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紅の魔術師  作者: ベルナルド
1.5章

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第十九話 ep3 深淵を渡り歩く者③

 朝日が街を照らしていた。


 夜の残り香を追い払うように、ビルの窓が白く光る。

 bar Emrys の屋上には、二つの影があった。


 紅と、安逹聡。


 記者らしく安い缶コーヒーを片手に、安逹は顔をしかめていた。

 紅のほうは、柵にもたれたまま煙草を咥えている。


「……つまり、例の日誌を動かす」

「そういうことだ」

「で、黒騎士ってやつを釣る」

「ああ」

「やっぱり危険じゃねぇか」

「そういう日もある」

「お前、そればっかだろうが」


 安逹は缶コーヒーを一気に流し込んだ。

 軽口を叩いてはいるが、目は笑っていない。


 紅の傷はまだ深い。

 紬が癒してはいるが、万全からは遠いのが見て取れる。

 それでもこの男は止まらない。止まる気もない。


「いいぜ。表で嗅ぎ回ってる連中には漏らしとく」

「恩に着る」

「次こそはちゃんと金払えよ」


 紅は懐から、綺麗に磨かれた金貨を一枚放った。


 安逹が受け取り、眉をひそめる。


「はぁ? なんだよこれ」

「追加依頼だ」

「……嫌な予感しかしねぇな」

「ある女を探せ」

「女?」


 安逹は金貨を指で弾き、呆れたようにため息をついた。


「毎回毎回、換金が面倒なもん渡しやがって」

「文句は生きて帰ってから言え」

「はいはい」


 そう言って、安逹は階段へ向かう。


 途中で一度だけ振り向いた。


「……死ぬなよ、紅」

「誰にものを言っている」

「そういう返しが、一番不安なんだよ」


 安逹は苦笑し、そのまま朝の街へ消えていった。


 昼時。


 公園には、子どもたちの声が遠くに聞こえていた。

 遊具を照らす日差しは穏やかで、昨日までの殺気が嘘みたいだった。


 ベンチに座る紅の前へ、一ノ瀬冴がやってくる。


「……で?」


 紅は血のついた研究日誌を差し出した。


「これだ」

「また、とんでもないもの持ってくるわね」


 冴は受け取り、ぱらぱらと頁をめくる。

 読むほどに、その顔から冗談めいた色が消えていった。


「人工魔魂石。魔人化実験。被験者選別……」

「……」

「これ、表に出たら大騒ぎじゃ済まないわよ」

「だから持ってきた」

「でも、魔導局に渡したところで、全部が全部まともに動くとは限らない。握り潰そうとする連中もいるわ」


 紅は頷いた。


「かまわん。目的はそこではない」

「黒騎士を引きずり出すため、ね」

「そういうことだ」


 冴は日誌を閉じた。

 しばらく紅を見て、それから肩をすくめる。


「乗ってあげる」

「助かる」

「その代わり」


 冴は指を一本立てる。


「駅前のクレープ、おごりなさい」

「……」

「なによ、その顔は」

「命懸けの話の後にそれか」

「命懸けだからこそよ。甘いものは大事なの」

「知るか」

「絶対だからね」


 冴はそう言って、日誌を脇に抱えた。


 立ち去り際、ふと足を止める。


「……紬、また無茶してないでしょうね」

「している」

「でしょうね」


 冴は額を押さえた。


「死なせたら許さないから」

「俺もそのつもりはない」

「ならいいわ」


 冴は公園を去っていく。

 その背を見送りながら、紅は一人、小さく笑った。


「さあ、愚かな犬よ」


 煙草の先が赤く燃える。


「遊ぼうか」


 日が沈む。


 街に夜が降りた。


 人通りの減った道に、一つの影が立っている。

 深紅のコート。腰には真紅の剣。


 紅の魔術師。


 その前方、暗がりの中にもう一つの影があった。

 そして、それは一つでは終わらない。


 いつしか、二つ、三つ。

 やがて数を増やし、通りを埋めるように黒騎士の影が並ぶ。


「ずいぶんと大仰じゃないか」

「そちらこそ」


 闇の奥から黒騎士の声が響く。


「まさか、この私を罠にかけるとはね」

「犬にはしつけが必要だろう」

「……そうかい」


 黒騎士の声音がわずかに沈む。


「噛みつかれても、文句は言わないでほしいね」


 紅は静かに剣の柄を握った。


「おやおや」


 黒騎士が笑う。


「ずいぶんと物騒な剣を持ってきたようだ」

「貴様がちんけな美術品を見せびらかしていたからな」

「……」

「本物の武器とやらを教えてやろうと思ってな」

「本当に、君は癇に障る」


 黒騎士が剣を掲げる。


