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紅の魔術師  作者: ベルナルド
1.5章

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第十五話 ep2 黒焦げのパンプキンパイ③

 bar Emrys の中には、静かな時間が流れていた。


 カウンターの端では、紬がマスターに見張られながらノートを広げている。

 補習から解放されたあと、そのまま連行されるように店へ来たものの、結局「勉強しなさい」と言われ、今に至る。


「ここ、計算式が違いますよ」

「うぅ……」

「泣いても点数は上がりません」

「知ってるもん……」


 頬を机につけるようにして唸る紬の隣で、誠司は黙って座っていた。


 その手には、小さな橙色に輝く宝石が付いた指輪がある。


 高価なものではない。

 けれど、彼にとっては何より重いものだった。


 時折それを見つめては、何か言いかけ、結局言葉にならずに飲み込む。

 そんなことを繰り返している。


 マスターがグラスを拭きながら、そっと目を細めた。


「少しは休まれてはどうですか、誠司さん」

「……休んだって、変わらねぇよ」


 低く返した声には、疲れと焦りが滲んでいた。


 指輪を握る手に、わずかに力がこもる。


「早く、何とかしねぇと……」


 その言葉が落ちた瞬間だった。


 店の扉が、荒々しく開いた。


 冷たい夜気が流れ込み、それに混ざって焦げた臭いが店内へ広がる。


 紬が顔を上げた。


「紅!」


 立っていたのは、紅だった。


 深紅のコートの裾はところどころ焼け焦げ、帽子にも煤がついている。

 袖口は黒く炙られ、頬には煤の筋が走っていた。


 だが何より、その赤い目が普段以上に冷えていた。


 紬は椅子を蹴るように立ち上がる。


「どうしたの、紅! 何があったの!?」

「……」

「紅?」


 返事の代わりに、紅は懐から一冊のノートを取り出した。


 血に濡れ、端の破れた研究日誌だった。


 それを、誠司の目の前へ無造作に放る。


 鈍い音がした。


 誠司の肩が跳ねる。


「貴様」


 紅の声は低かった。


「なぜ隠した」


 誠司の喉が鳴る。


「な、何を言ってるんだよ」

「研究所へ行ってきた」

「……っ」


 紬が息を呑んだ。


 誠司の顔色が変わる。

 その驚きは、紬のような心配ではない。明らかな動揺だった。


「場所、分かってたのかよ……」

「ああ。だが、すでに荒らされた後だった」

「……」

「死体と、壊された記録と、これだけが残っていた」


 紅は顎で日誌を示す。


「貴様の脱出は、偶然ではない」

「……」

「協力者がいたな」


 誠司の指先がぴくりと震えた。


「誰だ」


 返事がない。


 紅は一歩、また一歩と誠司へ近づく。

 その足音だけで、空気が重くなる。


「答えろ」


 誠司は唇を噛んだ。

 言うべきか、隠し通すべきか、その迷いが露骨に浮かんでいた。


 紅はその胸倉を掴み、乱暴に壁へ押しやる。


「ぐ……っ!」

「何人死んだ?」

「……」

「誰が生き残った?」

「やめろ……!」

「答えろ」


 声が冷たい。

 怒鳴っているわけではない。だからこそ、逃げ場がない。


 誠司は苦しげに息を吐き、やがて諦めたように目を伏せた。


「……眼鏡だ」


 絞り出すような声だった。


「名前は知らねぇ。だが、生き残ったのは……俺と、そいつだけだ」


 紅は手を離した。


 誠司は床へ崩れ、咳き込む。

 紬が一歩前へ出かけるが、紅の視線に止められた。


「続けろ」

「……実験中のことは、ほとんど曖昧なんだ」

「都合よく忘れたか」

「違う!」


 誠司が顔を上げる。


「本当に、曖昧なんだよ! 痛ぇとか、苦しいとか、そういうのばっかり残ってて……ちゃんとした順番じゃ思い出せねぇ」


 その叫びは、嘘というより半ば悲鳴に近かった。


 紅は黙る。

