この程度の火で、俺を焼くつもりか」
紅の腕を火が覆う。
揺らめく炎は形を変え、徐々に筒状へと凝縮されていく。
「第三階位 は凝縮され、放たれる<フレイム・ランチャー>」
紅の声が低く響く。
砲台と化した炎から、凝縮された火弾が射出された。
火弾は作業用ロボットの胴体を正面から撃ち抜き、内部の機構を爆ぜさせる。
別のロボットが右側から迫る。
紬が前に出た。
「私だってやれる!」
紬は両手を掲げ、光を空へ放つ。
「第三階位 は巨大な矢となり、敵を貫く<ライトレイン>!」
上空に放たれた光が、巨大な矢となって降り注ぐ。
光の矢はロボットの関節部を貫き、動きを鈍らせた。
だが、完全には止まらない。
ロボットたちが反撃するように、一斉に魔力弾を撃ち出した。
狙いは、逃げ遅れた作業員たち。
「させない!」
紬は空に手を掲げた。
「第三階位 は周囲を覆い、危険を防ぐ<ライトゾーン>!」
淡い光の膜が、作業員たちを包み込む。
魔力弾が結界に叩きつけられた。
光の膜にひびが入る。
「くっ……!」
紬は歯を食いしばった。
結界は揺らぐ。
それでも、数秒だけ保った。
その数秒で、作業員たちは倒れた親方を引きずりながら後方へ逃げる。
「早く!」
紬が叫ぶ。
最後の一人が結界の外へ逃げ出した直後、光の膜が砕け散った。
「どうよ紅!」
紬は振り返り、どや顔を向けた。
「私だって成長してるのよ!」
次の瞬間、残ったロボットの腕が紬へ迫った。
「え」
紬の顔が固まる。
だが、その刃は紬へ届かなかった。
紅の炎が一本の剣へと変わり、ロボットの腕を切り落とした。
続けざまに、紅の姿が掻き消える。
次の瞬間、ロボットの胴体が斜めに裂けた。
爆風が巻き起こる。
煙が晴れると、紅が紬の前に立っていた。
「で」
紅は呆れた顔で振り返る。
「何が、できたんだ?」
紬はバツの悪そうな顔をした。
「お、おかしいなぁ……。さっきまでは完璧だったんだけど」
紅は無言で紬の頭に拳を落とした。
「あでっ! 痛いよ!」
「調子に乗るからそうなる」
「でも、作業員さんたちは守ったもん!」
紬は頭を押さえながら言い返す。
紅は少しだけ目を細めた。
「……そこだけは褒めてやる」
「え」
「だが、最後に死にかけたので減点だ」
「結局褒めてないじゃん!」
暴走したロボットたちは、すべて損傷し、動けなくなっていた。
作業員たちは紅たちに何度も頭を下げながら、吹き飛ばされた親方を安全な場所へ運んでいく。
紅はその一人を呼び止めた。
「貴様らも馬鹿ではあるまい」
「は、はい?」
「触ったわけではないのだろう」
作業員は慌てて手を振った。
「さ、触るわけないですよ! 会社からあれを使えと渡されたものの、詳しい整備なんて専門外ですし」
「ふん」
紅は横転したロボットへ近づき、残骸を見下ろす。
そして、眉をひそめた。
「魔術による操作ではない」
「え?」
「俺が探知しても何も出てこない。魔力の痕跡も、術式の残滓も、外部からの干渉も見えん」
紬がロボットを見る。
「じゃあ、ただの故障?」
「それなら紅の魔術師を確認、などと言わん」
紅は近くの監視カメラへ目を向けた。
レンズが、こちらを見ている。
じっと。
ただ、見ている。
「なるほどな」
紅は小さく笑った。
「見物客がいるらしい」
*
bar Emrysへ戻った紅と紬は、事情をマスターへ説明した。
マスターは話を聞き終えると、静かに考え込む。
「どう思う、マスター?」
紬が尋ねる。
「機械である以上、故障や不具合という可能性もあります」
マスターはグラスを拭きながら答えた。
「しかし、本体だけでなく、周辺のロボットやマギマギアまで連鎖した。そして、紅様を理解していた」
「人為的と考えざるを得ませんな」
「俺もそう思う」
紅はカウンターに肘をつく。
「だが、目的が見えない」
「紅を狙ってるんじゃないの?」
「俺を狙う目的なら、いささか手間をかけすぎている」
「じゃあ?」
マスターが静かに言った。
「品定め、でしょうか」
紅はグラスに入った酒を、味わうように飲んだ。
「この俺を定めようとは、ずいぶん贅沢な者だ」
その口元が、ゆっくりと歪む。
「いいだろう。この俺と勝負したいなら、乗ってやる」
紅は紬へ視線を向けた。
「おい、小娘」
「なによ」
「調査の時間だ」
紅は嬉しそうな顔をしていた。
紬はもう慣れたようにため息を吐き、パンケーキを平らげる。
「はいはい。どうせ行くと思ってました」
マスターだけが、少し不安そうに二人を見ていた。




