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時の澱  作者: 琉球すみれ
19/22

第二部 第七章 雨の音

日曜日の午後、私は一人で、ビーチへ向かった。


ポシェットの中には、四つ折りのパンフレット。火曜日の診察から、ずっと持ち歩いている。渡す日はまだ先でいいと思いながら、それでも、いつその日が来てもいいように。


それから、手には楓の傘。第一部……じゃなかった、女の子になった初日に借りたまま、返しそびれていたやつだ。今日こそ返しに行こうと思って持ち出したら、お母さんに「いい心がけ。沖縄の空は信用しちゃだめだからね」と笑われた。たしかに、晴れているのに、水平線の向こうの雲は、なんだか機嫌が悪そうだった。


楓の家はビーチの先だと聞いている。せっかくだから、海を見てから行こう。


集落を抜けて、視界が開けて、白い砂浜に出た。


──いた。


東屋の手前の、波打ち際。

一人の男の子が、海に向かって、石を投げていた。


鉄男だった。


平べったい石を、低く、鋭く投げる。石は水面を二回、三回跳ねて、沈む。また拾って、投げる。跳ねて、沈む。それを、たぶん、ずっと繰り返している。足元の砂が、掘り返されたみたいに乱れていた。


引き返すなら、今だ。

気づかれていない。そっと来た道を戻れば、何もなかったことになる。


──でも。


私の足は、もう、砂を踏んで歩き出していた。

波の音で、足音は消える。それでも気配で分かったのか、あと数歩のところで、鉄男が振り向いた。


「──っ」


石を持ったまま、固まった。

逃げるか、どうか。迷っているのが、顔に全部出ていた。あの夜、玄関でうつむいていた子と、同じ顔だった。


「水切り、上手だね」


私は、なんでもない声で言った。


「三回跳ねてた。私、あれできないんだよね。何かコツあるの?」


「……は?」


鉄男は、毒気を抜かれた顔をした。たぶん、責められると思っていたのだろう。あるいは、怖がられると。


「石。平べったいのを選ぶだけじゃ、だめなんでしょ」


「……低く、投げる。水面と、平行に」


「ふうん。──やってみていい?」


返事を待たずに、足元から平べったい石を一つ拾った。鉄男が半歩、後ずさる。私はかまわず、海に向かって投げた。


石は、一回も跳ねずに、ぼちゃん、と沈んだ。


「……下手くそ」


「うるさいな。初心者なの」


ぼそっと言った鉄男に言い返したら、鉄男は、しまった、という顔をした。憎まれ口の出る相手じゃなかった、と思い出したのだろう。また、表情が硬くなっていく。


沈黙が落ちた。

波の音だけが、規則正しく、続いていた。


先に口を開いたのは、鉄男だった。


「……あのさ」


「ん?」


「…………ごめん」


絞り出すような声だった。


「トイレの、こと。親が謝ったんじゃなくて……オレが、ちゃんと、言ってなかったから。……ごめん、なさい」


鉄男は、頭を下げなかった。下げ方が分からない、という感じだった。ただ、石を握った手を、ぎゅっと固くして、砂を見ていた。


「うん。──聞いた。ちゃんと、受け取ったよ」


「……」


「もう、終わり。この話は、おしまい。……それより鉄男、訊きたいこと、あるんじゃないの。ずっと」


鉄男の肩が、跳ねた。


ゆっくりと、顔が上がった。あの夜と同じ、「なんで」と問いかける目が、私を見た。


「……なんで」


声が、かすれていた。


「なんで、知ってるんだ。オレ、誰にも言ってない。母ちゃんにも、父ちゃんにも、誰にも、一回も言ったことない。なのに、なんで、お前──」


「うん」


「……オレの、何が、分かるんだよ」


それは、突き放す言葉のはずなのに、すがるような響きをしていた。


私は、少し考えた。

ここで「私は元オッサンで、悪魔と契約して」と話すのは、簡単だ。楓には話した。でも楓とこの子では、状況が違う。今のこの子に必要なのは、信じられない奇譚じゃない。


だから私は、嘘のない範囲で、話すことにした。

あの男の話を。三人称で。


「……私ね、一人だけ、知ってるんだ。鉄男と、同じ人を」


「同じ……?」


「うん。体は男で、心は女の人。──もう、大人の人だけどね」


鉄男の目が、見開かれた。


「その人はね、子どものころから、ずっと分かってた。自分の体が、間違ってるって。でも、誰にも言えなかった。鉄男と同じ。お母さんにも、お父さんにも、友だちにも、一回も。──だって、言ったら、終わりだと思ってたから。気持ち悪いって言われて、笑われて、全部壊れると思ってたから」


