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紅の魔術師  作者: ベルナルド
1.5章

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第十七話 ep3 深淵を渡り歩く者

 路地裏には似つかわしくない光だった。


 煤にまみれながらも、なお橙色を宿した小さな宝石。

 それを挟んで、二つの影が向かい合っていた。


「ほ、本当なんだ……! 俺の前に転がってきたんだよ!」

「……」

「拾おうとしたら、あそこに、なんか黒い騎士みたいな――」


 男は震える手で宝石を握りしめていた。

 さっきまで全力で逃げていたのだろう。息は荒く、顔色も悪い。目も落ち着かず、何度も後ろを振り返っている。


「ほんとだよ! 嘘じゃない!」

「分かっている」


 紅は宝石を見つめたまま言った。


 その橙色には見覚えがあった。

 ガーネット。

 彼が彼女へ渡すはずだった指輪についていた宝石の色。


 帽子の鍔を強く押さえる。

 怒りを押し込めるみたいに。


「その場所へ案内しろ」

「は、はぁ!? やだよ! あいつがまだいたらどうすんだよ!」

「案ずるな。俺がいる」

「そういう問題じゃ――うわっ!」


 紅は男の首根っこを掴み、そのまま引きずるように歩き出した。

 男は情けない声を上げながらも逆らえない。


 少し進んだところで、紅は足を止める。


「ここか」

「そ、そうだけど……って、おい、聞いてるのかよ! 本当に戻ってきたらどうするんだよ!」


 男の声は半分泣いていた。

 だが紅は、その声を聞いていなかった。


 嫌な気配がした。


 ぞわりと、空気の裏側を何かが撫でたような違和感。

 紅は即座に男を自分の方へ引き寄せ、周囲に陽炎を立ち上らせる。


「……ある程度の強者には、やはり効かんか」

「え?」

「下がっていろ」


 次の瞬間、男の背後の闇が立ち上がった。


 黒い甲冑。

 黒い剣。

 夜を固めて人型にしたような存在。


 黒騎士。


「う、うわぁっ! あ、あいつだ!」

「……貴様か」


 紅の声が低く落ちる。


「俺の依頼人を殺したのは」

「依頼人、ね」


 黒騎士は兜の奥でため息をつくように言った。


「あのクズめ。死に際まで余計なものを残してくれた」

「貴様」


 紅の目が細くなる。


「私としては、まだ君と正面からやり合うつもりはなかったんだがね」

「そうか」


 紅はケースから煙草を取り出し、口に咥える。

 指を鳴らす。火が灯る。

 煙を吸い込み、ゆっくり吐き出した。


「だが、俺の依頼人を殺した」

「……」

「なら、俺に殺される覚悟くらいは持て」


 その一言とともに、紅の周囲に立つ陽炎が濃くなる。

 熱に耐えきれず、男がふらつきながら後退った。


「あつ……っ」


 黒騎士はけだるげに剣を抜いた。


「まったく。残業とは難儀なものだ」


 先に動いたのは紅だった。


 煙草の火が腕へ移り、たちまち業火へ変わる。

 そのまま解き放つ。


 黒騎士へ一直線に走る炎。


 だが同時に、黒騎士は剣を地面へ突き立てた。


「第二階位――影は蠢き、忠実な騎士となる」

「ドッペルゲンガー」


 地面の影が盛り上がる。

 一つ、二つではない。

 無数の黒い人影が、黒騎士と同じ甲冑姿を取って立ち上がった。


 業火が幾体かを飲み込む。

 だが焼け落ちた影の向こうから、次の影がすぐに立ち上がる。


 黒騎士の本体は、その奥で一歩も動かない。


「数で押すつもりか」

「合理的だろう?」


 無数の影騎士が紅へ迫る。


 紅は陽炎を強く立ち上らせ、近づく影を焼く。

 一本、二本、三本と剣を受け流し、炎でまとめて薙ぎ払う。


 けれど影は止まらない。

 主の命だけで動く兵のように、痛みも恐怖もなく詰めてくる。


 紅は舌打ちした。


(……妙だな)