 誠司は肩で息をしながら、続けた。


「大勢いた。けど、みんなどんどん死んだ。耐えられなかったんだろうな……俺と、眼鏡だけが生き残った」

「変異は?」

「進んでた。人間とは思えねぇ力もあった」


 誠司は自分の手を見る。

 鱗が浮いた皮膚。鋭い爪。


 その目に、一瞬だけ吐き気のような嫌悪が宿る。


「眼鏡のやつが言ったんだ。協力すれば外へ出られるって」

「それで従ったか」

「ああ」


 誠司は苦く笑った。


「他に方法なんてなかった」


 店内に沈黙が落ちる。


 マスターもグラスを置き、静かに聞いていた。

 紬も、もうノートを見る気にはなれない。


「最初は順調だった」


 誠司は自分の記憶を手探るように言葉を繋ぐ。


「設備を止めて、鍵を奪って、上へ向かった。だが、出口の前にあいつがいた」

「黒騎士か」

「ああ」


 その名が出た瞬間、誠司の顔がはっきりと歪んだ。


「黒い甲冑に、黒い剣。人間じゃねぇ。あんなもん、化け物だ」

「……」

「この姿になって強くなった俺たちでも、歯が立たなかった」


 指輪を持つ手がきつく握られる。


「眼鏡のやつにも、恋人がいた」

「……」

「だから、俺がおとりになるつもりだった。あいつを逃がして、それで――」


 誠司はそこで言葉を詰まらせた。


「でも、逃がされたのは俺のほうだった」


 声がかすれる。


「あいつ、何て言ったと思う」

「……」

「幸せになれって」


 笑うような、泣くような声だった。


「ふざけんなよ……そんなもん、簡単に言うなって話だろ」


 紬の胸が痛む。

 それは、十四話で見た“やり直したい男”の顔だった。


 けれど紅の目は、少しも緩まなかった。


「黒騎士の存在を隠していたな」

「……話せば、断られると思った」

「だから黙っていた」

「仕方なかったんだよ!」


 誠司が顔を上げる。


「話したからって、何も変わらねぇだろ! だったら最初に依頼を断られない方がマシだ!」


 その言葉に、紬がはっとする。

 追い詰められた人間の理屈だ。けれど、間違っているとも言い切れない。


 紅は冷たく言った。


「貴様は依頼の土台を隠した」

「……」

「それでも今さら咎める気はない。問題は別だ」


 紅の視線が、誠司の身体を射抜く。


「もう治せない」


 言葉は、短く、容赦がなかった。


 紬の肩が震える。

 誠司は一瞬、意味を理解できなかったように固まった。


「……は?」

「一時的に抑えることはできるかもしれん。だが、元へ戻すのは無理だ」

「何でだよ」

「変化が馴染みすぎている」


 紅は淡々と続けた。


「これは単なる外傷ではない。肉体も、魔術回路も、もっと深いところから変わっている。遺伝子レベルの変化が完了した今、戻すための“元”が残っていない」

「そんな回答を俺は望んでねぇよ」


 誠司の声が低くなる。


「直せって言ってるんだよ」


 次の瞬間、その腕が伸びた。


 鋭い爪が、紅の首元へ突きつけられる。


 紬が息を呑む。


「誠司さん!」

「黙ってろ!」


 怒鳴った声に、獣のような響きが混じっていた。

 本人もそれに気づいたのか、一瞬だけ目を見開く。


 紅は動かない。


「それだ」

「……何がだ」

「今の貴様は、もはや怒りと暴力が近すぎる」


 紅は誠司の腕を掴む。


「獣になりかかっているぞ」

「違う」

「違わん」

「俺は人間だ!」


 誠司が叫ぶ。

 だが、そのたびに指先の爪がわずかに伸び、皮膚の鱗が濃くなる。


 紬は目を逸らせなかった。


「俺は、人間だ……」


 誠司自身が、一番そう信じたがっている。

 だからこそ、その叫びは痛々しかった。


 紅は首を振る。


「今の貴様に残された道は一つだ」

「……」

「姿を消せ」

「何だと」

「これ以上痕跡を残せば、黒騎士が狙う。貴様は自分だけの問題では済まなくなる」


 誠司の顔から、希望が剥がれ落ちていく。


「逃げろってのか」

「ああ」

