第二部 第五章 火曜日、十時三十分
約束の火曜日が、来た。
「さくら、忘れ物ない? 診察券は? 保険証はお母さんが持ってるから」
「大丈夫だってば。……お母さんのほうが、緊張してない?」
「し、してないわよ」
している。
朝ごはんのとき、お味噌汁を二回よそおうとしていた。どっちが診察を受けるんだか、分からない。
学校には、午前中だけ休むと連絡してある。昨日、楓には「病院。例の、記憶のやつ」とだけ伝えておいた。楓は「ん」と頷いただけで、何も訊かなかった。この子の「訊かない優しさ」には、毎度、助けられている。
病院は、先週CTを撮ったのと同じところだった。ただし今日は、入口が違う。総合受付の脇を抜けて、渡り廊下を一本渡った先。
『心療内科・思春期外来』
すりガラスの自動ドアの上に、やわらかい書体の案内板が掛かっていた。
◇
待合室は、本館の外来と違って、静かだった。
ソファの色はクリーム色で、壁には海の絵。観葉植物。本棚には、漫画と図鑑と、絵本。テレビはなく、かわりに小さな水槽で、カクレクマノミが二匹、ゆらゆら泳いでいた。
患者は、私たちのほかに三組。
制服姿の中学生くらいの女の子が、お母さんらしき人と並んで、ずっとスマホを見ている。
小学校低学年くらいの男の子が、絵本を読んでもらっている。
高校生くらいの男の子が、一人で、窓の外を見ている。
(……みんな、それぞれ、何かを抱えてここにいるんだな)
外からは見えない何かを抱えて、火曜日の午前十時に、ここに座っている。考えてみれば、私もその一人だ。「中身がオッサン」という、この待合室でもたぶん最上級にややこしい何かを抱えて。
「星野さくらさん、第二診察室へどうぞ」
優しい声のアナウンスで、私とお母さんは立ち上がった。
◇
「はじめまして。担当します、平良です」
第二診察室の先生は、白髪まじりの髪を後ろで一つにまとめた、五十代くらいの女の先生だった。白衣の下は、アロハに近い柄シャツ。机の上には、ハイビスカスの小さな鉢。
「星野さくらさん。十歳。──先週、名古屋から引っ越してきたばかりなのね。沖縄、暑いでしょう」
「暑いです。太陽が、痛いです」
「ふふ。いい表現ね。慣れるまでは、帽子を忘れずに」
雑談から入る医者は、いい医者だ。経験上、そう思う。緊張をほぐすのと同時に、こちらの受け答えの「平熱」を測っている。
先生はまず、お母さんから話を聞いた。あの朝のこと。「わたしは誰ですか」と言ったこと。CTで異常がなかったこと。それから、少し言いにくそうに、転校初日の、トイレでの出来事のこと。
「──ということが、ありまして。あの、先生、この子、やっぱりどこか……」
「お母さん」
平良先生は、お母さんの言葉を、やわらかく受け止めて、言った。
「ここから先は、さくらさんと二人で、お話させてもらえますか。お母さんは、待合室で。──大丈夫。取って食べたりしませんから」
お母さんは私の顔を見て、私が頷くのを確かめてから、後ろ髪を引かれる足取りで診察室を出ていった。
ドアが、閉まる。
先生は椅子を少し回して、机越しではなく、正面から私と向き合った。
「さて。──さくらさん。調子はどう?」
「……元気です。体は」
「体は、ね」
先生は微笑んで、カルテには目を落とさず、私の目だけを見ていた。
「思い出せないことについて、自分では、どう感じてる?」
来た。
この一週間、何度もシミュレーションした質問だ。
方針は決めてある。
嘘は、つかない。言わないだけ。
余計な細部を作らない。作った嘘は、必ずどこかで矛盾する。何百件の商談で学んだ、鉄則だ。
「困っては、います。お母さんとの思い出とか、前の学校のこととか、訊かれても答えられないので。……でも」
「でも?」
「混乱しても、思い出せないものは思い出せないので。今できることをやろう、って思ってます。学校に行って、友だちを作って、新しい生活に慣れること」
言い終わってから、しまった、と思った。
先生の目が、すっと細くなったのだ。怖い細め方ではない。興味深いものを見つけた、研究者の細め方だった。
「……さくらさんは、すごく、落ち着いてるのね」
「そう、ですか?」
「ええ。記憶をなくした子はね、ふつう、もっと混乱するの。泣いたり、怒ったり、不安で眠れなくなったり。十歳なら、なおさら。──でも、あなたは、まるで」
