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時の澱  作者: 琉球すみれ
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第六章 悪魔の追伸

「ただいまー」


少し疲れたお母さんの声が、玄関に響いた。


「どうだった?」


見知らぬ男の人が、奥のリビングから出てきて、お母さんの顔とオレの顔を交互に見た。


(誰だろう。朝はいなかった。……お父さん?)


お父さんらしき男の人は外出着のままだった。お母さんから連絡を受けて、会社を早退して帰ってきたのだろう。


「脳には異常ないみたい。心の問題じゃないかって。来週、心療内科で診てもらうことになった」


リビングへ向かう廊下を歩きながら、お母さんは今日の診察の内容を話した。オレは二人の後ろをついて歩いた。


「さくら、手を洗って、着替えてきなさい」


「うん、わかった」


返事をして、洗面所へ向かった。


「解離性同一性障害……多重人格……」


廊下に漏れてくる二人のひそひそ声を聞きながら、洗面所で手を洗い、ふと洗面台の鏡を見た。鏡に映る顔は、どこからどう見ても、女の子だ。


(中身はオッサンなのにな……)


タオルで手を拭いて、着替えるために二階の自分の部屋──「さくらの部屋」へ上がった。部屋に入り、もう一度、姿見の前に立つ。朝はそれどころではなくて、よく確認できなかった「自分」を、今度はじっくりと眺めた。


身長は百四十センチくらいだろうか。ショートボブの黒髪。白いシャツに、膝丈のスカート。鏡の中には、どこにでもいそうな女の子が立っていた。


(これが、今のオレ……)


今着ているこの服は、お母さんが箪笥から出してくれたものだ。病院に行くから着替えてと言われても、突っ立ったまま動けないオレに、お母さんは「洋服の着方も忘れたの?」と青ざめた顔をして、服を選んで着せてくれた。動けなかった理由は単純だ。どこに何があって、どれを着ればいいのか、まるで分からなかったからだ。


そもそも、スカートはどっちが前で、どっちが後ろなんだ。タグが付いているほうが左側、だったか?


生まれて初めて穿いたスカートで歩くのは、少し緊張した。脚のまわりがスースーする。初めての感覚だった。これからは服を選ぶのも着るのも、髪を整えるのも、全部自分でやらなければならない。できるのだろうか。オッサンのオレに。


姿見の前を離れ、ベッドに腰掛けて、そのまま仰向けに倒れ込んだ。今朝見た、もう「見覚えのある」天井を見つめながら、これまでのことと、これからのことを考えた。


絶対に叶うはずがないと、叶うわけがないと思って蓋をしてきた願いが、今朝、目が覚めたら叶っていた。嬉しい。とてもとても嬉しい。今すぐ窓を開けて、大声で「女の子になったよー!」と叫びたいくらいだ。もう死んでもいい──いや、実際あと一年で死ぬみたいなんだけど。


(……喜んで、いいよな)


お母さんにもお父さんにも、中身がオッサンだということは、とりあえず隠しておこう。というか、「四十歳のオッサンでした」と言ったところで誰も信じない。

……ん? 待て。五十歳、だったか? あれ。自分が何歳だったのか、思い出せない。


そういえば夢の中であいつは、記憶も消すとか言っていた。歳の記憶も消されたということか。ほかにも何か、消されているのだろうか。オッサンだったことは覚えているのに、いくつだったかは思い出せない。


結婚は? ……していない、よな……。


(……ちょっと、眠い)


枕元の目覚まし時計を見ると、針は正午を少し過ぎたところだった。


(それにしても、小学生は若返りすぎだろう。十七歳の女の子って言ってたのに。それで寿命は、残り──)


頭の中を整理しているうちに、睡魔がやってきて、オレは夢の世界へ落ちていった。



「はい、こんにちは」


「ああ──あの悪魔」


「いやいや、悪魔なんてひどいぞ。まあ、神でもないけど」


影は咳払いを一つして、妙にかしこまった声を出した。


「えー、おまえに伝えなきゃいかんことがある。若返りの契約で、十代なら十七歳でも何歳でもしてやると、ワシは言ったな? それがな、ちょっと手違えてだな。『十代』を『十歳』で願いを実行してしもうた。──悪りぃーな」


軽っ。謝罪、軽っ。


「でな、おまえの寿命のことなんだが。契約では十七から十八までの一年だったが、十歳から十八歳までの、八年となった」


「……八年?」


「死神が言うにはだな、迎えに行く日は、その人間の『年齢』で決まっとるそうだ。おまえの場合は、十八歳の迎えになっていて、そこは変わらん。だから、若返る年齢が低かったぶん、寿命は延びた──という勘定になる。じゃ、また」


待て待て、それで終わりか。と思ったら、影は思い出したように付け加えた。


「あ、そうそう。大人だったころの記憶を、掘り起こそうとするなよ。おまえが苦しむだけだから。──どうだ、こんな優しい悪魔はおらんだろう!」


優しさの基準がよく分からない。ただ、女の子になってから一つ、ずっと気になっていたことがあった。


「あの。一つ、訊いてもいいですか」


「なんだ」


「オレがこの子に──さくらになる前は、元のさくらちゃんが、いたんじゃないですか。つまり、オッサンのオレと、小学五年生のさくらちゃんが、入れ替わった?」


影は答えなかった。オレは続けた。


「もしそうだとしたら……オジサンの体に入れ替えられたさくらちゃんは……死んでもいいくらいの災難ですよね。きっと、死ぬ」


短い沈黙のあと、影は言った。


「──当たらずと雖も、遠からず。だが、気に病むことはない。いつか、解るときがくる」


それから影は、急に口調を変えた。


「あとな。『オレオレ』言うのはやめい。もう似合わんから。頭の中でも言うな。もう、君は女の子なんだから。分かったか? ──じゃーな。上手くやれよ」


声は次第に遠ざかり、テレビのスイッチを切るように、夢はブツッと途切れた。



「さくらー、さくらー。下に降りてきて、お昼ごはん食べなー」


遠くからお母さんの声が聞こえる。ゆっくり目を開けると、寝る前と同じ、さくらの部屋だった。時計の針は、五分ほどしか進んでいない。


(寝てたのは、ちょっとだけか。ずいぶん長い夢だった気がするのに)


鏡に目をやると、朝と変わらない、さくらの顔がそこにあった。


神でも悪魔でもないあいつは言っていた。寿命は、あと八年。十八歳になるまで。そして、元のさくらちゃんのことは、気に病むことはない、と。


いつか、さくらちゃんに、逢えるだろうか。


「さくらー、聞こえてるー? ごはんだよ、ごはん」


「はーい!」


女の子らしく──。私はお母さんに返事をして、駆け足で階段を降りた。


(わぁ、体、かっる!)


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