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紅の魔術師  作者: ベルナルド
1.5章

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第十六話 黒焦げのパンプキンパイ④

 夜の街を、異形が駆けていた。


 人の形をしている。

 だが、人ではない。


 爬虫類めいた皮膚。

 異様にしなる四肢。

 家から家へ飛び移るたび、その身体能力がもはや人間の領分にないことを嫌でも思い知らされる。


 東間誠司は、夜風を切りながら前へ進んでいた。


(分かってる)


 最初から、分かっていた。


 自分がもう戻れないことくらい。

 この肉体が、どこまで行っても人のそれには戻らないことくらい。


 誰より、自分が一番よく分かっている。


 記憶が曖昧になる瞬間が増えた。

 考えていたことが、途中でするりと抜け落ちる。

 怒りが一度湧けば、理性より先に身体が動く。


 あれはもう、ただの疲れではない。


 化け物に、自分の意識が食われ始めている。


(次に目を開けたとき、俺が俺のままだとは限らねぇ)


 だからこそ、今しかない。


 最後に一度だけ、彼女に会いたい。


 会ってどうする。

 そう考えれば答えは出ている。


 何もできない。

 名前を呼ぶことも、姿を見せることも、謝ることすらできない。


 それでも行かずにはいられなかった。


 懐に手を入れる。

 指先が、小さな指輪に触れる。


 危ない仕事を辞めたあと、最初の給料で渡すつもりだった。

 ちゃんと生き直す、その証として。


(これを置いたら、俺は消える)


 彼女にも。

 紅にも。

 嬢ちゃんにも。

 これ以上、迷惑はかけられない。


(これが俺の最後の役目だ)


 誠司は夜の闇を蹴った。


 やがて、見慣れたマンションが視界に入る。


 心臓が跳ねた。


 何度も見た外壁。

 何度も見上げたベランダ。

 何度も、帰る場所だと思っていた部屋。


 七階。


 誠司は壁に爪を立て、音もなくよじ登っていく。

 人間なら到底不可能な高さ。

 けれど今の自分には、それが容易すぎるほど容易だった。


 登るほどに思い知る。


 ああ、自分はもう人間じゃない。


 七階へ辿り着く。

 誠司は息を殺し、窓の外からそっと部屋を覗いた。


 ――いた。


 彼女がいた。


 テーブルの前で、ご飯を食べながらテレビを見ている。

 髪の結び方も、笑うときに少し首を傾げる癖も、一年前と何も変わっていない。


 その瞬間、胸の奥が痛いほど熱くなった。


(よかった)


 生きていた。

 笑えていた。

 ちゃんと日常の中にいた。


 その安堵は、本物だった。


 だが次の瞬間、誠司の視線は、その向かいに座る男を捉える。


 箸を持ち、彼女と何か話しながら笑っている男。

 肩の力の抜けた距離感。

 この部屋にいることが、もう自然になっている男。


 誠司の思考が止まった。


 音が遠くなる。


(……ああ)


 分かっていた。

 分かっていたはずだった。


 一年だ。


 しかも、自分は死んだことになっていた。


 変わらないわけがない。

 彼女だけが、あの日で止まったままでいるはずがない。


 頭では分かっていた。

 それでも、目の前の現実は、知っていた痛みよりずっと鋭かった。


 喉が震える。


 目から涙が零れた。


 頬を伝うその熱に、誠司は不意におかしくなる。


 まだ、自分は泣ける。

 まだ、こんなふうに痛いと感じられる。


 そのことが、逆に不思議だった。


(……俺、まだ人間なんだな)


