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時の澱  作者: 琉球すみれ
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第二部 第四章 区別された日

その日は、朝からどこか、教室の空気がそわそわしていた。


理由は分かっていた。連絡黒板の五時間目の欄に、こう書いてあったからだ。


『五時間目 ほけん(女子→多目的教室 男子→教室で保健プリント)』


「なーなー、女子だけ集められて、何の話するわけ?」


給食の時間、忍がプレートの上のもずくを箸でつつきながら言った。


「あんたには関係ないの」


優子が即座に斬って捨てた。


「えー、何それ。男子だけプリントって、差別じゃね?」


「差別じゃなくて区別! ──ね、さくら」


「え? ……あ、うん。区別、区別」


話を振られて、私は曖昧に頷いた。

区別。

その言葉が、胸のどこか深いところに、小さな棘のように刺さった。


知っている。この日のことは、知っている。

何十年も前、オレが小学生だったころにも、この日はあった。



五時間目のチャイムが鳴ると、女子たちはぞろぞろと多目的教室へ移動を始めた。


「めんどくさ……」


隣で楓が、世界中の面倒を一人で引き受けたような顔をして、椅子から立ち上がった。


「楓は、こういうの、嫌い?」


「嫌い。──『女子だけ集まれ』ってやつが、そもそも嫌い。なんか、こう……勝手に仕分けされてる感じがして」


仕分け。

楓の言葉の選び方は、いつも正確だ。


多目的教室には、長机が並べられ、五年生の女子が二クラスぶん、集められていた。一組の女子たちの顔も見える。教壇には保健の先生と、養護の先生。スクリーンには、もうスライドの一枚目が映し出されていた。


『おとなに近づく わたしたちのからだ』


私は楓と並んで、後ろのほうの席に座った。


「はい、みなさん、こんにちは。今日は、これからみなさんの体に起こる、大切な変化のお話をします」


先生の声は、やわらかかった。

体が少しずつ大人に近づくこと。背が伸びて、丸みを帯びてくること。初経というものが、いつか、一人ひとり違うタイミングで来ること。それは病気でも、恥ずかしいことでもなくて、体がちゃんと育っている証拠だということ。困ったときは、保健室にいつでも来ていいこと。


教室のあちこちで、女子たちが、くすぐったいような、落ち着かないような顔で、隣同士で目配せをし合っていた。もう知ってる、という顔の子。初めて聞く、という顔の子。気まずさを笑いに変えようとする子。真剣にメモを取る子。


私は──。


私は、スライドの光をぼんやり見つめながら、何十年も前の、あの日の廊下に立っていた。



あれは、たしか、同じ五年生のときだった。


ある日の午後、先生が言ったのだ。「女子はこのあと、視聴覚室に集まってください。男子は教室で自習です」と。


女子たちは、わけも分からないまま、ざわざわと教室を出ていった。男子たちは「なんだなんだ」と騒ぎ、誰かが「女子だけずるい」と言い、誰かが「どうせ大した話じゃねーよ」と言った。


オレは──自習のプリントを前に、ずっと、ドアを見ていた。


女子たちが消えていった廊下の先。閉められた、視聴覚室のドア。あの向こうで、何の話がされているのか。男子たちは下品な憶測で笑い合っていたけれど、オレは笑えなかった。笑えないことを悟られないように、笑った顔だけ、作っていた。


あのとき、はっきりと分かったのだ。


世界には、線が引かれている。

男の子と、女の子の間に。

そして、オレは──線の、向こう側に行けない。


それまでだって、薄々は感じていた。けれど、あの日ほどはっきりと、世界から「おまえはこっち」と仕分けられた日は、なかった。誰に悪気があったわけでもない。先生は当たり前の仕事をして、当たり前の配慮をしただけだ。なのに、あの閉まったドアは、オレの人生で最初の、越えられない壁だった。


視聴覚室から戻ってきた女子たちは、なんだか少しだけ、秘密を共有した者同士の顔をしていた。何の話だったのか、訊くことはできなかった。訊いてはいけないことだと、線のこちら側の全員が、心得ていた。


オレはあの日、廊下とドアの記憶だけを、ランドセルに詰めて帰った。

そして、誰にも言わなかった。

言えるわけが、なかった。



「──だから、もし学校で初めて来ても、慌てなくて大丈夫。保健室に来てくれたら、ちゃんと必要なものがあります」


先生の声で、我に返った。


ここは、沖縄の小学校の、多目的教室。

スクリーンには、やわらかい色のイラスト。

まわりには、二クラスぶんの女子たち。


そして、その中に、私が、いる。


ドアの、こちら側に。


あの日、どうしても越えられなかった線の、こちら側に、当たり前みたいな顔をして、座っている。誰にも咎められず、誰にも疑われず、「みなさんの体」という言葉の、「みなさん」の中に、私は入っている。


