第二部 第六章 はじめてのプリクラ
「さくらー、土曜日、ヒマ?」
金曜日の帰りの会のあと、優子が机に身を乗り出してきた。
「土曜日? うん、ヒマだけど」
「やった。じゃ、決まりね! 明日、みんなでモール行くから。さくらも行くよ」
「……行くよ、って。もう決定なの?」
「決定、決定。女子はね、誘われたら行くの。それが掟」
そんな掟があるのか。知らなかった。四十何年だか生きてきて、初めて聞いた。
「メンバーはね、あたしと、楓と、さくらと、清美と、知保。十時に、モールの一階の、ジンベエザメの水槽の前ね!」
優子は言うだけ言って、嵐のように帰っていった。
隣で帰り支度をしていた楓が、ぼそっと言った。
「……オレも行くの、あれ」
「掟なんでしょ」
「掟かぁ……」
楓は心底面倒くさそうな顔をしたけれど、口の端が、ちょっとだけ笑っていた。
◇
土曜日の朝は、戦争だった。
「お母さん! 何着ていけばいい!?」
「あらあらあら」
お母さんは、娘が初めて友だちと遊びに行くのが嬉しくてたまらないらしく、箪笥の前で私と並んで、ああでもないこうでもないと服を選び始めた。
「これは? この水色のワンピース」
「この前のと、印象かぶらない?」
「じゃあ、デニムのスカートに、この白いブラウス」
「……暑くない?」
「沖縄の子はね、みーんな半袖よ。ほら、これ」
結局、デニムのスカートと、襟に小さくレースのついた半袖のシャツに落ち着いた。鏡の前に立つと、まあ、たぶん、おかしくは、ない。と思う。いまだに自分では判定できないのが、もどかしい。
「はい、さくら。お小遣い」
玄関で、お母さんが財布から千円札を二枚、渡してくれた。
「二千円。お昼ごはん代も入ってるからね。無駄遣いしないのよ」
「……ありがとう」
千円札二枚を、買ったばかりの小さなポシェットにしまいながら、私は妙な感慨に打たれていた。
お小遣いを、もらった。
毎月、給料明細とにらめっこして、ローンだ保険だと天引きされた残りで暮らしていた(らしい)オッサンが。誰かから「はい」と二千円もらって、嬉しい。素直に、嬉しい。お金の重みって、額面じゃないんだな。
「車に気をつけてね! 五時までには帰るのよ!」
「行ってきまーす!」
◇
モールの一階、ジンベエザメの巨大な水槽(もちろん模型だ)の前には、もう三人が集まっていた。
優子。楓。それから、教室ではあまり話したことのない、おさげ髪に眼鏡の子──新里知保さん。
「おはよ、さくらさん。時間ぴったりだね。誤差三十秒以内」
知保さんは、腕時計を見ながらそう言った。挨拶が秒単位なの、すごいな。
「あとは清美か。……あ、来た来た」
優子が手を振った先から、ショートカットの子が、紙袋を抱えて小走りにやってきた。仲宗根清美さん。たしか、楓たちのグループの子だ。
「ごめんごめん! 開店と同時に本屋寄ってたら、新刊が、新刊が尊くて」
「着いて十秒で布教を始めない」
優子がぴしゃりと言った。布教。なるほど、そういう感じの子か。
「初めましてじゃないけど、ちゃんと話すの初めてだね。仲宗根清美です。好きなものは、漫画と、尊い関係性です」
「関係性……?」
「さくら、聞き返しちゃだめ。長くなるから」
楓が真顔で止めた。
◇
それからの数時間は、めまぐるしかった。
雑貨屋では、五人で頭を突き合わせてヘアピンを選んだ。私が手に取った無難な黒いピンは、優子に「却下! さくらは絶対こっち!」と、小さな白い花のついたピンにすり替えられた。鏡の前で前髪に留めてもらったら、店の照明のせいか、ちょっとだけ、可愛く見えた。三百八十円。即決した。コスパとか考えなかった。考えそうになったけど、やめた。
本屋では、清美さんの「布教」を全員で浴びた。なんとかという漫画の、誰それと誰それの関係が、いかに尊いか。半分も理解できなかったが、好きなものを語る人間の目の輝きは、業種を問わず、いいものだ。
フードコートでは、五人ともタコライスを頼んだ。知保さんが「統計的に、初手タコライスは正解」と謎の太鼓判を押した。実際、正解だった。
そして、午後。
ゲームセンターの、一角。
「よっしゃ、締めはプリクラね!」
優子が、ピンク色にまばゆく光る一角を指さした。
──プリクラ。
来た。あらかじめ言っておくと、私はプリクラというものを、撮ったことがない。オッサン時代の記憶をいくら漁っても、ゲームセンターのあのピンクの一角は「立ち入ってはいけない聖域」であって、近づいた記憶すらない。
「さくら、プリクラ初めて?」
「う、うん。前の学校では、撮る機会なくて」
「じゃあ今日が、プリクラデビューじゃん! 任せなさい!」
機械は、想像の三倍くらい進化していた。中に入ると、白い壁に囲まれた小部屋で、画面が次々に何かを訊いてくる。明るさ。目の大きさ。脚の長さ。──脚の長さ?
