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時の澱  作者: 琉球すみれ
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第二部 第九章 医者半分、ユタ半分

ことの始まりは、隣のおばあだった。


日曜日の朝、庭先の鉢植えに水をやっていたお母さんが、垣根越しに、隣のおばあと立ち話を始めた。私は二階の窓を開けていたから、話は切れ切れに聞こえてきた。


「──それでね、病院では、どこも悪くないって言われて」


「あいー、そうねえ……」


おばあの声が、ふっと低くなった。


「やよいさん。怒らんで聞きなさいよ。──その子、マブイを落としてるかもしれんよ」


「マブイ……?」


「魂さー。人間はね、マブイを持って生きてる。だけどね、びっくりしたり、大きなことがあったりすると、マブイがぽろっと、体から落ちるわけ。引っ越しでしょう、転校でしょう。子どものマブイは、軽いからね。──一度、ユタに視てもらいなさい」


「ユタ……」


「医者半分、ユタ半分、って言うさーね。お医者さんに行って、それでも分からんことは、ユタに聞く。昔から、沖縄はそうやってきたわけよ。いいユタ、紹介するから」


窓際で聞いていた私は、ジョウロを持ったまま固まっているお母さんの背中を見下ろしながら、腕を組んだ。


ユタ。聞いたことはある。沖縄の、霊的な相談役。本土でいう霊媒師や拝み屋に近いが、もっと生活に根を張った存在だと、何かで読んだ。


オッサン時代の私なら、鼻で笑っていたところだ。経営判断を占いに頼る社長の話なんかを、酒の肴にしていた側の人間だ。霊だの魂だの、非科学的な──。


(……いや)


笑えない。

私には、まったく、笑う資格がない。


なにしろこちらは、悪魔と契約して女の子になった元オッサンである。死神にも会った。非科学のフルコースを、すでに胃袋の限界まで食わされている身だ。霊媒が「いる」世界に、悪魔が「いない」理屈はない。


むしろ、考えるべきは、そっちじゃない。


──もし、本物だったら。

もし、視えてしまったら。


病院は、怖くなかった。CTにも心にも、「中身がオッサン」は写らないと知っていたから。

でもユタは。

ユタは、何で視るんだ?



お父さんは、案の定、渋い顔をした。


「ユタって、お前……。そういうのは、ちょっと」


「私だって、最初はそう思ったわよ。でも、病院は二つとも『異常なし』なのよ? 心療内科の先生はいい先生だったけど、結局、様子を見ましょうしか言わないし。──それで親が何もしないでいるより、できることは全部したい。それだけ」


「いや、しかし」


「おばあが言ってた。医者半分、ユタ半分。──半分は、もう行った。残りの半分よ」


お母さんは、引かなかった。

最終的にお父さんは「……まあ、お祓いみたいなもんだと思えば」と折れた。長いものに巻かれたのではなく、お母さんの「できることは全部したい」に巻かれたのだと思う。いい折れ方だった。


そして当の私に、拒否権は、最初からなかった。



水曜日の放課後、お母さんの運転する車は、海沿いの道を北へ走った。


ユタの家は、隣町の、古い集落の中にあった。赤瓦──ではなく、よくあるコンクリート造りの平屋で、庭にバナナの木が一本と、洗濯物がはためいていた。拍子抜けするほど、普通の家だった。


「ごめんくださーい」


出てきたのは、小柄なおばあさんだった。白髪を短く刈って、ねずみ色の開襟シャツ。眼鏡。手にはうちわ。どこからどう見ても、スーパーの開店前に並んでいそうな、普通のおばあさんだった。


水晶玉も、ろうそくも、怪しい祭壇もない。

通された仏間には、大きな仏壇と、線香の匂いと、扇風機が一台、首を振っているだけだった。


「はいはい、座ってね。──暑かったでしょう。はい、さんぴん茶」


麦茶のグラス……じゃなかった、さんぴん茶のグラスが、お盆に載って出てきた。お母さんは正座して、緊張で背筋が定規みたいになっている。


「それで。視てほしいのは、この子ね」


おばあさん──ユタは、うちわを使いながら、世間話みたいな調子で言った。


「お名前と、生年月日、教えてちょうだいね」


「星野さくらです。生まれは──」


お母さんが、私の生年月日を答える。ユタは、ふんふん、と頷きながら、ちびた鉛筆で、広告の裏みたいな紙にメモを取った。本当に、町内会の名簿づくりみたいな雰囲気だった。


