第二部 第八章 傘の行方
月曜日の朝、渡り廊下で、鉄男とすれ違った。
一瞬、目が合った。
鉄男はすぐに目をそらした──けれど、そらす前に、ほんの数ミリ、顎が下がった。
頷いた、らしい。それはたぶん、世界最小の挨拶だった。
私も、誰にも気づかれない大きさで、頷き返した。それだけ。立ち止まりもしない。声もかけない。二組と一組の廊下は、また何事もなく流れていった。
(……傘、まだみたいだな)
鉄男の手にも、ランドセルの横にも、あの傘はなかった。まだ、楓のところへは行っていない。
まあ、そうだろう。何年もケンカし続けた相手の家に「傘を返しに行く」のは、大人だって腰が重い。ましてや、あの意地っ張りだ。
催促は、しない。
あれは、あの子の宿題だから。
◇
火曜日。何もなし。
水曜日。何もなし。楓も、いつも通り。鉄男の「て」の字も出ない。
木曜日は、朝から空が低かった。
給食のころに降り出した雨は、下校時間になっても止まず、夜になって、本気のどしゃ降りになった。私は二階の自分の部屋で、宿題をしながら、窓を叩く雨の音を聞いていた。
(……こんな日に、ふと行きたくなるんだよな。ああいうのは)
なんとなく、そんな気がした。
◇
そして、金曜日の放課後。
「さくら。──寄り道してこ」
帰り支度を終えた楓が、ランドセルを背負いながら、こともなげに言った。
「いいけど。どこ?」
「防波堤。話、あるから」
来た。
私は顔に出さないように気をつけながら、「ん、いいよ」と返事をした。
港の近くの防波堤は、白いコンクリートが夕方の日差しを溜め込んで、座るとお尻がほんのり温かかった。二人並んで腰掛けると、目の前は海。遠くで、漁船が一艘、ゆっくり戻ってくるところだった。
楓は、しばらく黙って海を見ていた。
それから、前を向いたまま、言った。
「……来たよ、鉄男」
「え?」
「昨日の夕方。うち、来た」
──昨日。あの、どしゃ降りの。
「玄関のチャイムが鳴ってさ。出たら、あいつが立ってた。──ずぶ濡れで」
「ずぶ濡れ? 傘は?」
「持ってた」
「……持ってたのに?」
「持ってたのに」
楓は、思い出して呆れたのか、ふっと鼻から息を吐いた。
「畳んだまま、両手で持ってんの。賞状みたいに。自分はずぶ濡れでさ。──『これ、返す』って」
目に浮かぶようだった。
借り物の傘だから、差さなかったのだ。あの子はあの傘を、自分が使っていいものだと思えなかった。だから、どしゃ降りの中を、傘を濡らさないように抱えて、ずぶ濡れで歩いてきた。
不器用にも、ほどがある。
「オレ、わけ分かんなくてさ。『は? あんたに傘なんか貸してない』って言ったら、あいつ、『さくらから聞いた。これ、お前のだって』って。──それで、だいたい分かった。あんたが何か、したんだなって」
楓が、横目でこちらを睨んだ。
「……それで? それで、どうなったの」
「誤魔化したな、今」
「いいから、続き、続き」
楓は、まあいいけど、という顔をして、海に目を戻した。
「軒下に立たせて、タオル投げてやった。家には上げない。……上げられる雰囲気でも、なかったし。あいつ、タオル受け取ったのに、拭きもしないで、ずっと突っ立っててさ」
(……あ。それ、知ってる)
ハンカチを握りしめたまま、雨の中へ走っていった、初日の楓を思い出した。この二人、ケンカするだけあって、似た者同士なのだ。言わないでおいたけど。
「それで、長いこと黙ってて。雨の音だけしててさ。オレももう、寒いし、『用がそれだけなら帰れば』って言いかけたとき──あいつが、言った」
楓は、そこで少しだけ、言葉を切った。
「『ずっと、悪かった』って」
防波堤の下で、波がたぷん、と鳴った。
「『お前にひどいこと、いっぱい言った。女のくせにとか、気持ち悪いとか。……ぜんぶ、悪かった』って。頭、下げてさ。ずぶ濡れの頭から、ぽたぽた水垂らして」
「……うん」
「それからさ。顔上げないまま、言ったんだ。──『お前が、羨ましかった』って」
私は、黙って続きを待った。
「『お前は、好きな格好して、好きなように喋って、君って呼ばれて、平気な顔してる。オレには、それが、できない。一生できない。だから、見てるだけで、苦しかった』って。──ぼそぼそ、ぼそぼそ、雨の音に半分消えそうな声で」
何年も分のつかえを、あの子は昨日、ぜんぶ吐き出したのだ。
楓に。雨の音を、味方につけて。
「……楓は、なんて返したの」
「『知ってた』って」
「えっ」
「言ったの。『知ってた』って。──そしたらあいつ、ばっと顔上げてさ。お化けでも見たみたいな顔して、『……いつから』って」
