第二部 第十章 父の日
「──というわけで、今日の学活は、『お家の人への感謝の手紙』を書きまーす」
金曜日の五時間目、みやこ先生が画用紙の束を掲げた。
「日曜日は父の日ですからね。お父さんへの手紙でも、似顔絵でもいいし、おうちの事情で別の人に書きたい人は、おじいちゃんでも、おばあちゃんでも、お母さんでも、誰でもいいですよ」
教室のあちこちから、「えー」と「なに書こっかな」が、半々で上がった。
画用紙が配られる。私は机の上の白い紙を、しばらく見つめた。
お父さん──星野大介さんへの手紙。
書くことは、ある。本当に、ある。出会ってまだひと月の私を、あの人は娘として、本気で守ろうとしてくれた。トイレ事件の夜、怒りで震えていた、あの大きな背中。書くべき感謝は、本物だ。
ただ、ペンを持つ手が、ほんの少しだけ、重い。
(……まあ、似顔絵から行くか)
文字より絵のほうが、気持ちの整理がつけやすい気がした。私は鉛筆を取って、画用紙の真ん中に、大介さんの顔の輪郭を描き始めた。少し角ばった、優しい輪郭。短い髪。笑うと下がる眉。
長年の会議の落書き──もとい、デッサンの心得が、勝手に手を動かしてくれる。輪郭、髪、眉、目。悪くない。これは、悪くないぞ。
「うっわ、さくら、上手!」
覗き込んだ優子が声を上げて、何人かが集まってきた。
「何これ、写真じゃん」
「さくらのお父さん、こんな顔なんだ。優しそー」
「でしょ」
ちょっと得意になって、私はもう一枚、下描き用にもらった紙を引き寄せた。本番の前に、構図をもう一案、試しておこう。今度は引きの構図で、お父さんの全身を──。
手が、勝手に動いた。
大人の輪郭の、すぐ隣に。
腰のあたりの高さに。
小さな、子どもの輪郭を、描いていた。
丸い頭。細い首。半袖から出た、棒みたいな腕。大人の手と、つながれた小さな手。サイズの対比も、関節の位置も、迷いのない線だった。何百回も見た景色を描くときの、あの線だった。
(……え?)
鉛筆が、止まった。
誰だ、この子。
大介さんの隣に、子ども? 私? いや、違う。これは私じゃない。描いた私が、いちばんよく分かる。この小さい輪郭は、星野さくらじゃない。
じゃあ、誰だ。
顔を描こうとした。
描けなかった。
輪郭の中は、白いままだった。
丸い頭の中に、目も、鼻も、口も、何ひとつ、出てこなかった。手はあんなに迷いなく動いたのに、顔のところだけ、ぷつりと、線が途切れた。井戸の底を覗き込んだときと同じ、頭の芯の、あの鈍い痛みだけが、こめかみに灯った。
体は、覚えている。
小さな手をつないで歩く、その重みと高さを。
なのに、顔だけが、ない。
──ぽた。
画用紙の上に、丸い染みが、ひとつ落ちた。
(……あれ)
ぽた。ぽた。
(待て。なんで。なんで、泣く)
分からなかった。悲しいという感情より先に、涙のほうが出ていた。誰だか分からない、顔のない小さな輪郭が、滲んで、揺れた。
『記憶が消えていてもね、感情は、残ることがあるの』
平良先生の声が、頭の奥で、再生された。
『大事だった人のことは、思い出せなくても、大事だった、ということだけは、体のどこかが覚えてる』
──先生。
これ、ですか。
これの、ことですか。
「……さくら」
低い声と一緒に、視界に影が差した。楓だった。楓は私の机の上をちらりと見て、それから何も訊かずに、自分の体で、教室の視線から私を隠すように立った。
「先生ー。さくら、ちょっと気分悪いみたいなんで、保健室連れてっていいですかー」
「あら、大丈夫? いいよ、お願いね」
私は、下描きの紙を、誰にも見えないように四つに折って、ポケットに突っ込んだ。
廊下に出ると、楓は保健室とは逆の、誰もいない渡り廊下のほうへ歩いた。連れて行かれたのは、中庭の見える出窓のところだった。
「……保健室は?」
「行きたきゃ行けば。──行きたくないでしょ、別に」
楓は出窓の桟に寄りかかって、中庭を見た。私の顔は、見なかった。
「落ち着くまで、ここにいな。オレ、ちょうど風に当たりたかったから」
風に当たりたかった、は嘘だろう。