先生は、言葉を選ぶように、一拍置いた。
「まるで、一度ぜんぶ受け入れ終わった人みたいに、見える」
(……まずい)
背中に、ひやりとしたものが走った。
そうか。そういうことか。
落ち着いていること、それ自体が、この場では「症状」になるんだ。
十歳の子どもが、記憶を失って、平然と「今できることをやる」なんて言う。大人なら立派な態度だ。でも子どもなら──心が現実から切り離されている兆候、解離のサインに見える。冷静に振る舞えば振る舞うほど、「この子は感情に蓋をしている」「別の人格が処理している」という見立てに、近づいていく。
演技の方向を、間違えた。
「えっと……あの、ほんとは」
私は、視線をひざの上に落として、声のトーンを半音だけ上げた。
「ほんとは、夜、ちょっとこわい時あります。寝る前に、思い出そうとして、何にも出てこなくて。頭の中に、空っぽの押し入れがあるみたいで。……でも、朝になってお母さんの顔見ると、大丈夫になるから。だから、昼間は元気でいられるんだと思う」
これも、嘘ではない。
夜、井戸を覗いて、頭の芯が痛んだのは本当だ。空っぽの押し入れも、本当にある。お母さんの顔で持ち直すのも、本当だ。
──持ち直す理由が「罪悪感と責任感」だという部分だけ、言っていない。
先生は、ふむ、と小さく頷いた。細めていた目が、少しだけ、もとに戻った。
「そう。怖くなる時間が、ちゃんとあるのね。──それなら、いい。それが普通よ」
(……切り抜けた、か?)
「さくらさん。一つだけ、約束してくれる?」
「はい」
「思い出そうと、頑張りすぎないこと。記憶はね、引っ張り出そうとすると、奥に逃げるの。安心して暮らしていれば、戻るものは勝手に戻ってくるし──」
先生はそこで、なんでもないことのように、続けた。
「──戻らなくても、人は、ちゃんと生きていけます。記憶が消えていてもね、感情は、残ることがあるの。大事だった人のことは、思い出せなくても、大事だった、ということだけは、体のどこかが覚えてる。だから、焦らなくていい」
心臓を、そっと、素手で触られた気がした。
記憶が消えていても、感情は残る。
大事だった人のことは、思い出せなくても──。
井戸の底で、また、こつん、と小石の音がした。
オレに、家族なんて、いたか?
あの晩、給食のパインの前で蓋をした、あの井戸の底で。
「……はい」
返事をするのが、精一杯だった。
◇
診察の本題が一段落したところで、私は切り出した。
今日、ここに来た、もう一つの目的を。
「あの、先生。診察と関係ない質問、してもいいですか」
「どうぞ」
「思春期外来って……体が大人になっていくのが、怖い子も、来ますか」
平良先生は、表情を変えなかった。ただ、椅子の背もたれから、少しだけ体を起こした。
「来ますよ。たくさん、ね」
「たとえば……男の子の体に生まれたけど、心は女の子、っていう子も?」
「来ます」
先生は、まっすぐに答えた。ごまかしも、子ども向けの砂糖がけもない、いい答え方だった。
「体の性別と、心の性別が一致しない子はね、昔から、ずっといるの。珍しいことでも、おかしいことでもない。ただ、本人はとても苦しい。特に、これから体が変わっていく、あなたたちくらいの年頃はね」
「……その子たちって、どうするんですか。体が、変わっていくのを、ただ我慢するしか、ないんですか」
「いい質問ね」
先生は、机の引き出しから、一枚のパンフレットを取り出した。表紙には『おとなになっていく からだと こころの相談』とあった。
「今はね、方法があるの。専門のお医者さんがいて──ジェンダークリニックって言うんだけど──そこで、時間をかけて、本人とご家族とお話をして、本当に必要だと判断されたら、第二次性徴を、一時的にお休みさせるお薬を使うことがある」
「お休み……」
「そう。止める、んじゃなくて、お休み。GnRHアゴニストっていう、長い名前のお薬でね」
(──それだ。「何とかアゴニスト」。やっぱり、あったんだ)
「体の変化を一旦お休みさせて、その間に、本人がゆっくり考える時間を作るの。自分はどう生きたいのか。薬をやめれば、変化はまた始まるから、『考える時間をもらう』ための薬、と先生は説明してます。──ただしね、さくらさん」