 少なくとも、この瞬間だけは。


 誠司は、窓に触れかけた手を止めた。


 叩けない。


 名前も呼べない。


 今ここで姿を見せたら、何もかもを壊してしまう。


 彼女の今を。

 ようやく取り戻しただろう平穏を。

 自分が死んだあと、やっと繋ぎ直した人生を。


 誠司は静かに窓辺から離れた。


 それが、彼にできる最後の優しさだった。


 壁を降り、闇の中へ沈む。


 そのとき、部屋の中で彼女が顔を上げた。


「ねえ、今なんか音しなかった?」

「気のせいじゃない?」


 向かいの男が気楽に答える。


「でも、なんか……」


 彼女は立ち上がり、窓を開けた。


 夜風が部屋へ入る。

 だが、そこにはもう誰もいない。


 ただ、外壁に何かが掴んだような痕だけが、うっすら残っていた。


「……何もないか」


 彼女は首を傾げる。


 それでも、しばらく外の暗がりを見つめていた。


「どうした?」

「なんか、懐かしい気配がしたんだよね」

「懐かしい?」

「うん。……もしかしたら、誠司かもって」

「だったら、いいね」


 男は何気なく言う。

 彼女も少しだけ笑った。


 けれどその笑みは、どこか寂しそうだった。


 窓が閉まる。


 部屋の灯りが、ガラス越しに夜へ滲んだ。


 街灯が夜道を照らしている。


 人の気配はない。

 あるのは、肩を落とし、地面を見つめながら歩く一つの影だけだった。


 トカゲのような見た目の、かつて人間だった男。


 誠司は、もう走っていなかった。


 心のどこかが、静かに終わっていた。


 そのときだった。


「満足したか、実験体029」


 誠司の足が止まる。


 前方の闇が揺らぎ、黒い影が浮かび上がった。


 漆黒の甲冑。

 黒い剣。

 夜そのものを纏ったような騎士。


 黒騎士。


「……やっぱり、見てやがったか」

「当然だ」


 声は兜にくぐもっている。

 だが、その奥にある嘲笑は隠しきれていなかった。


「化け物には尾行がよく似合うな」

「化け物には言われたくないな」


 黒騎士はゆっくりと剣を抜いた。

 鞘走る音が、夜気を裂く。


「だが安心しろ」

「……」

「お前は、最後に正しい判断をした」


 誠司の目が細くなる。


「何だと?」

「あの女に会わなかった。近づかなかった。余計な未練を残さなかった」

「……」

「おかげで、殺す手間が一つ減った」


 誠司の身体が強張る。


 黒騎士はわざと間を置いて続けた。


「もしお前があの女に接触していたら、処分対象は当然増えていた」

「……っ」

「あの女も、今隣にいた男も、まとめて殺していた」


 誠司の喉が鳴る。


「てめぇ……」

「よかったな、クズ」


 黒騎士の声に、露骨な愉悦が滲む。


「最後に一人くらいは守れたじゃないか」

「……」

「もっとも、それで終わる話でもないがな」


 誠司の背筋に冷たいものが走る。


「何の話だ」

「決まっている」


 黒騎士は、楽しむように言った。


「あの魔術師。あの少女。あのバーの連中」

「……」

「全部、お前のせいで死ぬ」


 膝から力が抜けた。


 誠司はその場に崩れ落ちる。


 自分のせいで。

 彼女だけではない。

 紅も、嬢ちゃんも、マスターも。


 もし自分が依頼をしなければ。

 もし自分が逃げなければ。

 もし最初から死んでいれば。


 そんな考えが、一気に頭を埋め尽くす。


「は……」


 笑いとも、嗚咽ともつかない音が漏れる。


「はは……」

「ようやく分かったか?」

「……」

「お前は、生きているだけで害だ」


 黒騎士の言葉は刃より鋭かった。


「人に迷惑しかかけられないクズ。生き延びたこと自体が間違いだ」

「……」

「おとなしく、俺に処理されていればよかったものを」


 誠司の心が、音を立てて折れていく。


 だが。


 その折れた心の底に、まだ消えていないものがあった。


 自分は死んでいい。

 失うのが自分だけなら、それでいい。


 でも。


 この男だけは。

 このすべてを壊した存在だけは。


 許せない。


「……ぐ、ぁああああああッ!!」


 獣の遠吠えが、静かな夜を貫いた。


 誠司の身体がさらに歪む。

 骨が軋み、筋肉が膨張し、爪が伸び、顔立ちさえ崩れていく。


 もはや人の姿ではない。


 醜く、哀れで、怒りだけで立つ怪物。


「お前だけは……殺す」


 掠れたその声に、黒騎士は肩を震わせた。


「はは……ははははは!」

「……」

「ずいぶんと化け物らしくなったな、実験体029」


 黒騎士は剣の柄を両手で握り、正面に構える。


「では、化け物狩りといこうか」


 黒騎士が一歩踏み込む。


 斬るのではない。

 真っ直ぐ、突き。


 誠司は本能のまま飛び込んだ。

 爪を立て、一気に間合いを詰める。


 届く。


 そう思った瞬間だった。


 背中に、焼けるような激痛が走る。


「……ぁ?」


 誠司の身体が前のめりに崩れる。


 黒騎士の剣は、まだ正面にある。

 なのに、何かが背中を貫いていた。


 地面から伸びた黒い刃。


 誠司の影から、剣が生えていた。


 黒騎士は静かに剣を納める。


「所詮、獣だな」

「……て、めぇ」

「力量も分からんとは」


 誠司が振り返る。

 自分の影から伸びた黒い刃が、ゆっくりと溶けるように闇へ戻っていく。


「冥土の土産に教えてやる」