 数そのものは厄介だ。

 だが、一体一体はそこまで重くない。


 ならば、狙いは消耗。


 紅はあえて少し押されるように後退した。

 剣が肩を掠め、腕に浅い傷が走る。

 次の一撃を陽炎で焼き切る。


 その間も、視線だけは影の奥を探っていた。


 どこだ。


 この数を維持しながら、安全圏にいる本体は。


 さらに二体、三体。

 紅は燃やし、裂き、踏み越える。

 だが、その動きの合間に、ほんのわずかだけ“熱の流れ”が不自然に揺れる場所があった。


 影の中心ではない。

 少し外れた、壁際。


 影たちがそこだけを、微妙に避けて動いている。


「……そこか」


 影の刃が脇腹を掠める。

 紅はあえて膝をついた。


 男が息を呑む。


「お、おい……!」


 無数の影騎士が、喜ぶようにじわじわ間合いを詰める。


「終わりか、紅」

「安心しろ。君も、あのクズと同じ場所へ送ってやる」


 黒騎士の声がした。

 だが声の位置と影の位置が微妙にずれている。


 紅は、そこで笑った。


 不敵に。

 まるでようやく答え合わせが終わったかのように。


 黒騎士の空気がわずかに変わる。


「……何がおかしい」

「簡単な話だ」

「ほう」

「思ったより、つまらん魔術だと言っただけだ」


 紅はゆっくり立ち上がる。

 赤い目は、目の前の影たちではなく、その奥の壁際をまっすぐ射抜いていた。


「そんなところに隠れていないで、出てきたらどうだ」

「……」

「チキン野郎」


 一拍の沈黙。


 次いで、壁際の闇から、本体の黒騎士が姿を現した。


 兜に隠れた顔は見えない。

 だが、苛立ちははっきりと伝わる。


「作戦だよ、作戦」

「何を言おうが、貴様が臆病者であることに変わりはない」

「その口、切り刻んでやる」

「焼き鳥は好きかな、黒騎士?」

「……貴様」


 黒騎士の剣が低く構えられる。


「第二階位――影はその身を縛り、肉体は補強される(シャドウ・エンハンス)」


 影が甲冑の隙間から内側へ染み込み、黒騎士の動きが変わる。

 先ほどまでとは比べものにならない速度で、一気に間合いを詰めた。


 重い。


 剣速ではない。

 踏み込みそのものが、影ごと滑るように速い。


 紅を両断する軌道で、漆黒の剣が振るわれる。


 だが。


 切り裂かれた紅の身体は、そのまま陽炎へ崩れた。


「……何っ!?」


 次の瞬間、路地を埋める陽炎の一つ一つが、紅の輪郭を象る。


 無数の“紅”。


「何も、貴様だけの専売特許ではない」

「小癪な!」


 陽炎の紅たちが一斉に黒騎士を囲う。


 熱が閉じる。

 逃がさぬように。

 影を燃やし尽くすためだけに。


 黒騎士が剣を振るうたび、陽炎が揺らぐ。

 だが揺らいだ先から、また新しい像が立つ。


「くっ……!」


 陽炎が檻になる。


 その上空。

 熱の中心に、紅の本体が浮かんでいた。


 手の中に、赤い炎の球体がある。

 小さい。

 だが、凝縮されすぎた熱が、見ているだけで不吉だった。


「さあ、黒騎士」

「……」

「丸焦げにしてやろう」


「第三階位――陽炎は圧縮し、焼き払う球体と化す(ミニ・フレア)」


 炎球が放たれる。


 黒騎士を囲う陽炎の檻の中で、爆炎が咲いた。

 熱は逃がさず、周囲への被害だけを極力抑える。


 紅は地面へ降り立つ。

 だが着地の瞬間、わずかに眉をひそめた。


 軽い。


 手応えが、軽すぎる。


 本来なら、今の一撃で鎧ごと融かせたはずだ。

 出力が足りない。


 十五話から続く不調。

 冴を救った際に負った歪み。

 ようやく戻しつつあったはずの火力が、まだ完全には戻っていない。


 煙が晴れていく。


 そこに立っていたのは、焼け焦げながらも倒れない黒騎士だった。


 鎧の表面は赤く焼け、ところどころ煤けている。

 だが、致命には遠い。


「……どうだ。浴びた気分は」

「ふ、ははは……」


