第十八話 ep3 深淵を渡り歩く者②
bar Emrys の扉が開いたとき、夜の匂いと一緒に、疲労と血の気配が流れ込んだ。
「お、重いのよ紅……!」
「文句を言うな……小娘」
「言うよ! めちゃくちゃ重いもん!」
紬が肩を貸し、その反対側を、あの一般人の男が半ば引きずるように支えている。
二人がどうにかこうにか運び込んだ先で、紅は不機嫌そうに足を引きずっていた。
背中には黒騎士の剣傷。
紬の応急回復がなければ、まともに歩けたかどうかも怪しい。
「おやおや」
カウンターの奥から、マスターが医療箱を持って現れる。
「紅様。ずいぶんと痛手を負いましたな」
「……死んではおらん」
「それは紬様の回復魔術が間に合ったからですよ」
「ほら! 感謝してよね紅!」
「うるさい」
紅は椅子にどさりと腰を下ろし、そのままグラスを掴んで酒をあおった。
礼の一つもない反応に、紬はむっと頬を膨らませる。
だが、その横で立ち尽くしていた男は、そんなやり取りに割って入る余裕すらなかった。
「……な、なんだよ、これ」
声が震えている。
「あの騎士、なんなんだよ」
「……」
「お前らは何者なんだよ。何で、影から剣が出て、火が空を埋めて、光が鎧を貫くんだよ」
至極まっとうな反応だった。
ついさっきまで、彼は普通の夜道を走っていたただの男だ。
それが今は、殺し合いの中心に巻き込まれ、化け物と魔術師のいる店に立っている。
理解できるはずがない。
紅は煙草に火を灯し、煙をゆっくり吐き出した。
「ずいぶんと運のないやつだ」
「運がないで済ませるなよ!」
「殺し屋が人を殺すところを見たんだ。運が悪い以外に何がある」
「はぁ!?」
「やつの主は知らん。だが、それなりにでかい勢力の犬だ」
男の顔から血の気が引いていく。
「じゃ、じゃあ俺……」
「死んだな」
紅が小さく笑う。
「ひっ……」
「冗談だ」
「笑えねぇよ!」
「安心しろ」
紅は灰皿に煙草を押しつけた。
「お前は俺が守る」
「……え?」
「その代わり」
紅の視線が、男の手元へ落ちる。
そこには、誠司が残した橙色の宝石があった。
「その石を寄越せ」
男は手の中の宝石を見る。
高そうだ。
ただの石には見えない。
けれど、さっきまで自分の背後に死が立っていたことを思えば、迷う理由にはならなかった。
「……分かったよ」
「命には代えられんか」
「当たり前だろ!」
紅は頷く。
「依頼は成立した」
「依頼?」
「お前を生かす依頼だ」
「……そんな軽く言うことかよ」
男はまだ震えていた。
だが、その震えの奥に、わずかな安堵も混じり始めている。
紅はグラスをもう一口流し込み、立ち上がった。
「だが今のままでは、やつには勝てん」
「……」
「しばらく潜るぞ」
マスターが無言で鍵を差し出す。
紅はそれを受け取り、もう片方の手で新しいグラスまで奪うように取った。
「喜ぶでしょうな」
「……ちっ。あれは苦手だ」
「へぇ?」
その反応に、紬と男が同時に首を傾げる。
bar Emrys の奥。
酒瓶や段ボールが整然と積まれた倉庫を抜けると、さらにその先に古い扉があった。
紅は慣れた手つきで鍵を差し込み、開ける。
中にあったのは、下へ続く階段だった。
「え、まだ奥あるの?」
「この店、どうなってんだよ……」
紬と男が顔を見合わせる。
紅は振り返りもせず階段を降りていく。
「何をぼさっとしている。置いていくぞ」
「待ってよ!」
「待ってくれよ俺も!」
二人も慌てて後を追った。
地下に広がっていたのは、工房だった。
壁には異国の武器。
台には分解途中の魔導具。
棚には薬瓶、工具、何に使うのか分からない巨大な腕のような機構。
動物の剥製すら飾られていて、そのどれもが一歩間違えば博物館か違法倉庫だった。
「……なにここ」
「夢に出そうなんだけど」
紬と男は呆然と立ち尽くす。
その空気を裂くように、紅が奥の机を軽く叩いた。
そこには、突っ伏して眠っている女がいた。
「おい」
「んぅ……もう食べれないよぉ……」
紅は容赦なく、もう一度頭をひっぱたいた。
「いたっ! なによぉ、お父さん――」
寝ぼけた声が、途中で止まる。
女は紅の顔を見るなり、目を見開いた。
