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時の澱  作者: 琉球すみれ
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第二部 第三章 鉄の名前

トイレ騒動から、四日が過ぎた。


クラスのひそひそ話は、潮が引くように小さくなっていった。子どもの噂の寿命は、大人のそれより、ずっと短い。代わりに教室の話題を独占しているのは、来月に迫った水泳学習と、誰それが買ってもらったゲームの話だった。ありがたいことだ。


その日の昼休み、私は楓と二人で、渡り廊下の掲示板の前にいた。


「ほら、これ。先週の書道の時間に書いたやつ。五年生全員ぶん、貼り出されたって」


掲示板には、半紙が隙間なく並んでいた。課題はどのクラスも同じ、「希望」の二文字。右側が二組、左側が一組の作品らしい。


「うわ、忍の字、ひっでぇ」


楓が指さした半紙は、「希望」というより「布望」に見えた。希の字の上半分が、布に敗北している。


「人の字、笑うもんじゃないよ」


「さくらのはどれ? ……あ、これか。……うっま!? 何この字、大人みたい」


「あー……、書道、昔ちょっとやってたから」


嘘ではない。会社員時代、取引先への礼状を手書きで書かされる文化の部署にいた。ペン字と筆は、人並み以上には書ける。──十歳の女の子の作品としては、少々できすぎたかもしれない。手加減を忘れていた。


「ふーん。……ね、それよりさ」


楓が、声を半分落として、掲示板の左側──一組の列を、顎で示した。


「鉄男の、見て」


言われて、一組の作品を端から目で追った。

あった。「大城鉄男」の名前。


「……上手いね」


正直に、そう思った。「希望」の二文字は、堂々として、線が生きていた。とめ、はね、はらい。どれも気持ちがいい。荒っぽいと言われているあの子の字とは、とても思えない。


「でしょ。鉄男、字ぃ上手いんだよ、昔っから。──じゃなくて。名前のとこ、よく見て」


半紙の左端。学年と組と、名前を書く場所。


『五年一組 大城鉄男』


──最後の一文字だけ、潰れていた。


「大城鉄」までは、本文と同じ、伸びやかな字。なのに「男」の一字だけ、墨が黒々と固まって、何度も何度も上から書き重ねたように、文字の形が沈んでいた。まるで、その一文字だけ、書きたくなかったみたいに。書いては塗り潰し、書いては塗り潰し、最後には観念して、黒い塊の上に無理やり刻みつけたみたいに。


「……前からなの? これ」


「ん-…、ハッキリ気づいたのは、四年の終わりくらいかな。習字のときだけじゃないよ。テストの名前も、図工の作品のやつも。『男』のとこだけ、いっつも、ぐしゃってなってる。筆圧で紙が破れてたこともある」


楓は、掲示板から目を離さずに言った。


「先生は『雑に書くな』って注意するけどさ。──あれ、雑なんじゃないよね。たぶん、逆だ」


逆。

そう、逆だ。

雑に書ける子は、あんなふうにはならない。

あの黒い塊は、書きたくない一文字と、書かなければならない現実とが、半紙の上で殴り合った痕だ。



帰り道、楓が鉄男の名前の由来を教えてくれた。


「鉄男んち、鉄工所なんだよ。『大城鉄工』。港の近くの。船の部品とか、修理とかやってる」


「ああ……。それで、鉄、男」


「そ。じいちゃんの代からの店で、鉄男は長男で、一人息子。──『鉄のように強い男になれ』って、父ちゃんがつけたんだって。本人から聞いたことある。低学年のころ、まだ仲良かったときに」


鉄のように強い男になれ。


四日前の夜、玄関先で頭を下げ続けていた、あの大柄な父親の姿を思い出した。堅い声。堅い背中。悪い人ではないのだろう。息子の不始末に、夜のうちに親子三人で詫びに来る。筋は通す人だ。


ただ──その人が我が子に込めた「鉄」の一字が、当の本人の体を、内側から錆びつかせている。本人以外、誰一人それに気づかないまま。


「あのさ、楓。……つかぬことを聞くけど。鉄男って、低学年のころ、名前のことで何か、なかった?」


楓は少し驚いた顔をして、それから、記憶を漉すように、ゆっくり瞬きをした。


「……あー。……一個だけ、ある。一年生のとき」


「うん」


「ひらがなで自分の名前を書く練習、あったでしょ。『おおしろてつお』って。──あいつ、『てつこ』って書いたんだよ」


足が、止まりそうになった。


「先生は『書き間違い』だって直させて、まわりの男子は『てつこ! てつこ!』って、しばらく囃したてて。鉄男、真っ赤になって怒って、机蹴っ飛ばして。……それから、だったかも。あいつが乱暴になってったの」