楓は、膝を抱えて、その上に顎を載せた。
「いつからだろうね。ほんとに、自分でも分かんないんだ。四年の、いつかくらいから、なんとなく。あいつがオレに突っかかってくるとき、怒ってるのに、目だけ泣きそうでさ。ああ、これ、怒ってるんじゃないな、って。……それで、なんとなく、分かった」
「鉄男、なんて?」
「『なんで、黙ってた』って。──だから言ってやった。『あんたが自分で言うまで、聞かないって決めてたから』って。人が必死に隠してるもの、横から開けるもんじゃないでしょ。違う?」
「……違わない」
この子は、十歳で、それが分かっている。
四十何年生きた(らしい)私が、何百人の大人を見てきて、それができる人を、何人知っていただろう。
「そのあとさ」
楓の声が、少しだけ、ぶっきらぼうになった。照れるときの、この子の癖だ。
「オレも、一個だけ言ったんだ。──『あんたはオレの格好に怒ってたけど、オレは、オレの好きな格好をしてるだけだ』って。『あんたも、すればいいじゃん。好きな格好。好きな喋り方』って」
「……鉄男は?」
「『できるわけ、ないだろ』って。秒で」
でしょうね。
「だからオレも、秒で返した。──『今は、でしょ』って」
今は、でしょ。
たった、それだけの言葉が、夕方の防波堤の上で、妙にくっきりと響いた。
今は、できない。
でも、「今は」と言った瞬間、その先に「いつか」が生まれる。
出口のないトンネルと、出口のあるトンネル。楓は楓の言葉で、同じものをあの子に渡したのだ。パンフレットも、お医者さんの言葉も、何も使わずに。
「……あいつ、なんか、変な顔してた。泣くのを我慢してるときの顔。それで、『……帰る』って言って、タオル返して、帰ってった」
「傘は?」
「置いてった。ちゃんと、玄関に立てかけて。──雨、まだ降ってたのにさ。『傘、持ってけば』って言ったら、『それはお前のだろ』って。……馬鹿だよね。ほんと、馬鹿」
楓はそう言って、笑った。
悪口の形をした、それはたぶん、この子なりの最大級の何かだった。
◇
「──で?」
ひとしきり報告が終わると、楓は体ごとこちらに向き直った。
「今度はあんたの番。さくら、鉄男に何したの。何を言ったら、あの意地っ張りが、傘抱えてうちまで来るわけ」
「んー……。ナイショ」
「はあ!?」
「鉄男の話は、鉄男のものだから。私からは言えない。──楓だって、さっき言ってたでしょ。人が隠してるものは、横から開けない、って」
楓は、ぐ、と詰まった。自分の言葉を、そのまま返された形だ。
「……っ、ずるいな、あんた」
「ふふ」
「あ、でも、一個だけ教えて。あいつ、最後にオレに訊いたんだよ。『……さくらって、何者なんだ』って」
「あはは。私にも同じこと訊いてた」
「だからオレ、こう答えといた。──『さあ。うちらの友だち、ってことしか、知らない』って」
胸の真ん中に、ぽっと、小さな灯りがついた気がした。
この子は、私の秘密を知っている。中身がオッサンであることも、悪魔との契約のことも。その全部を抱えたまま、「友だちってことしか知らない」と言ってのけた。
それは嘘じゃない。
この子にとって、それが、いちばん大事な情報なのだ。
「……楓ってさ」
「何」
「いいやつだね」
「は? 急に何。気持ち悪いんだけど」
楓はそっぽを向いた。耳が、夕日のせいだけではない色をしていた。
◇
週が明けて、月曜日の朝。
教室の前の廊下で、優子たちと話していたら、登校してきた鉄男が、一組へ向かう途中で、こちらの前を通りかかった。
鉄男は、一瞬だけ歩調を緩めて、私と楓のほうへ、ぼそっと言った。
「……おう」
そして、何事もなかったように、一組の教室へ入っていった。
廊下の時間が、二秒ほど、止まった。
「「「えっ」」」
優子と忍と、近くにいた純の声が、見事に揃った。
「い、今、鉄男が……挨拶した?」
「『おう』って言った! 絶対言った!」
「何アレ!? 明日、台風来る!?」
「もう梅雨明けてるっつーの」
楓が、冷静につっこんだ。それから、私のほうを見て、誰にも分からないくらい小さく、にっと笑った。
私も、にっと笑い返した。
傘は、ちゃんと、持ち主の家に帰った。
どしゃ降りの日に貸し出された優しさが、一年……じゃない、何週間かかけて、ぐるっと回って、帰っていった。帰る途中で、一人ぶん、乗客を増やして。
(よくできました)
誰にともなく、心の中で、花マルを一つ。
廊下の窓の外は、今日も腹立たしいほどの快晴で、夏は、まだ始まったばかりだった。