「彼女に会えず、人間にも戻れず、それで生きろって?」

「直せたとしても、そこには膨大な時間がいる」

「……」

「その頃には、彼女はもう別の人生を生きているだろう」


 その一言が、決定打だった。


「……くそがあああああ!」


 誠司が椅子を掴み、紅へ投げつける。

 紅は片手でそれを弾いた。


 木片が砕けて散る。


「負けるのが怖いのだろ」

「……何だと」

「違うか?」


 誠司は荒い息を吐きながら、紅を睨む。


「この身体になってから、見えるんだよ」

「……」

「魔力の流れがな」


 その目が、紅の全身を舐めるように見た。


「お前の中、ずいぶんボロボロじゃねぇか」

「……」

「本調子じゃねぇんだろ、紅」


 紬の顔が強張る。


 脳裏をよぎったのは、冴を救ったときの第一階位。

 あの異常な魔術に、代償がないはずがないと思っていた。

 でも、本当にここまで残っているとは知らなかった。


「……そうだったの、紅」


 口から漏れた声は、情けないほど小さかった。


 自分のせいだ。

 そう思った瞬間、胸の奥が沈む。


 紅はそんな紬を一瞥し、苛立ったように舌打ちした。


「余計な顔をするな、小娘」


 だが誠司は、その反応を肯定と受け取った。


 周囲の空間が、ゆらりと歪む。


「なら、俺の手で解決してやる」

「……」

「もう、お前らの力なんかいらねぇ!」


 姿が掻き消える。


「しまっ――」


 誠司は扉を蹴り開け、店の外へ飛び出した。


 紅もすぐに追う。

 紬も我に返り、その後を追いかけた。


 夜の路地裏。


 逃げた誠司の気配は、薄く残っていた。


 透明化しても、魔力の揺らぎまでは消せない。

 紅はすぐに位置を掴む。


「第三階位――火は鞭となり、敵を拘束する(バインド・フレイム)!」


 炎の鞭が走る。

 何もない空間へ巻きついた次の瞬間、輪郭が歪み、誠司の姿が浮かび上がった。


「ぐっ……!」


 だが、誠司は笑った。


「やっぱり、お粗末だぜ」


 その肉体が、ぶくりと膨れた。


 筋肉と骨格が不自然に軋み、さっきより一回り大きくなる。

 巻きついた炎の鞭が、力任せに弾け飛んだ。


 紬が目を見開く。


「何、あれ……」

「進行しているな」


 紅の声は低い。


 昨日より、確実に強くなっている。

 だが、それは成長ではない。

 人間性を削り、獣へ近づく代償と引き換えの“進化”だ。


 誠司は肩を鳴らした。


「あんたには、黒騎士よりやべぇ圧があるのに」

「……」

「俺程度に苦戦してた。やっぱりそういうことか」


 紅は煙草を取り出し、指を鳴らして火をつける。

 煙を吸い、ゆっくり吐いた。


「俺は依頼を守る主義だ」

「は?」

「だが、それ以上に依頼人を守る義務がある」

「……」

「黒騎士に生かせるわけにはいかん。貴様程度では、あれには勝てない」


 誠司の顔に青筋が立つ。


「分かってんだよ、そんなこと!」


 その叫びには怒りだけではなく、恐怖も混じっていた。


「でも、俺が止まったら、あいつが俺を逃がした意味がなくなる!」

「……」

「託されたもんを、無駄にしてたまるか! 俺は勝つ! 俺は幸せを掴む!」


 紅の目が細くなる。


 その必死さだけは、本物だ。

 だからこそ厄介だった。


「なら、俺が止める」


 紅の腕に業火が宿る。


「一度勝った程度で、調子に乗るなよ!」


 業火が解き放たれた。


 だが誠司は真正面からそれを受ける。

 炎が晴れたとき、立っていたのは――無傷の誠司だった。


 紬の喉が鳴る。


「うそ……」

「あんたに焼かれてからだ」


 誠司が口元を吊り上げる。


「どうやら俺の身体、熱に強くなったらしい」


 紅の目にも、初めて明確な驚きが走った。


「……まさか」

「俺はどんどん強くなる」

「違う」


 紅が言い切る。


「貴様はどんどん、人間から遠ざかっているだけだ」


 誠司の笑みが一瞬だけ止まった。

