第一場面:湿り気を帯びた沈黙 ― 五通神の恐怖
その村には、名前がなかった。
江南の入り組んだ水脈の最果て、地図の空白を埋めるように広がる湿地帯の奥深くに、その集落はへばりつくように存在していた。村を囲む運河は、もはや流れを失った泥の河と化し、水面には分厚い藻が粘りつくような膜を張っている。
日は落ち、空がどろりとした紫に染まると、どこからともなく這い出してきた霧がすべてを覆い隠す。その霧は、ただの夜霧ではない。魚の死骸が腐ったような生臭さと、古びた銅銭が錆びたような、鉄の混じった重苦しい臭いが混じり合っている。
村人たちは日が沈むと同時に、戸という戸を閉ざし、家の中心で身を縮めて震え上がる。たとえ夏の盛りであっても、窓を開ける者など一人もいない。なぜなら、その霧の向こうから聞こえてくる「音」を知っているからだ。
――ズズ……ズズ……。
それは、濡れた重い荷物を引きずるような、不気味な地響きだった。
時折、巨大な風子が空気を吸い込むような、湿った吸気音が夜の闇を震わせる。
「……来た。五通様だ」
村の外れに住む老婆が、火の消えた囲炉裏の傍で、まだ幼い孫の耳を塞いだ。
孫の体は、木の葉のように震えている。
五通神。この地の者たちが、畏怖と絶望を込めてそう呼ぶ存在。それは神などという高潔なものではなく、この湿地そのものが産み落とした、欲望の澱のような魔物だった。
かつて、この村は貧困の底にあった。度重なる洪水と役人の搾取によって、人々は木の根をかじり、泥を啜って生きていた。ある夜、絶望した一人の男が井戸の底に向かって叫んだのだ。
「何でも差し出す! 魂でも、この身でも、子や孫の命でもいい! 金を、金をくれ!」
その叫びに呼応するように、井戸の底からそれは這い出してきた。
月光を浴びて現れたのは、巨大なカエルの形をした「異形」だった。その皮膚は月光を弾くほどにヌラヌラと粘液で光り、背中には北斗七星を模したような、歪なイボが蠢いている。
そして何より異様だったのは、その後ろ足が一本しかなく、計三本の足で巨体を支えていることだった。
その夜から、村には「不自然な富」が溢れ出した。
男の家の蔵は、一夜にして眩いばかりの金塊で埋め尽くされた。触れればひんやりと冷たく、噛めば本物の金の味がする。しかし、その金が積み上がると同時に、男の愛娘は声を失った。彼女が口を開いても、そこからは言葉ではなく、ドブネズミの鳴き声のような湿った音しか漏れ出さなくなった。
男は泣きながら金を握りしめ、やがてその金で村の家々を買い叩いた。村全体が、五通神が吐き出す黄金の毒に侵されていったのだ。
今、村の中央にある「金の蔵」の前に、一人の若者が跪いていた。名を阿明という。
彼の前には、五通神の巨躯が鎮座している。その体長は優に三メートルを超え、暗闇の中でらんらんと輝く琥珀色の目は、慈悲など微塵も感じさせない。
「五通様……どうか、病の母を。あのお金があれば、薬が……」
阿明の震える声に、巨大なカエルは応えない。
ただ、その喉元が大きく波打ち、内側からゴボゴボと沸き立つような音が漏れる。
五通神が、その巨大な口をゆっくりと開いた。
そこには歯がない。代わりに、赤黒い肉の奥から、数え切れないほどの金貨が溢れ出した。ジャラジャラという、この世で最も美しく、最も残酷な音が静寂を切り裂く。
阿明は狂ったようにその金貨に手を伸ばした。
しかし、彼が金貨を一枚掴むたびに、彼の影が、足元からじわりと剥がれ落ちていくことに気づいていなかった。
五通神は、与えるのではない。交換するのだ。
人間の「最も清らかな部分」を食らい、代わりに「最も重い呪い」を吐き出す。
阿明の影が完全に消え去った時、彼はもう日光の下を歩くことはできない。彼は一生、この霧の深い湿地から出られず、五通神の家畜として、次の「代償」を探すだけの抜け殻となるだろう。
霧がさらに深くなる。
巨大な三本足の魔物は、満足げに喉を鳴らした。その皮膚の隙間から溢れる粘液が、地面の泥と混ざり合い、腐敗した臭いをさらに強く撒き散らす。
村人たちは、閉ざされた戸の裏側で、自分たちが次に何を奪われるのか、それとも何を欲してしまうのかを考え、ただ震えていた。
この村において、黄金は救いではない。
それは、五通神という怪物が、人間をより深く、より逃れられない絶望へと繋ぎ止めるための、重い鎖に他ならなかった。
霧の向こうで、また一つ、誰かの叫び声が湿った空気に飲み込まれて消えた。
月は雲に隠れ、江南の湿地はただ、底知れぬ沈黙と、黄金の毒に包まれていったのである。




