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時の澱  作者: 琉球すみれ
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第七章 スコールと傘

リビングで、少し遅い昼ごはんを食べた。


「学校、どうする?」


お母さんが、箸を止めて訊いてきた。


「明日から、学校行ってもいい?」


病気ではないし、体調が悪いわけでもない。学校を休んだからといって、記憶が戻るわけでもない──戻る記憶など、そもそもないのだが。それなら、一日でも早くこの環境に慣れたほうがいい。そう思った。


オレの答えに、お母さんは少しだけ安堵した顔をして、ふうと息を吐いた。


「さくら、今日はゆっくり休みなさい。明日になったら、記憶、戻ってるかもしれないよ」


「うん。そうだったら、いいね」


できるだけ笑顔を作って答えたけれど、少し引きつっていたかもしれない。中身はオッサンだから記憶は戻りません──とは言えないし、言ったところで信じてもらえるはずもなく、ただ心配事を増やすだけだ。それなら、できるだけ女の子らしく振る舞って、両親の知っている「星野さくら」に見えるよう努めたほうがいい。そのほうが、この家は穏やかでいられる。


「お母さん、ちょっと散歩してくる」


昨日まで赤の他人だった人を「お母さん」と呼ぶのは、なんだかこそばゆい。これも、いつか慣れるのだろうか。


「お母さん? ──昨日まではママって呼んでたのに。やっぱり、記憶をなくしたせいかしらね……」


おう。早速やらかした。


「もう五年生だし、ママよりお母さんのほうがいいかなって思って。……じゃ、ちょっと行ってくる」


そう言い残して、部屋に戻って着替えた。朝はお母さんが選んでくれたけれど、今度は自分で箪笥を開けて選んだ。選んだ、というより、目についたワンピースを引っ張り出した、が正しい。鏡の前に立っても、これが似合っているのかどうか、自分ではさっぱり判定できない。心もとないが、ほかのどれが似合うのかも分からないのだから、仕方がない。


今朝、目が覚めたら沖縄にいて、しかも女の子になっていた。そんな状況だから、家の近所の道すら知らない。ただ、朝、車で病院へ向かうとき、家を出てすぐに海が見えた。海までは、そう遠くないはずだ。ビーチにでも行ってみよう。


日差しが強いから帽子をかぶって行きなさい、とお母さんに言われ、玄関にあった麦わら帽子をかぶって外に出た。


(あ、暑い!)


さっきテレビの天気予報が、沖縄は梅雨が明けました、と言っていた。名古屋の太陽と同じ星のものとは思えない。陽射しが、刺すように肌に痛い。道の脇では、見たことのない真っ赤な花が咲いていて、どこかでセミがもう鳴いている。六月なのに、世界はすっかり夏だった。


家を出て少し歩くと、やや大きな通りに出た。通り沿いをしばらく歩き、細い路地に入って、赤瓦の屋根と石垣の続く集落を抜けると──視界がぱっと開けて、砂浜が広がった。


(うわぁ……。沖縄の海だ!)


南の太陽に灼かれたビーチの砂は、さらさらの真っ白で、その先の海は、浅瀬のエメラルドから沖の濃い青へと、絵の具を流したようなグラデーションを描いていた。時折、風でめくれ上がりそうになるワンピースの裾を手で押さえながら、白い砂の上を歩いた。


風のいたずらにいちいち「女子」を感じつつ、足元に這い寄ってくる波の音を聞きながら、これからのことを考えた。


明日から学校。ちゃんと女子として、「星野さくら」としてやっていけるのだろうか。考えれば考えるほど不安になってくる。だって、何十年も男をやってきたのだ。「今日から女子です」って、いくらなんでも無理があるんじゃないか。


しかも、小学生って。


「……ロリコンかよ」


(あぁ、自分で言っちゃった)


波の音を聞きながらそんなことを考えていたら、冷たいものが頬に当たった。


(冷たっ。……あれ、雨?)


空を見上げると、さっきまで晴れていたのに、いつの間にか黒い雲が太陽を覆い隠していた。と思う間もなく、粒の大きい雨がばらばらと落ちてきた。南の島の雨は、前置きというものを知らないらしい。


傘なんて持ってきていない。とっさにビーチを見渡すと、少し先に、屋根付きの東屋のような場所が目に入った。あそこで雨宿りしよう。


東屋に駆け込んだところで、雨脚は本降りになった。


(すぐ、止むかな……)


濡れた腕と顔をハンカチで拭きながら、白い雨の幕に閉ざされたビーチを眺めていると、同じ年頃の男の子が一人、こちらへ駆けてくるのが見えた。


(あの子もきっと、ここで雨宿りだな)


男の子はかなりずぶ濡れになって、屋根の下に飛び込んできた。入る瞬間、目が合ったけれど、男の子のほうがすぐに目をそらした。ぱっと見は整った顔立ちなのに、どこか影のある感じの子だった。


ずいぶん濡れている。ハンカチを貸してあげようと思い、オレは男の子に近づいて、ハンカチを差し出した。


「ハンカチ、使う? さっき、オレ……──私が使って、ちょっと濡れてるけど」


「あ……ありがとう」


男の子はハンカチを受け取った。けれど、どこを拭くでもなく、ただぎゅっと握りしめている。


「……やっぱり、ちょっと汚かったかな?」


少し恥ずかしくなって、渡したハンカチに手を伸ばしかけた、そのとき。男の子はハンカチを握りしめたまま、雨の中へ走って行ってしまった。


(えー。なんで逃げる?)


ハンカチ、取られてしまった。照れ? 小学生の男子って、あんなんだったっけ? 雨にかすんでいく小さな背中を、オレはぽかんと見送った。


しばらくすると、男の子が消えた方向から、傘を差した人影がこちらへ走ってくるのが見えた。さっきの子だった。男の子は東屋まで来ると、もう片方の手に持っていた傘を、オレに突き出した。


「これ、使って」


それだけ言うと、お礼を言う暇も与えず、男の子はまた雨の中を走り去ってしまった。


(……ありがとう)


この傘、どうやって返せばいいんだろう。またここに来たら、会えるのだろうか。最近の小学生は優しいなあと思いながら、自分が小学生だったころはどうだったかと記憶を掘り起こそうとして──なぜか、何ひとつ思い出せないことに気づいた。


男の子のくれた傘をぱっと開いて、東屋を後にした。雨は少し弱まっていたが、ビーチにはまだ、縫い針のような細い雨が落ち続けていた。



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