次の瞬間、机の上の化粧道具を掴み、信じられない速度で顔と髪を整えていく。
ほんの数秒前まで、ぼさぼさの髪で寝惚けていた人間と同一とは思えない。
黒髪は艶やかに流れ、目元は整い、口元には余裕の笑み。
豊満な胸元すら、計算して見せているようだった。
「ちょっと紅! 来るなら来るって言ってよ!」
「急ぎだ」
「匂い、大丈夫よね……?」
彼女――りりィは自分の服に鼻を寄せ、真剣に匂いを確かめる。
その姿に、紬も男も何とも言えない顔になった。
「おい、りりィ。俺の相棒はどこだ」
「あら」
りりィの表情が少し柔らかくなる。
「寂しがってたわよ」
「それは悪いことをした」
「こっち」
りりィは踵を返し、さらに奥の部屋へ進む。
そこは工房の中でも、別格の場所だった。
違法すれすれどころか、明らかに違法そうな魔導具が並ぶ通路の先。
厳重なロックがかかった扉がある。
りりィが指をかざす。
認証音。
次に紅が指を近づけると、第二のロックが外れた。
扉が開く。
中に納められていたのは、一振りの剣と、一着の軍装だった。
血を凍らせて、そのまま研ぎ澄ませたような真紅の剣。
美しい鞘には細かな装飾が走り、ただの武器ではないと一目で知れる。
隣には、夜を裁ち切って仕立てたような深紅の軍装が静かに掛けられていた。
空気が変わる。
紬も男も、思わず息を呑んだ。
今まで見てきた紅の炎とも、普段の深紅のコートとも違う。
もっと古く、もっと深い“紅”だった。
「……これ」
「紅の本式よ」
りりィが小さく笑う。
「普段の紅は、言ってみれば手癖で戦ってるだけ。これは違う」
「……」
「本気で、殺す時の紅」
紬の背筋がぞくりとする。
紅は無言で剣を手に取る。
ゆっくりと抜いた刃は、鈍く赤い光を返した。
「待たせたな、相棒」
その声音だけが、ほんの少し柔らかい。
「デートをしようか」
紅は剣を鞘に納め、腰に佩く。
その動作は妙に馴染んでいた。まるで、今ようやく身体の一部が戻ったみたいに。
普段使わない理由は簡単だった。
必要がないからではない。
これを持つ時は、本気で“終わらせる”時だからだ。
「りりィ。小娘に軽い武器を」
「いいわよ」
りりィが紬の前に立つ。
その目は、値踏みするようでもあり、面白がるようでもある。
「ふぅん。で、この子が紬ちゃん」
「え、なんで知って――」
「紅は私のダーリンだもの。周りの女の子くらい把握してるわ」
「へぇぇ!? ち、違うから! 狙ってないから!」
紬が真っ赤になって否定する。
りりィはくすくす笑いながら、壁際から一丁の銃を取り出した。
古めかしいが、雑には見えない。
細部まで調整された“道具”の気配がある。
「この子は頑丈よ」
「銃……」
「でも乱暴に扱うのは駄目。拗ねるから」
りりィは紬の頭を軽く撫でる。
金髪が乱れて、紬は情けない声を上げた。
「うわぁぁ、髪……!」
「可愛いじゃない」
続いて、りりィは男を見た。
少し考え、短いナイフを一本差し出す。
「はい、あんたはこれ」
「……ナイフ?」
「ナイフ」
「いや、こう……斬撃が飛ぶとか、毒が塗ってあるとか」
「よく切れるわよ」
「普通のナイフじゃねぇか!」
「十分でしょ。あんた、まだ足も震えてるもの」
「うっ」
図星だった。
男は悔しそうに顔をしかめながら、それでも受け取る。
その様子に、紅が鼻で笑った。
紅は部屋を出ようとする。
りりィが少しだけ寂しそうな顔をした。
「もう行っちゃうの?」
「ああ。まだ依頼は終わっていない」
「そう」
りりィはすぐに微笑みへ戻った。
「次は、お茶でもしましょ」
「剣の礼だ。いいだろう」
「約束よ」
そのやり取りを見ていた紬の胸に、何となくもやがかかる。
何だろう。
この女の人、苦手だ。
でも紅が自然に話しているのも、少しだけ気に食わない。
「行くぞ、お前ら」
「はーい」
「お、おう……」
階段へ戻る直前、りりィが当然のように言った。
「お父さんにもよろしくね」
「……お父さん?」
紬と男の声が重なる。
りりィはきょとんと目を瞬かせた。
「上でマスターしてるの、うちのお父さんよ?」
「「似てない!」」
見事に揃った声だった。
りりィは楽しそうに笑う。