 だが次の瞬間には、それを怒りで塗りつぶす。


「うるせぇ!」


「第三階位――炎は剣となり、敵を切り裂く(ブレイド・フレイム)!」


 紅の手に炎の剣が生まれる。

 斬撃が放たれる。


 誠司は両腕を交差し、受け止めた。

 皮膚が裂ける。だが浅い。


「こっちの番だ!」


 一瞬で距離が消える。


 掌底。


 衝撃が紅の腹へめり込み、そのまま吹き飛ばす。


「が……っ!」


 紅の身体が壁へ叩きつけられる。


「紅!」


 紬が駆け寄ろうとする。

 だが誠司が叫んだ。


「近づくな、嬢ちゃん! あんたまで傷つけたくねぇ!」


 その言葉に、まだ人間の理性が残っていた。

 けれど、それもいつまで持つか分からない。


「なめないでよ!」


 紬は手を構える。


「第三階位――光は手に収束し、闇を突き破る(ライトレイ)!」


 圧縮された光が誠司へ走る。


 紬の狙いは肩だった。

 殺すのではなく、止めるための一撃。


 だが、誠司は寸前で避けた。

 光は腕をかすめるだけで終わる。


「はは……危ねぇな」


 誠司の息が荒い。

 目の焦点も少しずつ危うくなっている。


「悪ぃが、嬢ちゃんも寝ててもらうぞ」


 誠司の周囲から、膨大な魔力が噴き上がる。


 紬は思わず後ずさる。

 あの圧は、冴が魔人化したときのようだった。


「なんて魔力……」


 そこへ、紅が立ち上がる。


 帽子を押さえ、赤い目を誠司へ向けた。


「貴様」

「……まだ立つのかよ」

「俺をなめていないか」


 紅の周囲に、陽炎が立ち上る。


 ただ魔力が高いのではない。

 そこに在るだけで、空気そのものが焼け始めるような圧だった。


 誠司の顔から血の気が引く。


「むちゃくちゃだ……」

「小娘の姉を助けたせいで、貴様程度に後れを取る羽目になった」


 紅の声は静かだった。

 だが、その静けさがかえって恐ろしい。


「実に不覚だ」


 紅が腕を上げる。


 手のひらから湧き上がった炎が、路地裏の上空へ集まっていく。

 まるで小さな太陽が生まれるみたいに。


 紬は息を呑んだ。

 誠司は笑うしかなかった。


「さすがだ、紅」

「勘違いするな」


 紅は誠司を見据えたまま言う。


「俺は本気を出せないわけではない」

「……」

「制御できないだけだ」

「……っ」

「このまま放てば、町も、お前も、まとめて焼く」


 それは脅しではない。

 事実だった。


 誠司にも、それが分かってしまった。


 だからこそ、彼は笑いながら後ずさった。


「やっぱ、あんたは化け物だよ」

「今さらか」

「でも――」


 空間が歪む。


 誠司の輪郭が揺らぐ。


「俺の目的は、お前らじゃねぇ」


「待て!」


 一瞬で、誠司は姿を消した。


 紅が空を睨む。

 だが、追撃はしない。


 頭上の炎がゆっくりと消え、同時に紅の膝が折れた。


「紅!」


 紬が駆け寄り、その身体を支える。


 触れた肩は、熱かった。

 まるで燃え残りの炉みたいに。


「大丈夫!?」

「……どうしようもない依頼人だ」


 紅は帽子を深く被り直す。


 だが、その声音には疲労だけではなく、苛立ちと焦りが混じっていた。


「急がねばならん」

「え……?」

「やつはもう、後戻りできる境目を越えかけている」


 紬の胸が冷たくなる。


 誠司は逃げた。

 けれど、それは助かったという意味ではない。


 このまま進めば、彼は黒騎士と戦う前に、彼自身が“別の何か”になってしまう。


 路地裏には、焼けた空気だけが残っていた。


 紬は紅を支えながら、誠司が消えた闇を見つめる。


 あの人はまだ、人間なのだろうか。

 それとも、もう戻れないところまで行ってしまったのだろうか。


 答えは出ない。


 ただ一つ分かるのは、次に会うとき、もう“依頼人”として向き合える保証はないということだけだった。

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