──そう思った瞬間だった。


視界が、ぐにゃりと歪んだ。


(え)


熱いものが、目の縁を、あっという間に乗り越えた。頬を伝って、机の上のプリントに、ぽた、と落ちて、小さな丸い染みを作った。


(待て、待て待て。なんで、泣く)


慌てて下を向いた。止まらなかった。一粒落ちたら、堰が切れたみたいに、後から後から溢れてきた。声は出さなかった。出さない技術なら、ある。歯を食いしばって、肩で息をしないようにして、ただ、机の木目だけを見つめた。


嬉しいのか。

悲しいのか。

自分でも、分からなかった。


やっと入れてもらえた。それは、嬉しい。涙が出るほど、嬉しい。

でも同時に、あの日の廊下に立っていた男の子が──何十年も前の、線の向こうに行けなかった、あの子が、可哀想で、可哀想で、仕方がなかった。


おまえの居場所、あったぞ。

何十年もかかったけど、あったぞ。

寿命と引き換えだったけど。名前も家族も全部置いてきたけど。

──あったぞ、ここに。


あの日の自分に、そう言ってやりたいのに、言えたとしても、あの子は救われないのだ。あの子はあのまま、何十年も線の外側を歩いて、笑った顔だけ作って、誰にも言わずに、大人になったのだから。


プリントの染みが、二つ、三つと増えていく。


そのとき、机の下で、すっと、何かが差し出された。


ハンカチだった。


見覚えが、あった。

水色の、隅に小さな花の刺繍が入った──私のハンカチ。初めて女の子になった日、雨のビーチで、ずぶ濡れの「男の子」に貸した、あのハンカチだ。


隣を見ると、楓は、スクリーンのほうをまっすぐ向いたままだった。こちらを見もせず、何も言わず、ただ机の下で、ハンカチだけを差し出していた。


「……っ、」


受け取った。洗濯されて、きちんとアイロンまでかかった、私のハンカチ。ほのかに、太陽の匂いがした。


それを目に押し当てたら、よけいに涙が出た。



授業が終わって、女子たちが連れ立って多目的教室を出ていく中、楓は何も訊かずに、私の隣をゆっくり歩いてくれた。


廊下の窓から、グラウンドが見えた。プリントを早々に終えたらしい男子たちが、もう外でボールを追いかけていた。


「……ハンカチ、ありがとう。返すタイミング、ずっと逃してた」


楓が、前を向いたまま言った。


「うん。……ナイスタイミングだったよ。一生ぶんくらい」


「何それ」


楓は小さく笑って、それから、少しだけ声を落とした。


「……訊かないけどさ。一個だけ、当てていい?」


「……どうぞ」


「さくら、あの教室に入れたのが、嬉しかったんでしょ」


足が、止まった。


「オレはさ、ああいうの、ずっと『仕分け』だと思ってた。勝手に女子の箱に入れられる感じがして、嫌で嫌でしょうがなかった。──でも、さくらは、ずっとあの箱に入りたくても、入れてもらえなかったんだよね。同じ教室なのに、さ」


楓は、窓の外のグラウンドを見たまま、続けた。


「オレが捨てたいくらい余ってるものを、さくらはずっと欲しかったんだ。……なんか、世界って、配り方へたくそだよね」


配り方が、へたくそ。


笑ってしまった。涙の残りで、ぐずぐずの笑い方になったけれど、笑ってしまった。

まったくだ。性別も、名前も、寿命も。この世界は、配り方が、絶望的にへたくそなのだ。


「……ほんとだね」


「ん」


それ以上、楓は何も言わなかった。私も言わなかった。

ただ、二人で廊下を歩いた。それで、十分だった。



教室に戻る角を曲がるとき、ふと、一組の教室の前を通った。


開け放たれたドアの向こう、男子たちがプリントを片づけている中に、鉄男の姿が見えた。


窓際の席で、頬杖をついて、グラウンドのほうを見ていた。

いや──違う。

グラウンドじゃない。

女子たちが、ぞろぞろと戻ってくる、この廊下のほうを。


目が合う前に、私は視線を外して、通り過ぎた。


知っている。

あの目を、知っている。

閉まったドアを見ていた、あの日のオレと、同じ目だ。


あの子は今日、線の向こう側で、笑った顔を作って座っていたのだ。

何の話か、訊くこともできずに。


──大丈夫。


心の中で、私はあの子の背中に、そっと言った。


線は、引かれてる。今はまだ、嫌になるくらい、くっきりと。

でも、線っていうのは、引き直せるんだよ。

私が、その証拠だ。

ずいぶん、無茶な引き直し方をしたけどね。


夕方の風が、廊下を抜けていった。

潮の匂いのする、南の島の風だった。




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