 黒騎士が低く笑う。


「なるほど」

「何がだ」

「君は本当に、本調子ではないのだな」


 紅は舌打ちを噛み殺す。


 黒騎士は自らの胸甲を叩いた。


「この鎧は旧世代とはいえ、貴族用に作られた最高位の魔導装甲だ」

「……」

「第三階位の魔術程度では、致命傷には至らない」

「実に面倒なものを着ている」


 分かっていた。

 だが、ここまで“落ちている”とは、紅自身も認めたくなかった。


「だが」


 黒騎士が剣を持ち上げる。


「この身を焦がしたんだ。命をもらわねば、気が済まない」


 黒騎士が剣先を向けた。


 紅ではない。


 物陰で腰を抜かしていた男へ。


「ひっ……」

「甘いな、紅」


 紅が陽炎と化して男へ飛ぶ。


 だが、その一瞬の先を黒騎士は読んでいた。


「私は影だぞ」


 男の背後の影から、剣が生える。


 紅は間に割って入った。


「がっ――!」


 剣が紅の背を貫く。


 男の代わりに。


「紅!?」


 少し離れた場所から、紬の声が響いた。


 追ってきていたのだ。

 だが、間に合わないと思っていた。

 だからこそ、その叫びには恐怖が混じっている。


 紅の体から血が流れる。

 黒騎士は、そのまま剣先を向けたまま笑った。


「紅。お前は強い」

「……」

「だが、私はお前より強い」


 紅は炎を起こそうとする。

 だが、今この場で不死鳥の寵愛を切るわけにはいかなかった。


 ここで一度蘇れば、ようやく戻りかけている出力がまた底へ戻る。

 それでは、この敵には届かない。


 黒騎士の剣が、今度は紅の首を狙って振り上がる。


 その瞬間だった。


「そこまでよ!」


 圧縮された光が、闇を裂いた。


 黒騎士の体が、真正面から照らされる。


「なに――!?」


「第二階位――光は圧縮され、放たれる一撃は祝福となる(バーステッド・ライト)!」


 紬の魔術だった。


 未熟だ。

 出力も荒い。

 けれど第二階位は第二階位。


 しかも、光は影の天敵に近い。


 黒騎士の鎧を貫き、その身を焦がす。


「があああああっ!」


 黒騎士が叫ぶ。


 光は長く続かない。

 紬の魔力は一瞬で底をついた。


 だが、その“一瞬”で十分だった。


 黒騎士は一歩、二歩と後退り、紅と紬を睨んだ。

 その視線には、初めて明確な警戒が宿っていた。


「……小娘が」

「ざまあみなさい」


 紬は肩で息をしながらも、笑ってみせる。

 膝は震えている。

 それでも目は逸らさない。


 黒騎士は沈黙ののち、舌打ち混じりに影へ沈み込んだ。


「次は、容赦しない」

「こちらの台詞だ」


 闇が閉じる。

 黒騎士の気配は消えた。


 静寂が戻る。


 紬はすぐ紅へ駆け寄った。


「紅!」

「……遅い」

「うるさい。助けたでしょ」

「小娘め」


 紅がわずかに笑う。


 その表情を見た紬は、胸を張るように言った。


「ほらね。私はできるのよ!」


 強がり半分。

 誇らしさ半分。

 でも、その一言には、これまでの無力さを破った実感が確かにあった。


 紅は帽子を少し深くかぶり直す。


「調子に乗るな」

「ひどい」

「だが……悪くはなかった」

「それ、褒めてる?」

「好きに取れ」


 そこで紬の視線が、紅の背に走った。


 服が裂け、血が滲んでいる。


「って、ちょっと待って! その傷、まずいじゃない!」

「騒ぐな」

「騒ぐよ!」


 紬は慌てて癒しの魔術を構築しようとする。

 その手はさっきの光を撃った反動で震えていた。


 少し離れた場所では、助けられた男が腰を抜かしたまま呆然としていた。


「な、なんだ……これ……」


 魔術。

 影。

 炎。

 光。


 目の前で起きたことを、彼の常識はまだ受け止めきれていない。

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