「はい、最初は全身ねー! 真ん中寄って寄って!」
『それじゃあ、撮るよー! 三、二、一──』
機械のお姉さんの声に合わせて、みんなが反射的にポーズを取る。私だけ棒立ちで一枚目が撮られた。
「さくら、固い固い! 棒!」
「ポーズとか、急に言われても」
「じゃ、次、全員ピース! ほっぺの横でピース!」
言われるがままに、頬の横で指を二本立てた。四十数年の人生で(たぶん)一度もやったことのないポーズだった。
『つぎ、ラスト! とびっきりの笑顔で!』
カシャ。
撮影が終わると、今度は機械の外側の落書きコーナーに移動して、タッチペンで画面に書き込みをするらしい。みんな慣れた手つきで、ハートだの星だの、「ズッ友」だのを書き込んでいく。
「さくらも書いて書いて!」
ペンを渡されて、画面を見た。
──そこに、写っていた。
五人の女の子が。
肌は陶器みたいにつるつるで、目は本来の一・五倍くらいあって、脚はモデルみたいに長くて、全員、ちょっとした宇宙人だった。
「ぶっ……何これ、目、でっか!」
「盛れてるって言うの!」
「盛れてる……これが……」
笑いながら、でも、私の目は、画面の真ん中あたりに吸い寄せられていた。
白い花のヘアピンをつけた女の子が、女の子たちに挟まれて、頬の横でピースをして、笑っていた。
作り笑いじゃなかった。
営業スマイルでも、女の子らしく見せるための計算の笑顔でもなかった。
ただ、楽しくて笑った顔が、そこに写っていた。
(……オレ、いま、ここにいるんだな)
線の、こちら側に。
女の子たちの、ど真ん中に。
誰に疑われることもなく、「女子五人組」の一人として。
「さくら? 早く書かないと時間切れになるよ!」
「あ、ごめん!」
慌ててペンを握って、自分の顔の横に、何か書こうとして──何も思いつかなくて、結局、小さな花マルを一つだけ書いた。
「何それ! 花マル!?」
「テストかっつーの!」
みんなが笑った。私も笑った。
でも、あれは正直な落書きだった。
花マル。よくできました。
──今日のオレに。いや、今日の、私に。
◇
機械の横の取り出し口から、シールになったプリクラが出てきた。優子が慣れた手つきでハサミを借りて、五等分に切り分ける。
「はい、さくらの分」
手のひらに、小さなシールが数枚、載せられた。
宇宙人みたいに盛れた五人。棒立ちの一枚目。花マル付きの、笑顔の一枚。
「プリ帳買わなきゃね、さくらも」
「プリ帳?」
「プリクラ貼るノート! 何年か経って見返すと、めっちゃ面白いんだから。『うわ、若っ!』って」
何年か経って、見返す。
胸の奥で、小さな時計の音がした。
何年か後。八年後、この子たちは十八歳で──私の時計は、そこで止まる。このシールの中の私は、その先もずっと、ここで笑っているのだろうか。
それから、もう一つ、気づいてしまった。
オッサンだったころの写真を、私は一枚も持っていない。顔も、名前も、思い出せない。あの男が四十何年か生きた証拠は、たぶん、この世のどこにも残っていない。
でも。
手のひらの上で、シールの中の女の子が、笑っている。
星野さくらは、二〇XX年の六月の土曜日に、友だち四人とモールに行って、タコライスを食べて、三百八十円のヘアピンを買って、プリクラを撮った。
その証拠が、ここにある。
ちゃんと、ある。
「──ね、最後にさ」
楓が、めずらしく自分から言い出した。
「もう一回だけ、撮らない? さっきの、オレ、目つぶってたから」
「楓から言い出すの、超レア!」
「いいじゃん別に! ……ダメなら、いい」
「撮る撮る! 行こ!」
五人でまた、ピンクの小部屋に駆け込んだ。
『それじゃあ、撮るよー! 三、二、一──』
二回目の私は、もう棒立ちじゃなかった。
◇
「ただいまー!」
五時三分前に、家に滑り込んだ。
「おかえり! どうだった?」
「楽しかった! あのね、これ買って、お昼はタコライスで、あと、プリクラ撮った!」
玄関先で、戦利品のヘアピンとプリクラを見せると、お母さんは目を細めて、シールを一枚一枚、眺めた。
「あらー、今のプリクラってこんななの? 目、おっきいねえ。──あら。この真ん中の、さくら? 可愛く撮れてるじゃない」
「でしょ」
「一枚、お母さんにちょうだい。冷蔵庫に貼っとく」
「冷蔵庫はやめて。せめて、もうちょっとマシな場所にして」
笑いながら靴を脱いで、自分の部屋へ階段を駆け上がった。
机の引き出しから、学校の連絡帳を出して、その裏表紙の内側に、花マルの一枚を、そっと貼った。プリ帳は、今度買う。それまでの仮の住まいだ。
シールの中で、白い花のヘアピンの女の子が笑っている。
(よくできました)
私は連絡帳を閉じて、引き出しにしまった。
窓の外で、夕方のセミが、まだ元気に鳴いていた。