波が、寄せて、返した。


「だからその人は、隠した。男らしくして、男の子の遊びをして、男の人として働いて。上手に隠したよ。何十年も。誰一人、気づかなかった。──でもね、隠すのが上手になっただけで、苦しみは、一日たりとも、緩和され……なくならなかった」


危ない。大人の言葉が出かけた。鉄男は気づいていない。続ける。


「五年生のとき、女子だけ集められる授業があって。その人は教室に残されて、閉まったドアをずっと見てた。お風呂が嫌いだった。鏡が嫌いだった。声変わりが始まったときは、世界が終わったと思ったって。──体がね、毎日ちょっとずつ、自分じゃない方向に育っていくんだよ。止めてって誰に頼んでも、止まらない。それがどんなに怖いか、私は、その人から聞いて知ってる」


鉄男の手から、石が、ぽとりと落ちた。


「……それ」


唇が、震えていた。


「それ、オレだ。……ぜんぶ、オレだ」


「うん」


「風呂、嫌いだ。鏡も。……あと、もうすぐ、声が……変わるって、体育の先生が、言ってて、オレ、オレ……」


言葉が、そこで詰まった。


そのときだった。


ぽつり、と。

頬に、冷たいものが当たった。


空を見上げる間もなく、雨粒が、ばらばらと砂浜を叩き始めた。沖縄の雨は、今日も前置きを知らなかった。


「鉄男、東屋!」


二人で、東屋に駆け込んだ。駆け込んだ途端、雨は本降りになり、世界は白い雨の幕に閉ざされた。


一年……じゃない、何週間か前。私が女の子としての人生を始めた日に、楓と出会った、この東屋で。今度は、鉄男と二人、並んで雨を見ていた。


雨の音が、すごかった。屋根を叩く音、砂を叩く音、海を叩く音。世界中の音という音が、雨に塗り潰されていく。


隣で、小さな声がした。


「……っ、く……」


見なくても、分かった。

鉄男が、泣いていた。


あの夜、玄関で、歯を食いしばって飲み込んだもの。何年も、ずっとずっと飲み込み続けてきたもの。それが今、決壊していた。


「う……っ、ぁ……あ、ああ……」


最初は殺した声だった。でも、雨の音が、すごかったから。

泣き声なんて、どうせ、雨に消えるから。


「……っああ、あああ、なんで、なんでオレ、男なんだよぉ……っ、やだ、やだよ、おっきくなりたくない、声、変わりたくない、ひげとか、やだ、ぜんぶやだ、こわい、こわいんだよぉ……!」


七歳の「てつこ」が訂正されてから、たぶん初めて。

この子は、本当のことを、声に出して言った。


私は、何も言わなかった。

背中もさすらなかった。慰めの言葉も、かけなかった。

ただ、海のほうを向いたまま、隣に立っていた。


男が泣くところを見るな──なんて、思っちゃいない。でも、この子の中の「男の子」は、まだそう思っている。だから、見ない。聞かない。ここにいるのは、雨の音だけ。私はただ、隣にいるだけ。


それが、今この子にしてあげられる、最大限だった。


鉄男は、長いこと、泣いた。

スコールが弱まって、雨の幕が薄くなって、水平線がまた見え始めるころ、泣き声は、しゃくり上げに変わり、やがて、鼻をすする音だけになった。


「……ごめ……」


「何が」


「……みっとも、ない、とこ」


「見てないよ、私。海、見てたから。──ほら、虹」


雨上がりの空に、薄い虹が、半分だけかかっていた。鉄男は、真っ赤に腫れた目で、それを見上げた。


「……キモいって、思わないのか」


ぽつりと、鉄男が言った。


「オレみたいなの。……男のくせに、女になりたいとか。気持ち悪りぃって、思わないのかよ」


「思わない」


考える間も入れずに、答えた。

即答は、ときに千の言葉より強い。それも、知っている。


「一ミリも、思わない。──さっき話した、私の知ってる人もね、一生分くらい、自分で自分を気持ち悪いって思って生きてたの。だから、これ以上、本人まで自分をいじめる必要、ないんだよ。世界が勝手にいじめてくるぶんで、もう、間に合ってる」


