表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時の澱  作者: 琉球すみれ
20/22

第二部 第八章 傘の行方

月曜日の朝、渡り廊下で、鉄男とすれ違った。


一瞬、目が合った。

鉄男はすぐに目をそらした──けれど、そらす前に、ほんの数ミリ、顎が下がった。


頷いた、らしい。それはたぶん、世界最小の挨拶だった。


私も、誰にも気づかれない大きさで、頷き返した。それだけ。立ち止まりもしない。声もかけない。二組と一組の廊下は、また何事もなく流れていった。


(……傘、まだみたいだな)


鉄男の手にも、ランドセルの横にも、あの傘はなかった。まだ、楓のところへは行っていない。


まあ、そうだろう。何年もケンカし続けた相手の家に「傘を返しに行く」のは、大人だって腰が重い。ましてや、あの意地っ張りだ。


催促は、しない。

あれは、あの子の宿題だから。



火曜日。何もなし。


水曜日。何もなし。楓も、いつも通り。鉄男の「て」の字も出ない。


木曜日は、朝から空が低かった。

給食のころに降り出した雨は、下校時間になっても止まず、夜になって、本気のどしゃ降りになった。私は二階の自分の部屋で、宿題をしながら、窓を叩く雨の音を聞いていた。


(……こんな日に、ふと行きたくなるんだよな。ああいうのは)


なんとなく、そんな気がした。



そして、金曜日の放課後。


「さくら。──寄り道してこ」


帰り支度を終えた楓が、ランドセルを背負いながら、こともなげに言った。


「いいけど。どこ?」


「防波堤。話、あるから」


来た。

私は顔に出さないように気をつけながら、「ん、いいよ」と返事をした。


港の近くの防波堤は、白いコンクリートが夕方の日差しを溜め込んで、座るとお尻がほんのり温かかった。二人並んで腰掛けると、目の前は海。遠くで、漁船が一艘、ゆっくり戻ってくるところだった。


楓は、しばらく黙って海を見ていた。

それから、前を向いたまま、言った。


「……来たよ、鉄男」


「え?」


「昨日の夕方。うち、来た」


──昨日。あの、どしゃ降りの。


「玄関のチャイムが鳴ってさ。出たら、あいつが立ってた。──ずぶ濡れで」


「ずぶ濡れ? 傘は?」


「持ってた」


「……持ってたのに?」


「持ってたのに」


楓は、思い出して呆れたのか、ふっと鼻から息を吐いた。


「畳んだまま、両手で持ってんの。賞状みたいに。自分はずぶ濡れでさ。──『これ、返す』って」


目に浮かぶようだった。

借り物の傘だから、差さなかったのだ。あの子はあの傘を、自分が使っていいものだと思えなかった。だから、どしゃ降りの中を、傘を濡らさないように抱えて、ずぶ濡れで歩いてきた。


不器用にも、ほどがある。


「オレ、わけ分かんなくてさ。『は? あんたに傘なんか貸してない』って言ったら、あいつ、『さくらから聞いた。これ、お前のだって』って。──それで、だいたい分かった。あんたが何か、したんだなって」


楓が、横目でこちらを睨んだ。


「……それで? それで、どうなったの」


「誤魔化したな、今」


「いいから、続き、続き」


楓は、まあいいけど、という顔をして、海に目を戻した。


「軒下に立たせて、タオル投げてやった。家には上げない。……上げられる雰囲気でも、なかったし。あいつ、タオル受け取ったのに、拭きもしないで、ずっと突っ立っててさ」


(……あ。それ、知ってる)


ハンカチを握りしめたまま、雨の中へ走っていった、初日の楓を思い出した。この二人、ケンカするだけあって、似た者同士なのだ。言わないでおいたけど。


「それで、長いこと黙ってて。雨の音だけしててさ。オレももう、寒いし、『用がそれだけなら帰れば』って言いかけたとき──あいつが、言った」


楓は、そこで少しだけ、言葉を切った。


「『ずっと、悪かった』って」


防波堤の下で、波がたぷん、と鳴った。


「『お前にひどいこと、いっぱい言った。女のくせにとか、気持ち悪いとか。……ぜんぶ、悪かった』って。頭、下げてさ。ずぶ濡れの頭から、ぽたぽた水垂らして」


「……うん」


「それからさ。顔上げないまま、言ったんだ。──『お前が、羨ましかった』って」


私は、黙って続きを待った。


「『お前は、好きな格好して、好きなように喋って、君って呼ばれて、平気な顔してる。オレには、それが、できない。一生できない。だから、見てるだけで、苦しかった』って。──ぼそぼそ、ぼそぼそ、雨の音に半分消えそうな声で」