「みんなそう言うのよね」
「え、いや、だって……」
「いつでも来てね、紬ちゃん」
「だからなんで名前……!」
言い切る前に、紅が紬の襟首を掴んで引っ張った。
「いくぞ、小娘」
「雑!」
三人は再び bar Emrys へ戻る。
さっきまでの慌ただしさが少し落ち、店内には静かな灯りだけが残っていた。
マスターの姿はない。
紅は椅子へ座り直し、剣を腰に置いた。
男はナイフを何度も見ている。
まだ夢みたいな顔だ。
紬は銃を膝に置きながら、紅を見つめる。
「……で、これからどうするの?」
紅は煙草に火をつけた。
煙を吐き、赤い目をわずかに細める。
「奴のことだ。すぐには来ん」
「え?」
「さっきので、俺と小娘の手札を多少は見た。なら次は、油断した隙か、確実に殺せる局面を選ぶ」
「……」
「つまり、待っていても向こうからは半端な形でしか出てこない」
紬は頷く。
十八話で見た黒騎士は、そういう敵だった。真正面から戦っても、最後には必ず勝ち筋を拾いに来る。
「だから、こっちから罠を張る」
「罠?」
紅は懐から、血のついた研究日誌を取り出した。
十九話冒頭からずっと持っていた、地下研究所の証拠。
「これを、公にする」
「え……?」
「魔導局へ届け、記者にも流す」
男が目を丸くする。
「そ、それ、もみ消されるんじゃないのか?」
「一部はな」
紅は口元を歪めた。
「だが問題はそこじゃない」
「……?」
「黒騎士は、命令で動く犬だ。だが、それだけではない」
「何が言いたいの?」
「プライドだ」
紅の笑みが、ひどく悪童じみたものに変わる。
「奴は自分の失敗を何より嫌う」
「失敗……」
「誠司を逃がしたこと。研究所を壊されたこと。俺に証拠を持ち出されたこと。全部だ」
「……」
「俺がこの日誌を外へ流せば、奴にとっては“自分の失態が世間に晒される”ことになる」
「それを、止めに来るってこと?」
「ああ」
紅は断言した。
「奴は必ず、俺がそれを渡す前に潰しに来る」
「でも、それって危なくない?」
紬の問いはもっともだった。
わざと敵を呼ぶのだ。しかも、今まで何人も殺してきた相手を。
だが紅は笑う。
「危ないに決まっている」
「開き直るな!」
「だが、向こうが勝ち筋を選ぶように、こちらも奴の性格を選ばせることはできる」
「……」
「今度は“出てきたところを叩く”」
「黒騎士を、狩る側に回るってことか」
「そういうことだ」
男が青ざめる。
「お、俺、その話の中に入ってて大丈夫なのか?」
「今さら何を言う」
「いや、今さらだけども!」
「安心しろ。お前は餌だ」
「全然安心できねぇよ!」
紬が思わず吹き出しかけたが、すぐに真顔へ戻る。
誠司は死んだ。
黒騎士はまだいる。
紅は傷を負っている。
笑っていい状況じゃない。
それでも。
ここで立ち止まっていたら、誠司が残したものは全部無駄になる。
紅は煙草を指先で揺らした。
「安逹にも話を通す」
「記者さん?」
「ああ。魔導局にだけ渡して終わりでは、揉み消される可能性が高い。だから表と裏、両方を同時に動かす」
「なるほど……」
「奴が潰したい情報の出口を、あえて増やすわけだ」
「その通りだ」
紬は息を吐く。
無茶苦茶だ。
でも、紅らしい。
真正面から力で殴るだけじゃない。
相手の性格ごと計算して、火の中へ引きずり出す。
紅は深く背もたれに寄りかかった。
「次は」
赤い目が、静かに燃える。
「完膚なきまでに叩きのめす」
その言葉には、怒りだけではないものが混ざっていた。
誠司の死。
黒騎士のいやらしい強さ。
自分の不調。
全部を呑み込んだ上で、それでもなお狩る側へ回る意思。
紬は銃をぎゅっと握る。
「……大丈夫かな」
「何がだ」
「私たち」
「今さら怖じ気づいたか」
「そうじゃないけど……」
紬は小さく笑う。
「でも、次はちゃんと当てるから」
「外すなよ、小娘」
「分かってる」
「死ぬなよ、嬢ちゃん」
「そっちもね」
三人の言葉が、夜の bar に静かに落ちる。
ここはまだ、嵐の前だ。
けれど、その静けさの中で確かに形になったものがある。
逃げるためではない。
守るためでもない。
今度こそ、仕留めるための準備だった。