「第二階位――影は世界を覆い、真実を隠す(ダークナイト)」


 闇が広がった。


 月明かりが消える。

 街灯の輪郭すら呑まれ、夜がさらに深く塗り潰される。


 視界の先は深淵だった。


 そして、その深淵のあらゆる場所から、斬撃が放たれる。


 前。

 横。

 後ろ。

 頭上。

 足元。


 回避不能。

 黒騎士の“必殺”は、逃げ場そのものを奪うための闇だった。


 だが――


 紅は一歩も引かなかった。


 鞘から剣を抜く。


 真紅の刃が、闇の中で一線を描く。


 次の瞬間、放たれた斬撃のすべてが断たれた。


 闇そのものに裂け目が走る。

 覆っていた深淵が、一枚の布のように裂かれていく。


「……ば、馬鹿な」


 月光が戻る。


 夜が、再び夜としての輪郭を取り戻す。


 紅は剣を下ろし、静かに口を開いた。


「俺の名は、レイモンド・アークロイド」

「……」

「人呼んで、紅の魔術師だ」


 黒騎士の怒りが、兜越しにも伝わってきた。


「関係ない……所詮、老いぼれだ!」

「それで?」


 黒騎士が突っ込む。


 剣が紅へ走る。

 だが紅は、それを軽く払った。


 二撃。

 三撃。

 黒騎士の剣が重く鋭く食い込むたび、紅の剣は最小限の動きでいなしていく。


 やがて、剣先同士がぶつかった。


 押し合いではない。

 技量の差が、そのまま結果になった。


 黒騎士の刃が弾かれ、体勢が崩れる。


「貴様……!」

「どうした、黒き鎧を纏う騎士よ」


 紅が薄く笑う。


「剣の腕で負けたからといって、そう卑下するな」

「……っ!」

「俺が強すぎるだけだ」


 黒騎士の喉から、獣じみた声が漏れた。


「第二階位――影はその身を、動かす(シャドウ・オートマチック)」


 影が、鎧と肉体の隙間へ流れ込む。


 黒騎士の速度が変わった。


 脳で考えるより先に、影が戦闘動作を補完する。

 反応の限界を踏み越えるためだけの、不気味な補助。


 だが紅は眉一つ動かさない。


「戦闘さえ他人任せか」

「何だと」

「底が知れる」


 紅の剣に炎が走る。


 真紅の刃が、さらに深い紅を帯びた。


「その身で味わえ。俺の炎を」


「第三階位――火は燃え盛り、炸裂する(ブレイブ・バースト)」


 振り下ろされた一撃。


 黒騎士は影の加速で迎え撃つ。

 だが、受けきれない。


 剣ごと押し込み、炎ごと断ち切るような一太刀が、黒騎士の鎧を深く裂いた。


 甲冑が割れる。


 中から、苦虫を噛み潰したような顔の男が現れた。


「あのお方に譲り受けた鎧を……!」

「おっと」


 紅は悪びれもせず言う。


「そこまで軟いとは思っていなかった」

「貴様……!」

「すまなかった」


 その一言で、何かが決定的に切れた。


 失態。

 失態。

 失態。


 それは黒騎士が何より恐れ、嫌悪する言葉だった。


 黒騎士はマギマギアへ、禍々しい魔痕跡を叩き込むようにはめ込んだ。


「貴様だけは……何としてでも殺す!」


「魔装全開!」


 どろり、と裂けた甲冑が変質する。


 先ほどまでの美しい黒ではない。

 血に濡れたような、醜く脈打つ黒が、黒騎士の全身へまとわりついた。


 外側も。

 内側も。

 影が全部、黒騎士を喰っていく。


「がああああああっ!」


 理性を残したままの狂化。

 誇りを守るために、誇りそのものを失う姿。


 紅はその異形を見て、不敵に笑った。


「よく似合っているぞ、その姿」

「……!」

「いかにも、貴様が殺した化け物と同じだ」

「黙れッ!!」

「だが、やつはプライドまでは屈しなかったぞ」


 黒騎士が咆哮し、剣を突き出す。


 紅の胸を貫く軌道。


 だが、その身体は陽炎に溶けた。


 背後から、紅の声が降る。


「教えてやる」

「……」

「貴様が踏みにじったものたちの“想い”とやらをな」


 紅が詠う。


 声は低く、静かで、それでいて熱を孕んでいた。


揺り籠の闇、打ち鳴らされた石が、夜を呪ったあの日から。

其は天より掠め取った原罪。

されど、歩みを止めることを許さぬ――知恵という名の呪縛なり。


 火が灯る。


 紅の上空に、小さな炎の球が現れた。


 だがそれは、ただの火球ではない。

 夜を朝に変えるほどの火そのものを、無理やり一点へ押し込めたような存在だった。


「第二階位――人智を啓く黎明のアトラム・ハシース


 小さな太陽。


 その一語が最もしっくりくる。


 周囲から闇が消える。

 影の濃度が薄れ、黒騎士の土俵そのものが崩れていく。