楓は、自分の言葉を自分で確かめるように、ゆっくり続けた。


「ずっと、ただの書き間違いだと思ってた。一年生なんて、みんな鏡文字とか書くしさ。……でも、こないだの話、聞いたあとだと──あれ、間違いじゃ、なかったのかもね」


七つの子どもが、生まれて初めて、紙の上に書いてみた名前。

てつこ。

たった一字。「お」を「こ」に変えただけの、ささやかな、ささやかな願い。

それは「書き間違い」として訂正され、笑い声に変わり、本人は二度と、その一字を書かなかった。


代わりに、「男」の字を塗り潰すようになった。


「……そっか」


それしか、言えなかった。



その夜、自分の部屋で、宿題の漢字ドリルを広げた。


ノートの隅の名前欄に、「星野さくら」と書く。

すらすらと、書ける。

むしろ、書くたびに、少し、嬉しい。


さくら。

ひらがな三文字の、やわらかい名前。世界でいちばん女の子らしい名前の一つを、私は四日前、目が覚めたら持っていた。望むことすら自分に許さなかったものを、ただで、もらった。


──じゃあ、前の名前は。


シャーペンを持つ手が、止まった。


オッサンだったころの、オレの名前。

何だった?


苗字。下の名前。会社で呼ばれていたはず。何百回、何千回、書類にサインしたはず。名刺にも刷ってあったはず。


……出てこない。


苗字の、最初の一文字すら。音の、最初のひとかけらすら。

井戸の底を覗き込むように記憶を探ると、頭の芯のあたりが、ずきん、と重く痛んだ。


『大人だったころの記憶を、掘り起こそうとするなよ。おまえが苦しむだけだから』


「……名前まで、持っていったのか」


声に出して言ったら、思いのほか、寂しい響きがした。


あの影は、家族の記憶を消すと言った。年齢の記憶も消えていた。そして名前も。考えてみれば当然かもしれない。名前は、人と人を結ぶ最初の糸だ。糸を断つなら、まず名前からだ。


机の上のノートには、「星野さくら」の五文字。

今のオレ……、私の、全財産みたいな名前。


ふと、思った。

鉄男は、捨てたい名前を、捨てられずにいる。

私は、捨てた名前を、もう思い出せない。

そして、欲しかった名前を、何の対価か分からないまま──いや、対価ははっきりしている。寿命、ほぼ全部だ──手に入れた。


名前って、何なんだろうな。

親が最初にくれる、いちばん大きな贈り物で。

ときどき、いちばん重い、呪いになる。


それから私は、オッサンの記憶の抽斗から、一つの知識を引っ張り出した。これは消されていなかった。


──名前は、変えられる。


下の名前なら、家庭裁判所に申し立てて、「正当な事由」が認められれば。たしか、十五歳になれば、本人の意思で申し立てができたはずだ。会社の後輩に、改名した子がいた。手続きの話を、飲みの席で聞いたことがある。


十五歳。

鉄男が十五になるとき、私は──生きていれば、十五歳。寿命は、十八まで。


(……間に合うな)


いつか、あの子が自分の名前と本気で戦う日が来たら。

そのとき、この知識を渡そう。

今じゃない。今渡しても、ただの残酷な「おあずけ」だ。七歳の「てつこ」を笑われた子に、「あと何年か我慢すれば」なんて、大人の時間感覚の押しつけでしかない。


渡すべきときに、渡すべきものを、渡せる距離にいること。

今の私にできるのは、それだけだ。



翌朝、昇降口で。


靴を履き替えていると、少し離れた一組の下駄箱の前に、鉄男が一人で立っているのが見えた。


登校してきたところ、らしい。なのに、靴を出すでもなく、ただじっと、自分の下駄箱を見ていた。

扉に貼られた、名前のシールを。


『大城鉄男』


鉄男の指が、すっと伸びて、シールの端に触れた。

剥がすのかと思った。

けれど指は、端っこを少しだけ撫でて、止まって──そのまま、離れた。


鉄男は何事もなかったように靴を放り込み、上履きをつっかけて、校舎の奥へ歩いていった。最後まで、こちらには気づかなかった。


私は自分の下駄箱の前で、その背中を見送った。


剥がせないよな。

名前は、靴箱のシールみたいには、剥がせない。


でも──貼り替えられない、わけじゃないんだ。


私は上履きの踵をとんとんと床で整えて、教室へ向かう階段を上った。

階段の窓から見える空は、今日も腹立たしいほどの快晴で、どこかでセミが、夏の続きを鳴いていた。



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