「干支はね……はい、分かった。それでお母さん、心配ごとは、記憶のことね? 急に、いろいろ忘れてしまった」


「は、はい。ひと月ほど前に、朝起きたら突然……。病院では異常なしで、その、お隣のおばあが、マブイを落としてるんじゃないかと」


「ふんふん、マブイぐみね。はいはい」


ユタは、よっこいしょ、と立ち上がって、仏壇の前に座り直した。ウコー──沖縄の、平たくて黒い線香に火をつけて、香炉に立てる。それから、手を合わせて、何かを唱え始めた。


島の言葉だった。意味は、ほとんど分からない。低くて、平坦で、波の音みたいな祈りが、扇風機の音に混じって、仏間を満たしていった。


私は、正座した自分の膝を見ていた。

大丈夫。きっと、何ごともなく終わる。マブイは入ってますね、はい安心、で終わる。お母さんが安心するなら、それで──。


祈りの声が、止まった。


顔を上げると、ユタがこちらを見ていた。


さっきまでの、町内会のおばあさんの目では、なかった。

眼鏡の奥の目が、私を──私の輪郭の、少し外側を、ゆっくりと、なぞるように動いていた。上から、下へ。それから、私の後ろ。誰もいないはずの、背後の空間へ。


扇風機が、首を振る音だけがしていた。


「…………」


ユタは、何も言わなかった。

ただ、ひとつ、ゆっくりと息を吐いて、香炉の線香を見た。それから、もう一度私を見て、また線香を見た。


「……お母さん」


「は、はい!」


「マブイは、入ってるよ。ちゃーんと、入ってる。落ちてない。心配ないさ」


お母さんの肩から、目に見えて力が抜けた。


「ほ、本当ですか」


「本当よ。──ただね、お母さん。この子のマブイはね」


ユタは、うちわを取り上げて、ぱたぱたと自分を扇ぎながら、なんでもないことのように言った。


「──大きい」


「……大きい?」


「大きいマブイさー。歳のわりに、ずーっと、大きい。だからね、入れ替わ……」


ユタの、うちわが、止まった。


「……入れ物のほうが、追いつくのに、時間がかかるわけよ。記憶のことは、慌てんでいいよ。マブイが体に馴染めば、馴染んだぶんだけ、この子はこの子になっていくから。──病院の先生と、同じことしか言えんけどね」


うちわが、また、ぱたぱたと動き出した。


私は、膝の上で、拳を握っていた。


今、この人、なんて言いかけた?

「入れ替わ」──。


「それでね、お母さん。せっかく来たから、マブイぐみ、しておこうね。落ちてなくても、お守りみたいなもんだから。──さくらちゃん、こっちにいらっしゃい」


私は、ユタの前に座らされた。ユタは私の頭に、しわだらけの両手を、ふわりと載せた。お線香と、さんぴん茶の匂いがした。


島の言葉の祈りが、頭の上から、降ってきた。


マブイよ、戻れ。マブイよ、この子に、戻れ──。

たぶん、そういう意味のことを唱えているんだと思う。本来のマブイぐみは、魂を落とした場所で石を拾うとか、いろいろ作法があるらしいが、これは簡易版なのだろう。


不思議と、嫌な感じは、しなかった。

頭に載った手のひらは、ただただ温かくて、孫の頭を撫でるおばあちゃんの手と、何も変わらなかった。


──ごめんなさい。


祈られながら、私は、誰にともなく思った。

あなたが呼び戻そうとしているマブイは、たぶん、ここには戻れません。この体には今、別の、規格外の、おまけに男物のマブイが入っています。ごめんなさい。ごめんなさい──。


「──はい、終わり。いい子ね」


手が、離れた。



帰り際、玄関で、お母さんが封筒に入れたお礼を渡そうとして、ユタと「いいから」「いえそういうわけには」の押し問答を始めた。沖縄でも本土でも、この儀式は変わらないらしい。


私が先にサンダルを履いて、庭に出たときだった。


「──さくらちゃん」


ユタが、玄関先まで出てきて、私を手招きした。お母さんはまだ三和土で、封筒をバッグに戻したり出したりしている。


私はユタのそばに寄った。

ユタは腰をかがめて、私の耳の高さに、口を寄せた。


「……あんた」


うちわの陰で、声が、すっと低くなった。


「いつから、その子に入ってるね?」


心臓が、止まるかと思った。


見上げると、眼鏡の奥の目が、まっすぐに私を見ていた。怖い目では、なかった。責める目でも。ただ、八百屋で大根の育ちを見定めるみたいな、年季の入った、確かめる目だった。


「……ひと月、前から」


嘘をつける気が、しなかった。

この人には、口で何を言っても、無駄だ。


「そうかい」


ユタは、頷いた。驚きもしなかった。


「あんたの後ろにいるのはね、ワッター(私たち)の神様じゃないね。ヤマトのものでも、ない。もっと、ずーっと、遠くから来たもの。……ふん。悪さをするものでは、なさそうさ。約束は守る筋の、ものだね」