「……」

「私の力は、影を操ることだ」


 黒騎士の声には、微かな誇りすらあった。


「簡単な話だ。貴様の影から剣を生やしただけだ」


 誠司の視界が滲む。

 痛みと怒りで、意識が焼けそうになる。


 黒騎士は、そんな誠司を虫けらでも見るように見下ろしていた。


「さて」

「……」

「まずは少女から処理するか」


 嬢ちゃん。


 その単語が、誠司の中で残っていた最後の火に触れた。


 黒騎士が背を向ける。

 マントが翻る。


 次の瞬間、誠司は地面を蹴っていた。


 自分でも分からない速度だった。


 黒騎士が振り向く。

 剣で受ける。


 激突。


 凄まじい衝撃に、黒騎士の身体が後ろへ滑った。


 砂埃が舞う。


「……ほう」


 兜の奥の目が、初めてわずかに変わる。


「まだ立つか」

「……が、ぁ」

「しかも、今のは少し重い」


 黒騎士は剣を握り直した。


「おいおい。ずいぶんと過ぎた力を持っているじゃないか」


 その声音から、余裕が少しだけ消える。


 今度は油断がない。


 黒騎士は剣を地面へ突き立てた。

 魔力が、夜の路地に広がる。


「第二階位――影は蠢き、忠実な騎士となる(ドッペルゲンガー)」


 足元の影が膨れ上がる。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 やがて無数の黒い人影が、黒騎士と同じ甲冑姿を取って立ち上がった。


「さあ、どうする? 獣」


 誠司は答えない。


 獣のように唸り、片足を高く持ち上げる。

 次の瞬間、それを地面へ叩きつけた。


 轟音。


 地面が割れたのではない。

 硬度そのものを無視したように、路面が波打つ。


「ちっ――!」


 黒騎士たちの足場が揺らぐ。

 本体がすぐに跳び退いた。


 誠司はそこを逃さず、天へ跳ぶ。


 異形の跳躍。

 黒騎士の首を裂かんと爪が振るわれる。


 上空で、黒騎士が剣に影を纏わせた。


「第三階位――影は剣に纏わり、解き放たれる(シャドウエッジ」」


 漆黒の斬撃が放たれる。


 誠司は両腕で受けた。

 肉が裂ける。

 だが、そのまま勢いで突っ込み、爪を振るう。


 黒騎士の身体を切り裂いた――はずだった。


 その輪郭が崩れる。


 ただの影。


「が、ぁっ!?」


 その瞬間、地上に残っていた分身たちが、一斉に剣を振るった。


 無数の斬撃が、下から上へ誠司を切り刻む。


 誠司の巨体が空中で弾かれ、そのまま地面へ叩きつけられた。


「この私に汗をかかせるとは」

「……」

「無礼極まりない獣だ」


 無数の黒騎士が、倒れた誠司へ剣先を向ける。


「これ以上、あの方に恥は晒せん」

「……ぐ」

「終わりだ」


 一斉に剣が降る。


 誠司の身体を、無数の黒刃が貫いた。


 肉が裂け、血が飛ぶ。

 それでも、その心だけはまだ死んでいなかった。


 守れなかった。

 会えなかった。

 もう戻れない。


 それでも。


 せめて、あいつだけでも。


 その想いが、胸の奥に残っていた最後の“人間”を燃やす。


「……ぁあああああッ!!」


 誠司の中で魔力が弾けた。


 限界を超えて、光が噴き出す。


 それはただの魔力ではない。

 彼女へ渡せなかった想い。

 やり直せなかった人生。

 守れなかった時間。

 全部を一つにしたような、橙色の火だった。


 光が、影を裂く。


 夜の街が、一瞬だけ昼のように照らされた。


 彼女は部屋の窓辺で顔を上げた。


「……なに、あれ?」


 遠くの夜空が、橙色に瞬いた気がした。


 光が消える。


 そこに残っていたのは、焼け焦げた地面だけだった。


 無数の影も消えている。

 黒騎士の分身も跡形がない。


 だが、本体は違った。


 少し離れた建物の影から、黒騎士が姿を現す。


「馬鹿だな」


 兜の奥から、冷たい声が漏れる。


「本体が、のこのこ前に出ているわけがないだろう」


 口調こそ変わらない。

 だが、その声にはかすかな苛立ちが混じっていた。


「……勝手に消えてくれたなら、こちらとしては都合がいい」

「……」

「クズのくせに、無駄に私の魔力を削らせおって」


 黒騎士が踵を返す。


 そのときだった。


 ガタッ、と音が鳴った。


 黒騎士の気配が鋭くなる。

 だがすぐに、その姿は闇へ溶けた。


 別の気配が、路地へ飛び込んでくる。


 人影だった。


 まだ若い男。

 顔は恐怖で歪み、目から涙を流し、必死に走っている。


「し、死にたくない……!」


 その手には、何か小さなものが握られていた。


 曲がり角を曲がった瞬間、その男は誰かにぶつかった。


「いたっ!」

「……なんだ、貴様」


 低い声。


 男が顔を上げる。


 そこには、赤い目をした長身の男が立っていた。


 深紅のコート。

 夜の中でも異質なほど目立つ姿。


 紅の魔術師。


 逃げてきた男は、震えながら謝る。


「す、すいません……!」


 だが紅の視線は、男の顔ではなく、その手元へ落ちていた。


「……それを、どこで手に入れた」


「え?」


 男の手の中で、小さな宝石が橙色に光っていた。


 煤にまみれながらも、火種のように、まだ微かに熱を残したまま。

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