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第二場面:役人・劉海の挫折と転生


湿地帯のさらに外側、霧が辛うじて薄れる街道を、一人の男が歩いていた。


 男の名は劉海りゅうかい。その身なりは、およそこの世の理から外れたように薄汚れている。破れかけた麻の衣に、泥にまみれた草鞋。腰には小さな瓢箪が一つ、頼りなげに揺れている。だが、その足取りは羽毛のように軽く、何よりその眼光だけは、沈みゆく月のように澄み渡っていた。


かつて、この男は「光」の中にいた。

 中央政府の財務を司る高官――文字通り、国中の金銀の行方を指先一つで操る権力者であった。当時の劉海は、豪華絢爛な宮廷の奥深くで、絹の服に身を包み、山積みになった帳簿と対峙していた。


 彼の頭脳は、千の数字を一瞬で弾き出す算盤よりも鋭かった。どの村からどれだけの米を絞り出し、どの軍隊にどれだけの銀を注ぎ込むか。彼にとって、人間とは単なる「記号」に過ぎなかった。飢えに苦しむ民の嘆きも、彼の手元ではただの「支出」という二文字に集約された。


「……数字こそが、この世の真理だ」


若き日の彼は、そう信じて疑わなかった。


金があれば城が建ち、

金があれば敵を退け、

金があれば人の心さえ買える。


彼は文字通り、黄金の城壁の中で世界を支配していたのだ。


だが、その城壁は、内側から崩れ始めた。


 ある年、大規模な飢饉が帝国を襲った。劉海はいつも通り、冷静に計算を行った。どの地域の民を「切り捨て」、どの貴族の財産を「保護」すべきか。彼の筆先一つで、数万人の運命が決まろうとしていた。


 その時、一人の老役人が、彼の執務室に転がり込んできた。老人は泥まみれの足を震わせ、劉海の机に一枚の汚れた布を置いた。それは、飢え死にした子供が最期まで握りしめていたという、ただの「石ころ」だった。

劉大人リウたいじん……あなたの帳簿には、この石の重さは書かれておりますかな?」


老人の問いに、劉海は答えられなかった。


 その夜、彼は自らの蔵に向かった。そこには、一生かけても使い切れないほどの金銀が眠っていた。だが、冷たい月光に照らされた黄金は、彼にはただの「冷たい石」にしか見えなかった。


 どれだけ金を積み上げても、死んだ子供の空腹を癒やすことはできない。どれだけ数字を並べても、人の心の空虚を埋めることはできない。


 彼が一生を捧げて守ってきた「富」とは、実は実体のない影に過ぎなかったのではないか。


翌朝、劉海は官服を脱ぎ捨て、冠を道端に置いた。


 地位も、名誉も、名前さえも捨て、彼は放浪の旅に出た。向かったのは、華やかな都ではなく、人々の欲望が剥き出しになる地の果て――。


修行の道は険しかった。


彼は山に籠り、風を食べ、露を飲んだ。しかし、彼の心を最も苦しめたのは、空腹ではなく「記憶」だった。目を閉じれば、かつて自分が切り捨てた民の叫びが、黄金の雨となって降り注ぐ。


「お前は金を信じていた。ならば、金に溺れて死ぬがいい」


 幻聴に苛まれながら、彼はひたすら坐した。


ある時、彼は悟った。


 富そのものが悪なのではない。人の心が、富という鏡に映し出された時、その「歪み」が悪となるのだ。


「欲を消すことはできない。ならば、その欲をぎょする手綱を見つけねばならぬ」


劉海は、旅の中で不思議な老人に出会った。


老人は彼に、北斗七星の光を宿したという一本の紐と、古びた一文銭を授けた。


「劉海よ。お前はかつて、数万の民を数字で縛った。今度は、その知恵を使って、世界に蔓延る『欲の獣』を縛ってみせよ」


それから数年。劉海は風の噂に聞いた。江南の湿地に、人の魂を黄金に変えて食らう恐ろしい魔物がいると。


 その正体が、人々の「もっと欲しい」という思念が凝り固まって生まれた「五通神」であることを、彼は直感的に理解した。それは、かつて自分が宮廷で生み出していた、あの冷酷な数字の化身そのものではないか。


劉海は、腰の瓢箪を叩いた。 「かつての私は、金で人を殺した。今の私は……金で、魔物を釣るとしよう」


彼の瞳には、かつての冷徹な官僚の鋭さと、すべてを捨て去った仙人の慈愛が同居していた。


 生臭い霧が、彼の足元にまとわりつく。湿地の入り口に立った劉海は、静かに歩を進めた。


 霧の向こうから聞こえる、あの地響きのような「ズズ……ズズ……」という音。


 普通なら腰を抜かすようなその怪音を、劉海は旧友に会うかのような穏やかな微笑みで受け止めた。


「待たせたな、我が鏡よ。お前の空腹を癒やしに来たぞ」


劉海の手の中で、七星の紐が、月の光を受けてかすかに青白く震えた。


 これは、富に溺れた男が、富を救いへと変えるための、孤独な戦いの始まりだった。


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