何年も分のつかえを、あの子は昨日、ぜんぶ吐き出したのだ。

楓に。雨の音を、味方につけて。


「……楓は、なんて返したの」


「『知ってた』って」


「えっ」


「言ったの。『知ってた』って。──そしたらあいつ、ばっと顔上げてさ。お化けでも見たみたいな顔して、『……いつから』って」


楓は、膝を抱えて、その上に顎を載せた。


「いつからだろうね。ほんとに、自分でも分かんないんだ。四年の、いつかくらいから、なんとなく。あいつがオレに突っかかってくるとき、怒ってるのに、目だけ泣きそうでさ。ああ、これ、怒ってるんじゃないな、って。……それで、なんとなく、分かった」


「鉄男、なんて?」


「『なんで、黙ってた』って。──だから言ってやった。『あんたが自分で言うまで、聞かないって決めてたから』って。人が必死に隠してるもの、横から開けるもんじゃないでしょ。違う?」


「……違わない」


この子は、十歳で、それが分かっている。

四十何年生きた(らしい)私が、何百人の大人を見てきて、それができる人を、何人知っていただろう。


「そのあとさ」


楓の声が、少しだけ、ぶっきらぼうになった。照れるときの、この子の癖だ。


「オレも、一個だけ言ったんだ。──『あんたはオレの格好に怒ってたけど、オレは、オレの好きな格好をしてるだけだ』って。『あんたも、すればいいじゃん。好きな格好。好きな喋り方』って」


「……鉄男は?」


「『できるわけ、ないだろ』って。秒で」


でしょうね。


「だからオレも、秒で返した。──『今は、でしょ』って」


今は、でしょ。


たった、それだけの言葉が、夕方の防波堤の上で、妙にくっきりと響いた。


今は、できない。

でも、「今は」と言った瞬間、その先に「いつか」が生まれる。

出口のないトンネルと、出口のあるトンネル。楓は楓の言葉で、同じものをあの子に渡したのだ。パンフレットも、お医者さんの言葉も、何も使わずに。


「……あいつ、なんか、変な顔してた。泣くのを我慢してるときの顔。それで、『……帰る』って言って、タオル返して、帰ってった」


「傘は?」


「置いてった。ちゃんと、玄関に立てかけて。──雨、まだ降ってたのにさ。『傘、持ってけば』って言ったら、『それはお前のだろ』って。……馬鹿だよね。ほんと、馬鹿」


楓はそう言って、笑った。

悪口の形をした、それはたぶん、この子なりの最大級の何かだった。



「──で?」


ひとしきり報告が終わると、楓は体ごとこちらに向き直った。


「今度はあんたの番。さくら、鉄男に何したの。何を言ったら、あの意地っ張りが、傘抱えてうちまで来るわけ」


「んー……。ナイショ」


「はあ!?」


「鉄男の話は、鉄男のものだから。私からは言えない。──楓だって、さっき言ってたでしょ。人が隠してるものは、横から開けない、って」


楓は、ぐ、と詰まった。自分の言葉を、そのまま返された形だ。


「……っ、ずるいな、あんた」


「ふふ」


「あ、でも、一個だけ教えて。あいつ、最後にオレに訊いたんだよ。『……さくらって、何者なんだ』って」


「あはは。私にも同じこと訊いてた」


「だからオレ、こう答えといた。──『さあ。うちらの友だち、ってことしか、知らない』って」


胸の真ん中に、ぽっと、小さな灯りがついた気がした。


この子は、私の秘密を知っている。中身がオッサンであることも、悪魔との契約のことも。その全部を抱えたまま、「友だちってことしか知らない」と言ってのけた。


それは嘘じゃない。

この子にとって、それが、いちばん大事な情報なのだ。


「……楓ってさ」


「何」


「いいやつだね」


「は? 急に何。気持ち悪いんだけど」


楓はそっぽを向いた。耳が、夕日のせいだけではない色をしていた。



週が明けて、月曜日の朝。


教室の前の廊下で、優子たちと話していたら、登校してきた鉄男が、一組へ向かう途中で、こちらの前を通りかかった。


鉄男は、一瞬だけ歩調を緩めて、私と楓のほうへ、ぼそっと言った。


「……おう」


そして、何事もなかったように、一組の教室へ入っていった。


廊下の時間が、二秒ほど、止まった。


「「「えっ」」」


優子と忍と、近くにいた純の声が、見事に揃った。


「い、今、鉄男が……挨拶した?」


「『おう』って言った! 絶対言った!」


「何アレ!? 明日、台風来る!?」


「もう梅雨明けてるっつーの」


楓が、冷静につっこんだ。それから、私のほうを見て、誰にも分からないくらい小さく、にっと笑った。


私も、にっと笑い返した。


傘は、ちゃんと、持ち主の家に帰った。

どしゃ降りの日に貸し出された優しさが、一年……じゃない、何週間かかけて、ぐるっと回って、帰っていった。帰る途中で、一人ぶん、乗客を増やして。


(よくできました)


誰にともなく、心の中で、花マルを一つ。


廊下の窓の外は、今日も腹立たしいほどの快晴で、夏は、まだ始まったばかりだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