でも、その嘘のおかげで、私は誰の視線もない場所で、ハンカチが温まるまで、静かに泣くことができた。
◇
そして、日曜日。父の日が来た。
「お父さん、はい、これ」
夕飯のあと、私はリビングで、完成させた似顔絵と手紙を渡した。似顔絵は、もちろん、大介さん一人の構図で描き直したものだ。
「お、おお……?」
大介さんは、画用紙を受け取って、固まった。
「……これ、さくらが描いたのか? 本当に?」
「描いたよ。誰が描くの、ほかに」
「いや、だって、お前、上手すぎ……。母さん、見てみろこれ。俺、こんな男前か?」
「あら、ほんとに上手。──でも似てるわよ、あなた。眉のへにゃっとしたとこなんか、そっくり」
「へにゃっと言うな」
ひとしきり笑いが起きて、それから大介さんは、手紙の封筒を、ことさら丁寧な手つきで開けた。読んでいる間、リビングは静かだった。お母さんが、台所で洗い物の手を止めて、こちらをそっと見ているのが分かった。
記憶をなくした娘からの、最初の父の日。
この人たちにとって、それがどういう重さなのか、考えながら、私は手紙を書いた。嘘は、一行も書かなかった。出会ってからのひと月で、この人にもらったものだけで、画用紙一枚は、ちゃんと埋まった。
「…………そうか」
読み終わった大介さんは、手紙を膝に置いて、天井を見上げて、何度かまばたきをした。
「……うん。そうか。──ありがとうな、さくら」
「どういたしまして」
「よし。父さん、これ、会社の机に飾るからな」
「やめて。せめて家にして」
「飾る。絶対に飾る」
お母さんが笑いながらお茶を運んできて、テレビがついて、リビングはいつもの夜に戻った。大介さんは上機嫌で、お茶をすすりながら、ぽつりと言った。
「しかし、さくらも大きくなったなあ。──ついこの間まで、肩車、肩車って、せがんでたのになあ」
肩車。
その二文字が、耳に入った瞬間だった。
──ずしり、と。
肩の上に、重みが、降ってきた。
小さなお尻が、首の後ろに乗っている重み。
ふくらはぎを掴む、私の両手のひらの感触。
頭のてっぺんの髪を、ぎゅっと握ってくる、小さな手。
耳のすぐ上で弾ける、高い、高い、笑い声──。
「っ……」
湯呑みを、置いた。手が震える前に。
違う。
今の感触は、される側じゃない。
私は──肩車を、する側の重みを、知っている。
首の後ろの、あの重み。落とさないように腿に回した、腕の角度。「もっと、もっと」とせがまれて、わざと大股で歩いた、あの──あの、誰かを。
「ごめん、お手洗い」
私はできるだけ普通の速度で立ち上がって、リビングを出た。階段を上がる足が、最後の三段で、我慢できずに駆け足になった。
部屋のドアを閉めて、鍵をかけて、ベッドに倒れ込んで、枕に顔を押しつけた。
決壊した。
声を出さずに泣く技術なら、ある。鉄男に教わるまでもなく、何十年も使ってきた。その技術を総動員して、私は泣いた。肩が跳ねるのを、毛布を握って抑えながら。
顔も、ない。
名前も、ない。
男の子だったのか、女の子だったのかすら、分からない。
なのに、恋しかった。
肩の上の重みが。髪を掴む小さな手が。台所のほうから聞こえていた気がする、誰かの笑い声が。誰だか分からない誰かたちが、恋しくて、恋しくて、息ができないほど、恋しかった。
これが、あいつの言っていた「苦しむだけ」か。
思い出は消せても、愛していたという事実だけは、消えない。骨に染みた重みは、消えない。それは、井戸の底に残った澱みたいに、何かの拍子に、舞い上がる。
オレは。
オレには、家族がいた。
妻がいて、子どもがいて──そして、捨てたんだ。
自分の願いと、引き換えに。
泣きながら、いつのまにか、眠っていた。
◇
「……派手に、泣いておるなあ」
夢の中で、あいつが、立っていた。
いつもの軽口の調子だったけれど、声のどこかが、すこしだけ、いつもと違った。
「……あんたの、せいだ」
「ワシのせいではない。警告はしたぞ。掘るな、と」
「掘ってない! 勝手に、出てきたんだ。手が、勝手に描いて、肩が、勝手に思い出して──」
「……ふむ」
影は、輪郭のない腕を組んだ、ように見えた。
