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第三場面:月下の博打 ― 知略の釣り


湿地の中心、そこには「底なし」と恐れられる古井戸があった。


 周囲には、かつて黄金を求めて身を滅ぼした者たちの成れの果てか、朽ち果てた家財道具や、変色した銅銭が泥に埋もれている。月は中天に掛かり、湿った大気を冷たく照らし出していた。


劉海は、その井戸の縁に悠然と腰を下ろした。


 彼は懐から一本の紐を取り出した。それはただの麻紐ではない。仙道の師から授かった「七星の縄」である。霊山の頂で星の光を浴びせ、滝壺の底で千日の間清められたその縄は、暗闇の中で青白い燐光を放っている。


 劉海はその先に、一枚の古びた一文銭を結びつけた。それは彼が官界を去る際、唯一持ち出した私物であり、何の飾りもない、磨り減った銅の塊だった。


「さて……。この世で最も重く、最も軽い『欲』を、今宵は釣ってみせよう」


劉海が井戸の闇の向こうへ一文銭を投げ入れると、数秒の沈黙の後、奈落の底から不気味な声が響いてきた。


「……愚かな。また、消えゆく影を売りに来たか」

ズズ、と泥を分ける音がして、井戸の影から「それ」が這い出してきた。


 巨大な五通神の姿は、月光の下でより一層禍々しさを増していた。その三本の足が地を掴むたびに、湿った土から黒い汁が噴き出す。琥珀色の双眸は、劉海という「獲物」の価値を測るように、冷酷に細められた。


「仙人風情が、その古ぼけた銭一枚で、我を呼び出したか。我が蔵にある黄金の山を見ぬか。お前の命など、その一枚の価値にも満たぬぞ」


五通神の声は、何千もの金貨が擦れ合うような嫌な音を伴っていた。

怪物の口からは、吸い込めば正気を失うような甘い芳香――欲望を刺激し、理性を溶かす毒霧が吐き出される。


 しかし、劉海は眉一つ動かさない。彼は瓢箪の水を一口飲み、静かに笑った。


「五通よ。お前は人々の欲を食らい、黄金を吐き出すと言うが、それは実のところ『空虚』を埋めているに過ぎぬ。お前の蔵にある金は、触れれば消える幻だ。なぜなら、それを受け取る者に『足る』を知る心が欠けているからだ」


「ぬかせ。人間は、無限に欲しがる生き物だ。我はその願いを叶えてやっているに過ぎぬ」


「ならば、賭けをしないか。お前が一度も味わったことのない『本物の富』を、この銭に見せてやろう」

劉海は、七星の縄をゆっくりと揺らした。


 五通神は鼻で笑った。だが、その目が縄の先の一文銭に釘付けになった。


 劉海はその銭に、己の「無欲の境地」と、旅路で得た「清らかな慈しみ」の念を注ぎ込んでいた。欲の塊である五通神にとって、それは今まで見たこともない、混じりけのない純粋な光として映ったのだ。


「……何だ、その輝きは。金ではない。だが、目が離せぬ」


「これは『無』という名の至宝だ。お前が食らってきたどろどろとした執着ではない。手にしても重くなく、失っても悲しくない。お前にこれが食えるかな?」


五通神の喉が、ゴボリと鳴った。


 怪物の本能が警鐘を鳴らしている。その銭を飲み込めば、今の自分ではいられなくなる。しかし、千年以上も欲を食らい続けてきたごうが、その未知なる輝きを求めて止まなかった。


 劉海は、まるで官僚時代に難解な交渉を成立させる時のような、冷徹で正確な手さばきで、縄を躍らせた。


「欲しければ追ってこい。ただし、この一文銭は逃げ足が速いぞ」

劉海が縄を引くと、一文銭は月光を弾きながら空中を舞った。


 五通神は我慢ができず、地を蹴った。三本の足が驚異的な瞬発力を生み出し、巨躯が夜空に踊る。


 しかし、劉海は縄を指先一つで操り、カエルの口先数寸のところで銭をかわし続ける。


「おのれ……小癪な!」

五通神は苛立ち、毒の粘液を吐き散らしながら暴れ回った。湿地の木々がなぎ倒され、泥が雨のように降り注ぐ。


 劉海は舞うように泥を避け、語りかけた。

「お前の足が三本なのはなぜか、教えてやろうか。それは、四方の財をかき集めても、自分自身がどこへ向かうべきか分からぬからだ。進むための後ろ足が足りぬのだよ。お前はただ、欲望という円環の中を回っているだけだ」


「黙れ! 寄越せ、その光を!」


ついに、五通神は理性を失った。


 井戸の淵から大きく跳躍し、真っ赤な巨大な口を裂けるほどに開いた。その瞬間、劉海は狙い澄ましたように、七星の縄を一気に振り抜いた。


――カラン。


一文銭が、五通神の喉の奥深く、急所に吸い込まれるように着地した。


 同時に、劉海は縄の端を強く引き絞った。


「捕らえたぞ、欲の獣よ」


五通神の体が空中で静止したように見えた。


 縄の先に結ばれた一文銭は、怪物の胃に落ちるのではなく、その霊的な中枢を「重石」として繋ぎ止めたのだ。北斗七星の光が縄を通じて五通神の全身を駆け巡り、粘りつく皮膚を浄化の炎で焼き焦がしていく。


「ギ……ギャアアアアアアッ!」


地獄の底から響くような絶叫。


 五通神の口から、今まで食らってきた「人々のどろどろとした想念」が、黒い煙となって噴き出した。影を奪われた若者たちの嘆き、声を失った娘の涙、金に狂った男の執着。それらが霧散し、浄化されていく。


巨躯は激しくのたうち回り、泥を撒き散らしたが、劉海の両手は岩のように動かなかった。彼は己の全霊をかけ、縄を通じて怪物の「荒魂あらみたま」を鎮めていく。


「五通よ、苦しかろう。だが、お前が飲み込んだのは『足るを知る』という真理だ。それを消化できぬ限り、お前はもう元の化け物には戻れぬ」


月が雲に隠れ、辺りは一瞬の暗転に包まれた。


 縄の燐光だけが激しく明滅し、やがて、凄まじい衝撃波とともに、井戸の周囲の霧がすべて吹き飛ばされた。


静寂が戻った時、井戸の傍に立っていたのは、肩で息をする劉海と……。


 そして、その足元でぐったりと横たわる、小さな、一尺ほどに縮んだ「金色のカエル」だった。


三本の足は震え、その大きな口には、先ほどの一文銭がしっかりと嵌まり込んでいる。


 それはもはや、人を食らう五通神ではない。


 仙人の知略と慈悲によって、欲望を封じられた――あるいは、富を正しく運ぶための『器』へと作り変えられた、霊獣の赤ん坊のような姿であった。


劉海は、震える手で縄を巻き取った。 「……博打は、私の勝ちだ」


彼はカエルをそっと抱き上げた。


金属のように重いが、その皮膚からはもう生臭い臭いはしない。代わりに、どこか懐かしい、温かな土の匂いが漂っていた。


 これが、後に「青蛙神」と呼ばれるようになる霊獣の、真の誕生の瞬間であった。


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