第十七話 ep3 深淵を渡り歩く者
路地裏には似つかわしくない光だった。
煤にまみれながらも、なお橙色を宿した小さな宝石。
それを挟んで、二つの影が向かい合っていた。
「ほ、本当なんだ……! 俺の前に転がってきたんだよ!」
「……」
「拾おうとしたら、あそこに、なんか黒い騎士みたいな――」
男は震える手で宝石を握りしめていた。
さっきまで全力で逃げていたのだろう。息は荒く、顔色も悪い。目も落ち着かず、何度も後ろを振り返っている。
「ほんとだよ! 嘘じゃない!」
「分かっている」
紅は宝石を見つめたまま言った。
その橙色には見覚えがあった。
ガーネット。
彼が彼女へ渡すはずだった指輪についていた宝石の色。
帽子の鍔を強く押さえる。
怒りを押し込めるみたいに。
「その場所へ案内しろ」
「は、はぁ!? やだよ! あいつがまだいたらどうすんだよ!」
「案ずるな。俺がいる」
「そういう問題じゃ――うわっ!」
紅は男の首根っこを掴み、そのまま引きずるように歩き出した。
男は情けない声を上げながらも逆らえない。
少し進んだところで、紅は足を止める。
「ここか」
「そ、そうだけど……って、おい、聞いてるのかよ! 本当に戻ってきたらどうするんだよ!」
男の声は半分泣いていた。
だが紅は、その声を聞いていなかった。
嫌な気配がした。
ぞわりと、空気の裏側を何かが撫でたような違和感。
紅は即座に男を自分の方へ引き寄せ、周囲に陽炎を立ち上らせる。
「……ある程度の強者には、やはり効かんか」
「え?」
「下がっていろ」
次の瞬間、男の背後の闇が立ち上がった。
黒い甲冑。
黒い剣。
夜を固めて人型にしたような存在。
黒騎士。
「う、うわぁっ! あ、あいつだ!」
「……貴様か」
紅の声が低く落ちる。
「俺の依頼人を殺したのは」
「依頼人、ね」
黒騎士は兜の奥でため息をつくように言った。
「あのクズめ。死に際まで余計なものを残してくれた」
「貴様」
紅の目が細くなる。
「私としては、まだ君と正面からやり合うつもりはなかったんだがね」
「そうか」
紅はケースから煙草を取り出し、口に咥える。
指を鳴らす。火が灯る。
煙を吸い込み、ゆっくり吐き出した。
「だが、俺の依頼人を殺した」
「……」
「なら、俺に殺される覚悟くらいは持て」
その一言とともに、紅の周囲に立つ陽炎が濃くなる。
熱に耐えきれず、男がふらつきながら後退った。
「あつ……っ」
黒騎士はけだるげに剣を抜いた。
「まったく。残業とは難儀なものだ」
先に動いたのは紅だった。
煙草の火が腕へ移り、たちまち業火へ変わる。
そのまま解き放つ。
黒騎士へ一直線に走る炎。
だが同時に、黒騎士は剣を地面へ突き立てた。
「第二階位――影は蠢き、忠実な騎士となる」
「ドッペルゲンガー」
地面の影が盛り上がる。
一つ、二つではない。
無数の黒い人影が、黒騎士と同じ甲冑姿を取って立ち上がった。
業火が幾体かを飲み込む。
だが焼け落ちた影の向こうから、次の影がすぐに立ち上がる。
黒騎士の本体は、その奥で一歩も動かない。
「数で押すつもりか」
「合理的だろう?」
無数の影騎士が紅へ迫る。
紅は陽炎を強く立ち上らせ、近づく影を焼く。
一本、二本、三本と剣を受け流し、炎でまとめて薙ぎ払う。
けれど影は止まらない。
主の命だけで動く兵のように、痛みも恐怖もなく詰めてくる。
紅は舌打ちした。
(……妙だな)
数そのものは厄介だ。
だが、一体一体はそこまで重くない。
ならば、狙いは消耗。