(あいつのことまで、視えるのか)


「あの……」


訊くなら、今しかなかった。


「……元の、さくらは。この体に、もともといた子の、マブイは──どこに、いるんですか。私のせいで……消えて、しまったんですか」


ずっと、訊きたかった。悪魔は、はぐらかすだけだった。

ユタは、私の目を見て、それから、海のほうへ、ゆっくりと顔を向けた。集落の屋根の向こうに、夕方の海が、細く光っていた。


「マブイはね、消えんよ」


うちわが、ぱたり、ぱたりと、ゆっくり動いた。


「行く場所をなくしたマブイは、海の向こうへ行く。ニライカナイ──聞いたことあるね? 海の向こうの、神様の国。命は、あっちから来て、あっちへ帰って、また、めぐってくる。昔から、そうなってるわけ」


「めぐって……」


「あの子のマブイは、消えてない。ニライカナイで、順番を待ってるよ。──そしてね」


ユタは、私のほうへ向き直った。


「めぐったものは、いつか、あんたの前に、帰ってくるさ」


「……っ」


「そういう約束に、なってるみたいだからね。あんたのと、あの遠くから来たものとの間で。──ああ、詳しくは聞かんでいいよ。ばあちゃんにも、そこから先は、視えん」


ユタは、ぱた、とうちわを閉じて、いつもの町内会のおばあさんの顔に戻った。


「さくらちゃん。線香はね──」


最後に、ユタは仏間のほうを、ちらりと振り返った。さっき焚いた線香が、まだ細く、煙を上げているはずの方向を。


「──短くても、ちゃんと、いい匂いはするんだよ。長い線香と、おんなじにね」


「……はい」


それ以上は、何も言わなかった。

言われなくても、分かった。視えていたのだ。私の線香の、長さまで。


「やよいさーん、お礼はいいって言ってるでしょうが。そのかわり、また庭のバナナ、持っていきなさい」


ユタは大きな声でお母さんを呼んで、もう、こちらを見なかった。



帰りの車の中で、お母さんは上機嫌だった。


「マブイ、ちゃんと入ってるって! よかったねえ、さくら。……なんかね、お母さん、病院で『異常なし』って言われたときより、安心しちゃった。変かな」


「変じゃないよ」


医者半分、ユタ半分。

半分こで、ちょうど一人ぶんの安心。よくできた言葉だと思う。


膝の上には、ユタの庭でもいだ、青いバナナが一房。窓の外には、ニライカナイがあるという海が、夕日を溶かしながら、どこまでも続いていた。


めぐったものは、いつか、帰ってくる。


その言葉を、私はお守りみたいに、胸の内ポケットにしまった。



その夜、夢に、久しぶりに、あいつが出た。


「……よお」


影は、なんだか、ばつが悪そうだった。


「あ、悪魔」


「だから悪魔ではないと──まあ、もういい。おまえ、今日、視られたな」


「視られた。全部」


「だろうな。やれやれ」


影は、輪郭のない肩を、すくめたように見えた。


「あのバアさんたちには、昔っから、ワシらの姿が見えるんでな。この島は、神様の出入りが多すぎる。海の向こうにもおるし、火の中にもおるし、台所にも便所にもおる。──ワシのような外来種は、まったく、肩身が狭い」


「便所にもいるの」


「おる。フール(豚便所)の神は古株だ。……そんな話をしに来たんではない」


影は、こほん、と咳払いをした。


「ユタの言ったこと、気にしているか。──元のさくらの、マブイの行き先」


「……してる。ずっと」


「そうか」


影は、少しの間、黙った。それから、いつもの、どこか愉しげな声で言った。


「バアさんの見立ては──当たらずと雖も、遠からず、だ」


「それ、前も言った」


「便利な言葉でな」


「……ねえ。一個だけ。『めぐったものは、いつか、帰ってくる』って言われた。あれは、本当?」


影は、答えなかった。

代わりに、帰り際の、あの調子で言った。


「契約のことは、契約のときに分かる。──ただな、人間よ。一つだけ言っておくと」


声が、すこしだけ、近くなった。


「ワシは、約束は守る筋の、ものだ。──バアさんの、お墨付きだぞ」


ふは、と影が笑って、夢は、テレビを消すみたいに、ブツッと切れた。



朝、目が覚めると、枕元の窓から、もう強い日差しが差し込んでいた。


階下から、お母さんの「さくらー、朝ごはんー」の声と、バナナを焼いている甘い匂いが、上がってきた。


青かったバナナ、もう焼いちゃうのか。早くない?

──と思いながら、私はベッドを降りた。


線香は、短くても、ちゃんといい匂いがする。


今日も、いい匂いの一日に、しよう。



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