「……第二ラウンドだ」


 黒騎士に、言葉はなかった。

 それでも本能で分かる。


 あれを止めなければ死ぬ。


「がああああああ!」


 黒騎士が駆ける。


 分身は出せない。

 夜が薄い。

 影が足りない。


 だが鎧の内側には、まだ影がある。


 肥大化した影が筋肉のように黒騎士を駆動する。

 刹那、紅の目前まで肉薄した。


 その剣が届くより先に、小さな太陽が反応する。


 光線。


 圧縮された火が、一筋の光となって黒騎士へ落ちた。


「がっ――!」


 鎧が焼ける。

 次の瞬間、右腕が肘から先ごと消し飛んだ。


 黒騎士が地面を転がる。

 その姿に、もう先刻までの威厳はない。


「ああああああああっ!!」

「無様だな、黒騎士」


 紅は冷たく見下ろす。


「安心しろ。この魔術を発動中、俺は他の魔術を使えん」

「……」

「この通り、ただの人だ」

「……っ」

「狙うなら、ここだぞ」


 紅はわざと首元を見せた。


 黒騎士は怒りに濁った目で見上げる。

 だが、その視線は紅ではなく、上空の小さな太陽へ向く。


 黒騎士は賢い。

 まだ壊れきってはいなかった。


 地面を蹴る。

 左手一本で剣を持ち、投擲の構えを取る。


 影で肥大した筋力が、その一投へ全て乗る。


 剣が放たれた。


 一直線に、紅の心臓へ。


 小さな太陽は、自らへ向かう危険ではないため反応が遅れる。

 だが紅は、すれすれで身体を捻った。


 剣先が胸元を掠めて飛び抜ける。


「おい」


 紅が黒騎士を見下ろす。


「忘れてはいないか」

「……」

「魔術がなくとも、俺は貴様より強いことをな」


 黒騎士が舌打ちし、地面へ手をつく。


 影を潜らせる。

 紅の足元へ忍ばせ、下から貫くつもりだった。


 だが影が紅に届く寸前で、上空から光線が降り、地面ごと焼き払った。


「……っ」

「実に憐れだな、黒騎士」


 紅の声は、もはや怒りすら越えて静かだった。


「悪いが、俺にはプライドがある」

「……っ」

「依頼は守る主義だ」

「……」

「ここでお前を殺すことで、せめてもの謝礼とさせてもらう」


 紅は真紅の剣を抜く。


 その刃を、はるか上空へ向けた。

 まるで、誰かに見せるように。


「さらば、醜いトカゲよ」

「……」

「だが、貴様の精神は見事であった」


 振るわれた一閃は、世界ごと断ち切るようだった。


 黒騎士の身体が、静かに両断される。


 音が消えた。


 小さな太陽もまた、その役目を終えたようにほどけていく。

 再び夜が戻る。


 紅は剣を鞘へ納めた。


「これにて」


 月明かりが、紅の横顔を白く照らす。


「依頼は達成とさせてもらう」


 その顔は珍しく、優しかった。


 夜更け。


 彼女は窓辺で満月を見上げていた。


 一年前。

 喧嘩したまま、恋人は死んだ。


 何度も思った。

 もう一度だけ会えたら、と。


 でもそれは叶わない。

 だから前に進むしかなかった。


 それでも、忘れた日は一度もない。


 もし彼が本当に自分を想ってくれていたなら、きっと立ち止まることは望まないだろう。

 そう思って、今日まで生きてきた。


 インターホンが鳴る。


「……こんな時間に?」


 扉を開けると、そこには小さな少女が立っていた。


 紬だった。


「夜分遅くにすみません!」

「え……?」

「これを、あなたに届けたくて」


 紬は、小さな箱を差し出す。


 女性は戸惑いながら受け取った。


「あの……あなたは?」

「それでは!」


 紬は深く頭を下げ、そのまま去っていく。


 説明はしない。

 これは紅ではなく、紬が届けるべきものだと、そう思ったからだった。


 自分は誠司の人生を知らない。

 彼女との時間も知らない。

 だから勝手な言葉を添える資格はない。


 でも、渡すことだけはできる。


 それだけで十分だと、今は思えた。


 女性は扉を閉め、小箱を開く。


 中には、橙色の小さな宝石がついた指輪が入っていた。


 誰からなのか。

 どうして今なのか。

 何一つ分からない。


 けれど。


 その石を見た瞬間、胸の奥に懐かしい熱が広がった。


 思い出す。

 笑った顔。

 ぶっきらぼうな声。

 不器用なくせに、真っ直ぐだったあの人。


「……誠司」


 雫が一つ、橙色の石へ落ちる。


 宝石がきらりと光った。


 まるで最後に一度だけ、彼がそこにいたと伝えるみたいに。

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