紅はあえて少し押されるように後退した。
剣が肩を掠め、腕に浅い傷が走る。
次の一撃を陽炎で焼き切る。
その間も、視線だけは影の奥を探っていた。
どこだ。
この数を維持しながら、安全圏にいる本体は。
さらに二体、三体。
紅は燃やし、裂き、踏み越える。
だが、その動きの合間に、ほんのわずかだけ“熱の流れ”が不自然に揺れる場所があった。
影の中心ではない。
少し外れた、壁際。
影たちがそこだけを、微妙に避けて動いている。
「……そこか」
影の刃が脇腹を掠める。
紅はあえて膝をついた。
男が息を呑む。
「お、おい……!」
無数の影騎士が、喜ぶようにじわじわ間合いを詰める。
「終わりか、紅」
「安心しろ。君も、あのクズと同じ場所へ送ってやる」
黒騎士の声がした。
だが声の位置と影の位置が微妙にずれている。
紅は、そこで笑った。
不敵に。
まるでようやく答え合わせが終わったかのように。
黒騎士の空気がわずかに変わる。
「……何がおかしい」
「簡単な話だ」
「ほう」
「思ったより、つまらん魔術だと言っただけだ」
紅はゆっくり立ち上がる。
赤い目は、目の前の影たちではなく、その奥の壁際をまっすぐ射抜いていた。
「そんなところに隠れていないで、出てきたらどうだ」
「……」
「チキン野郎」
一拍の沈黙。
次いで、壁際の闇から、本体の黒騎士が姿を現した。
兜に隠れた顔は見えない。
だが、苛立ちははっきりと伝わる。
「作戦だよ、作戦」
「何を言おうが、貴様が臆病者であることに変わりはない」
「その口、切り刻んでやる」
「焼き鳥は好きかな、黒騎士?」
「……貴様」
黒騎士の剣が低く構えられる。
「第二階位――影はその身を縛り、肉体は補強される(シャドウ・エンハンス)」
影が甲冑の隙間から内側へ染み込み、黒騎士の動きが変わる。
先ほどまでとは比べものにならない速度で、一気に間合いを詰めた。
重い。
剣速ではない。
踏み込みそのものが、影ごと滑るように速い。
紅を両断する軌道で、漆黒の剣が振るわれる。
だが。
切り裂かれた紅の身体は、そのまま陽炎へ崩れた。
「……何っ!?」
次の瞬間、路地を埋める陽炎の一つ一つが、紅の輪郭を象る。
無数の“紅”。
「何も、貴様だけの専売特許ではない」
「小癪な!」
陽炎の紅たちが一斉に黒騎士を囲う。
熱が閉じる。
逃がさぬように。
影を燃やし尽くすためだけに。
黒騎士が剣を振るうたび、陽炎が揺らぐ。
だが揺らいだ先から、また新しい像が立つ。
「くっ……!」
陽炎が檻になる。
その上空。
熱の中心に、紅の本体が浮かんでいた。
手の中に、赤い炎の球体がある。
小さい。
だが、凝縮されすぎた熱が、見ているだけで不吉だった。
「さあ、黒騎士」
「……」
「丸焦げにしてやろう」
「第三階位――陽炎は圧縮し、焼き払う球体と化す(ミニ・フレア)」
炎球が放たれる。
黒騎士を囲う陽炎の檻の中で、爆炎が咲いた。
熱は逃がさず、周囲への被害だけを極力抑える。
紅は地面へ降り立つ。
だが着地の瞬間、わずかに眉をひそめた。
軽い。
手応えが、軽すぎる。
本来なら、今の一撃で鎧ごと融かせたはずだ。
出力が足りない。
十五話から続く不調。
冴を救った際に負った歪み。
ようやく戻しつつあったはずの火力が、まだ完全には戻っていない。
煙が晴れていく。
そこに立っていたのは、焼け焦げながらも倒れない黒騎士だった。
鎧の表面は赤く焼け、ところどころ煤けている。
だが、致命には遠い。
「……どうだ。浴びた気分は」