鉄男は、何か言おうとして、言えなくて、ただ、こくん、と頷いた。


私はポシェットを開けて、四つ折りの紙を取り出した。


「……これ。あげる」


「……何、これ」


「読んでみて。今じゃなくていい。家で、一人のときに」


鉄男は、紙を開いた。『おとなになっていく からだと こころの相談』の文字を、目で追っていく。読み進めるうちに、その目が、だんだん大きくなっていった。


「鉄男みたいな子のための、専門のお医者さんが、いるんだって。話を聞いてくれて、一緒に考えてくれる先生が。それでね──ここからが大事なんだけど──体が変わっていくのを、一時的に『お休み』させてもらえる方法も、あるんだって。ちゃんとお医者さんと、お家の人と相談して、だけどね」


「……休ませ、られるの? ……体が、変わってくの……」


「止める、んじゃなくてお休み。その間に、ゆっくり考えていいんだって。自分がどう生きたいか。──あのね、鉄男。今すぐ何かしなくていいの。誰かに言わなくてもいい。病院に行かなくてもいい。ただ……」


私は、診察室で先生がくれた言葉を、そのまま、手渡した。


「『方法がある』って知ってるだけで、いいの。出口のないトンネルと、出口のあるトンネルは、同じ暗さでも、ぜんぜん違うから」


鉄男は、パンフレットを、両手で持っていた。

壊れ物みたいに。

宝物みたいに。


それから、洟をすすって、掠れた声で言った。


「……なんで」


「ん?」


「……なんで、お前、そこまで……。オレ、お前に、あんなこと、したのに」


「んー……」


私は、少し考えて、にっと笑った。


「友だちに、なりたいから。──私、転校してきたばっかりで、友だち少ないの。楓と、優子と、清美と、知保と……あと一人くらい、欲しいなって」


鉄男は、ぐしゃぐしゃの顔のまま、ふは、と変な音を出した。笑ったのか、泣いたのか、分からない音だった。たぶん、両方だった。



雨はもう、ほとんど上がっていたけれど、空はまだ、ぐずぐずと小雨を残していた。


帰り際、私は持ってきた傘を、鉄男に差し出した。


「はい、これ」


「……いや、もう降ってねーし」


「いいから。それね、私のじゃないの。楓の傘」


鉄男の顔が、固まった。


「私が女の子になっ……、転校してきた最初の日にね、この海で、楓が貸してくれたの。どしゃ降りの中、自分の家まで取りに走って。──だからそれ、返すのは私じゃなくて、鉄男がいいと思う。楓に、直接」


「な……っ、無理だろ、それは! オレと楓、ずっとケンカしてて……」


「知ってる。楓から聞いた」


「あいつ、オレのこと、怒って……」


「怒ってないよ」


私は、楓の言葉を思い出していた。鉄男のこと、許してあげてほしい。できれば、友達になってほしい──。


「怒ってない。心配してる。ずーっとね。……まあ、信じられないなら、傘、返しに行って、自分の目で確かめれば?」


鉄男は、傘を、押しつけられるままに受け取った。それから、傘と、パンフレットと、私の顔を、順番に見た。


「……お前、何者だよ」


「星野さくら。十歳。──友だちには、さくらって呼ばれてる」


鉄男は、しばらく黙って、それから、目をそらしたまま、ぼそっと言った。


「……さくら」


「はい、よくできました」


「うっせ」



帰り道、一人になってから、私は濡れた砂浜を振り返った。


東屋。雨。傘。

私の新しい人生は、ぜんぶ、あそこから始まった。

今日、あの場所から、もう一人の誰かの何かが、始まっていたらいい。


楓、ごめん。傘、また貸しにしちゃった。

でも、怒らないでしょ、あんたなら。


ポシェットの中は、空っぽになった。

渡すべきものを、渡すべきときに、渡せた。


空っぽなのに、来たときより、ずっと重たい気がした。

いい重さだった。



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