先生は、人差し指を一本、立てた。
「これは、絶対に、専門のお医者さんと、お家の人と、本人が、ちゃんと一緒に進めるもの。こっそりやるものでも、簡単に決めるものでもない。時間も、たくさんの話し合いも、必要。──それでもね、一番大事なことを言うとね」
「はい」
「『方法がある』って知ってるだけで、救われる子が、いるの。出口のないトンネルと、出口のあるトンネルは、同じ暗さでも、ぜんぜん違うから」
出口のあるトンネル。
私は、塗り潰された「男」の一字を思い出していた。下駄箱のシールに伸びて、止まった指を。一年生の半紙に書かれた、「てつこ」の三文字を。
あの子のトンネルに、出口の明かりを、灯せるかもしれない。
今すぐじゃなくても。いつか、あの子が自分で歩き出すときに。
「……先生。そのパンフレット、もらってもいいですか」
「どうぞ。──ところで、さくらさん」
先生は、パンフレットを渡しながら、ごく静かな声で言った。
「いまの質問は、お友だちのこと? それとも──あなた自身のこと?」
一瞬、部屋の空気が止まった。
さすがに、見ている。この先生は、見ている。
でも、慌てる必要はない。なぜなら──。
「友だちの、ことです」
──それは、一点の曇りもない、本当のことだから。
私の望みは、もう叶ってしまった。世界一無茶苦茶な方法で。だからこの質問は、丸ごと、あの子のためのものだ。
先生は、数秒、私の目を見ていた。
それから、ふっと目元をゆるめた。
「そう。……いいお友だちね、あなたは」
「いえ。──まだ、友だちじゃないんです。これから、なるんです」
先生は一瞬きょとんとして、それから、声を出して笑った。
「うん。それも、いい答え」
◇
「お母さん。さくらさんはね、心配いりません」
診察の終わり、待合室から呼び戻されたお母さんに、平良先生は言った。
「記憶のことは、焦らず、経過を見ましょう。無理に思い出させようとしないこと。クイズみたいに『これ覚えてる?』って試すのもなし。ご家族は、いつも通りに、安心できるお家でいてあげてください。──それがいちばんの薬です」
「……はい」
「それからね、お母さん。これは、医者としてというより、年の功で言うんだけど」
先生は、少しだけ声をやわらげた。
「記憶をなくす前のさくらさんと、今のさくらさんを、比べないであげてね。お母さんの中の『前のさくらちゃん』と違うことがあっても、それは『壊れた』んじゃなくて、『今のこの子』なの。今のこの子と、新しく仲良くなるつもりで、いてあげて」
お母さんは、はっとした顔をして、それから、ゆっくり、深く、頷いた。
隣で聞いていた私は、うつむいて、唇を噛んだ。
──先生。あなたの言う通りです。あなたが思っているのと、まったく違う意味で、その言葉は、何もかも正しいんです。
「次は一ヶ月後に、顔を見せてください。何かあれば、いつでも前倒しでいいから」
◇
帰り道、お母さんの運転する車は、海沿いの道を走った。
「さくら、アイス食べてく? ブルーシール」
「食べる!」
国道沿いの店に寄って、お母さんは紅イモ、私は塩ちんすこう味を選んだ。店の前のベンチで、二人で並んで食べた。アイスは、太陽に負けて、競争みたいに溶けていった。
「……ねえ、さくら」
「ん?」
「先生が言ってたこと、お母さん、ちゃんとやるからね。比べない、ってやつ。──だからさくらも、無理に『前のさくら』に戻ろうとか、思わなくていいからね。今のさくらで、いいんだからね」
お母さんは、前を向いたまま、アイスを見つめて、そう言った。
胸の奥が、ぎゅう、と痛んだ。
この人は、何も知らない。娘の体の中身が入れ替わっていることも、「前のさくら」がもうどこにもいないかもしれないことも。何も知らないまま、「今のあなたでいい」と言ってくれる。
ごめんなさい。
ありがとう。
どっちを言っても、嘘になる気がして、私は、アイスを一口、大きく齧った。
「……っめた!」
「あはは。慌てて食べるから」
頭がきーんとするのを、笑ってごまかした。
ポケットの中には、四つ折りにしたパンフレットが入っている。
出口のあるトンネル。
その地図を、私はいま、一枚、手に入れた。
渡す日は、まだ先でいい。
でも、その日は、必ず来る。
来させて、みせる。
窓の外を、エメラルドの海が流れていった。