「ふ、ははは……」
黒騎士が低く笑う。
「なるほど」
「何がだ」
「君は本当に、本調子ではないのだな」
紅は舌打ちを噛み殺す。
黒騎士は自らの胸甲を叩いた。
「この鎧は旧世代とはいえ、貴族用に作られた最高位の魔導装甲だ」
「……」
「第三階位の魔術程度では、致命傷には至らない」
「実に面倒なものを着ている」
分かっていた。
だが、ここまで“落ちている”とは、紅自身も認めたくなかった。
「だが」
黒騎士が剣を持ち上げる。
「この身を焦がしたんだ。命をもらわねば、気が済まない」
黒騎士が剣先を向けた。
紅ではない。
物陰で腰を抜かしていた男へ。
「ひっ……」
「甘いな、紅」
紅が陽炎と化して男へ飛ぶ。
だが、その一瞬の先を黒騎士は読んでいた。
「私は影だぞ」
男の背後の影から、剣が生える。
紅は間に割って入った。
「がっ――!」
剣が紅の背を貫く。
男の代わりに。
「紅!?」
少し離れた場所から、紬の声が響いた。
追ってきていたのだ。
だが、間に合わないと思っていた。
だからこそ、その叫びには恐怖が混じっている。
紅の体から血が流れる。
黒騎士は、そのまま剣先を向けたまま笑った。
「紅。お前は強い」
「……」
「だが、私はお前より強い」
紅は炎を起こそうとする。
だが、今この場で不死鳥の寵愛を切るわけにはいかなかった。
ここで一度蘇れば、ようやく戻りかけている出力がまた底へ戻る。
それでは、この敵には届かない。
黒騎士の剣が、今度は紅の首を狙って振り上がる。
その瞬間だった。
「そこまでよ!」
圧縮された光が、闇を裂いた。
黒騎士の体が、真正面から照らされる。
「なに――!?」
「第二階位――光は圧縮され、放たれる一撃は祝福となる(バーステッド・ライト)!」
紬の魔術だった。
未熟だ。
出力も荒い。
けれど第二階位は第二階位。
しかも、光は影の天敵に近い。
黒騎士の鎧を貫き、その身を焦がす。
「があああああっ!」
黒騎士が叫ぶ。
光は長く続かない。
紬の魔力は一瞬で底をついた。
だが、その“一瞬”で十分だった。
黒騎士は一歩、二歩と後退り、紅と紬を睨んだ。
その視線には、初めて明確な警戒が宿っていた。
「……小娘が」
「ざまあみなさい」
紬は肩で息をしながらも、笑ってみせる。
膝は震えている。
それでも目は逸らさない。
黒騎士は沈黙ののち、舌打ち混じりに影へ沈み込んだ。
「次は、容赦しない」
「こちらの台詞だ」
闇が閉じる。
黒騎士の気配は消えた。
静寂が戻る。
紬はすぐ紅へ駆け寄った。
「紅!」
「……遅い」
「うるさい。助けたでしょ」
「小娘め」
紅がわずかに笑う。
その表情を見た紬は、胸を張るように言った。
「ほらね。私はできるのよ!」
強がり半分。
誇らしさ半分。
でも、その一言には、これまでの無力さを破った実感が確かにあった。
紅は帽子を少し深くかぶり直す。
「調子に乗るな」
「ひどい」
「だが……悪くはなかった」
「それ、褒めてる?」
「好きに取れ」
そこで紬の視線が、紅の背に走った。
服が裂け、血が滲んでいる。
「って、ちょっと待って! その傷、まずいじゃない!」
「騒ぐな」
「騒ぐよ!」
紬は慌てて癒しの魔術を構築しようとする。
その手はさっきの光を撃った反動で震えていた。
少し離れた場所では、助けられた男が腰を抜かしたまま呆然としていた。
「な、なんだ……これ……」
魔術。
影。
炎。
光。
目の前で起きたことを、彼の常識はまだ受け止めきれていない。