「記憶は消した。それは契約どおりだ。だがな、人間というのは、厄介な造りでな。頭で覚えたものは消せるが──体で覚えたもの、心の底に沈んだものは、ワシらにも、全部は浚えん。澱は、残る」
「…………」
「医者にも、同じことを言われたろう」
知ってるのか、それも。
私はベッドの上で(夢の中でも、私はベッドの上にいた)、膝を抱えた。訊きたいことは、決まっていた。
「……ねえ。私には、妻と、子どもが、いたんだね」
「契約の前に、全部話した。覚えてはおらんだろうがな。──ああ、いた」
「私は……ひどい人間、だよね。家族を捨てて、自分の願いを取った。顔も思い出せないくせに、今ごろ泣いて。……最低だ。最低の、父親だ」
影は、すぐには答えなかった。
夢の中の暗闇で、長い沈黙があった。
「……一つだけ、教えてやろう」
やがて、影は言った。
「血判の前にな、おまえが、最後まで握って離さなかった条件が、一つだけある。──『家族が、今より不幸にならないこと』。おまえはそれを、何度も、何度も、ワシに確認した。しつこいくらいにな。願いの中身より、そっちの確認のほうが、長かったくらいだ」
「……え」
「覚えておらんのだろう。それも、消えた記憶の側だからな。──だが、ワシは覚えておる。そして、約束は守る筋のものだ。バアさんの、お墨付きだぞ」
影は、ふ、と笑った。
「彼の家は、回っておる。新しい夫は、約束どおり、よくやっておるよ。子どもは、よく笑う。妻も、よく笑う。おまえの居た場所は、埋まった。──きれいに、な」
きれいに、埋まった。
それは、胸をえぐる言葉のはずだった。自分のいた場所が、跡形もなく埋まっている。誰も、私を覚えていない。なのに──えぐられた穴の底から、湧いてきたのは、安堵だった。涙が出るほどの、深い深い、安堵だった。
笑ってるのか。
そうか。笑ってるのか、あの人たちは。
「……その、新しい夫って人は」
「ん?」
「……いい人? ちゃんと」
「守秘義務、と言いたいところだが」
影は、愉しげに、声を低めた。
「一つだけ言うておく。──おまえは、あの男を、嫌いには、なれんよ。ワシが保証する」
「……何それ」
「ふふ。契約のことは、契約のときに分かる。──さて、ワシは帰る。ああ、それからな、人間よ」
影の声が、帰り際、ほんのすこしだけ、やわらかくなった。
「その涙は、契約違反では、ないぞ。──好きなだけ、流せ」
夢は、いつものように、ブツッと切れた。
◇
月曜日の朝、私はいつもより早く目が覚めた。
机の上に、四つ折りの下描きが、置きっぱなしになっていた。開くと、大人の輪郭と、顔のない小さな輪郭が、手をつないで立っていた。
しばらく、それを見ていた。
──ねえ。
顔も、名前も、思い出せないけど。
あんたのこと、こんなに好きだったみたいだよ、オレは。
ふと、プリクラの日のことを思い出した。あの日私は、オッサンが四十何年生きた証拠は、この世のどこにも残っていない、と思った。写真も、名前も、何も。
違った。
証拠なら、ここにあった。
この、骨の髄まで染みこんだ、肩の上の重み。
顔を消されてもなお溢れてくる、この、馬鹿みたいな量の愛しさ。
これが証拠だ。あの男は、空っぽじゃなかった。ちゃんと、誰かを、死ぬほど愛して生きてたんだ。
私は下描きを、もう一度丁寧に折り直して、机のいちばん下の引き出し──連絡帳の、花マルのプリクラの隣に、そっとしまった。
過去の家族と、今の家族。
両方の重みを、ひとつの胸で持ち運ぶ。
重いけど、いい重さだ。傘とパンフレットを渡した帰り道の、あの重さと、同じ種類の。
階下から、味噌汁の匂いと、お母さんの「さくらー、ごはんー」が上がってきた。
「はーい!」
返事をして、部屋のドアを開ける。
窓の外、今日も腹立たしいほどの快晴。セミの大合唱。私の二度目の人生の、ふた月目の夏が、始まろうとしていた。
寿命は、あと八年。
線香は、短い。
──でも、ちゃんと、いい匂いはする。
「いってきます!」
私は今日の重みを背負って、階段を、駆け降りた。
(第二部・了)




