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時の澱  作者: 琉球すみれ
14/22

第二部 第二章 二つの教室

翌朝。


「行ってきまーす」


玄関で靴を履いていると、お母さんが廊下の奥から小走りに出てきた。


「さくら、本当に大丈夫? 今日くらい、休んでもいいんだよ」


「大丈夫だってば。昨日、ちゃんと解決したでしょ」


「解決って、あんた……」


お母さんはまだ何か言いたそうだったけれど、結局、言葉を飲み込んで、代わりに私の麦わら帽子のつばを、両手でくいっと直した。


「……車に気をつけてね」


「うん。行ってきます」


外に出ると、今日も沖縄の太陽は朝から全力だった。


休む、という選択肢は、最初からなかった。

こういうとき、一日休めば、二日休みたくなる。二日休めば、教室のドアは鉄の扉になる。会社で、出社できなくなっていった若い社員を、何人も見てきた。最初の一日を越えられるかどうかが、すべてなのだ。


それは、たぶん──鉄男も、同じ。


(あいつ、今日、学校に来られるかな)



教室に入った瞬間、分かった。


来てる。──視線が。


おしゃべりの声が、一瞬だけ小さくなって、また元に戻る。でも、戻ったあとの声には、さっきまでとは違う成分が混じっている。ひそひそ。ちらちら。「あの子だよ」「立ちションの」「男子トイレの」。


聞こえないふりをして、自分の席に向かった。


何十年も会社員をやっていれば、こういう視線には慣れている──と言いたいところだが、嘘だ。慣れるわけがない。大人の世界の視線は、もう少し行儀がいい。会議室の外で囁かれて、本人の耳には入らないように配慮される。小学生の視線は、剥き出しだ。好奇心に、包装紙がかかっていない。


「おはよ、さくら」


席に着くと、隣の楓が、いつもと寸分変わらない声で言った。


「……おはよう」


それだけのことが、妙にありがたかった。

楓は教科書を机に積みながら、声を落とした。


「ゆうべ、鉄男んち、さくらの家に謝りに行ったんだって?」


「え、なんで知ってるの」


「島は狭いの。──で? さくらの父ちゃん、ぶち切れたでしょ」


「ぶち切れた。玄関が凍るかと思った」


「でしょうね」


楓はちょっと笑って、それから、笑いを引っ込めた。


「……鉄男、今日、学校来てるよ。さっき昇降口で見た」


「そっか」


「そっか、って。さくらは平気なわけ? 同じ学校に、アイツがいて」


「平気……かどうかは分かんないけど。来られたんなら、よかったと思ってる」


楓は、変なものを見る目で私を見た。昨日、「中身はオッサン」「悪魔と契約した」という話を軽蔑せずに聞いてくれたこの子でも、これはやっぱり、変に聞こえるらしい。


キーンコーンカーンコーン。


チャイムが鳴って、みやこ先生が教室に入ってきた。先生は出席を取る前に、教室をぐるりと見渡して、一言だけ言った。


「昨日のことで、いろいろ聞いてる人もいると思います。けど、先生から言うことは一つだけ。──終わった話です。蒸し返した人は、先生、本気で怒るからね」


教室が、しんとなった。

先生なりの、精一杯の防波堤なのだろう。ありがたい。ありがたいけれど──「蒸し返すな」と言われた話ほど、子どもは蒸し返したくなるものだ。それも、知っている。



二時間目のあとの休み時間。


廊下に出たところで、向こうから歩いてくる一組の集団と、すれ違った。移動教室らしく、男子も女子も、リコーダーやら音楽の教科書やらを抱えている。


その列の、一番後ろに。

鉄男が、いた。


俯いて、壁ぎわを、誰の視界にも入らないように歩いていた。あんなに大きく見えた体が、廊下の隅で、一回りも二回りも小さく見えた。


列の女子たちが、鉄男にだけ、不自然に距離を取っているのが分かった。鉄男が半歩近づくと、半歩離れる。誰も何も言わない。言わないことで、伝えている。──近寄るな、と。


(……女子からの視線が、一番痛いんだろうな)


そうだろうと思う。鉄男にとって、女子は。

憧れの、対象だったはずだから。

本当なら、自分もあちら側にいたかった人たちから、汚いものを見る目で見られる。それが、どれだけ──。


気がつくと、私は半歩、列のほうへ踏み出していた。


(──いや。待て)


足を、止めた。


ここで私が声をかけたら、どうなる?

「被害者の女子」が「加害者の男子」に、廊下のど真ん中で声をかける。十秒後には学校中の噂だ。「あの転校生、ヤラれかけたのに男に声かけてる」「実はデキてるんじゃね?」──子どもの世界の物語の作り方は、大人の世界のワイドショーと、構造がまったく同じだ。鉄男は今より悪い意味で目立ち、私も悪い意味で目立つ。誰も得をしない。


それに、何より。

今の鉄男に必要なのは、励ましの言葉じゃない。

そっとしておいてもらえる時間だ。傷が、かさぶたになるまでの。


昨日の夜、私はもう、渡すべきものは渡した。

「知ってるよ。誰にも言わないよ」──あの目配せ一つで、十分なはずだ。あとは、あいつが自分の足で立つのを、待つ。


焦って手を差し伸べるのは、助けたい側の自己満足だ。

それくらいの分別は、オッサン何十年で、身についている。


私は踏み出した半歩を引っ込めて、何も見なかった顔で、水飲み場のほうへ歩いた。


すれ違いざま、一瞬だけ。

俯いていた鉄男の目が、ちらりと、こちらを見た気がした。



給食の時間。


「ねーねー、さくら」


忍が、牛乳のストローをくわえたまま、身を乗り出してきた。


「昨日のトイレのことなんだけどさー」


「忍!」


優子の平手が、忍の後頭部に飛んだ。いい音がした。


「あんた、先生の話聞いてなかったわけ? 蒸し返すなって言われたばっかでしょーが!」


「いや、蒸し返すんじゃなくて! オレはただ、さくらが大丈夫かなって……」


「それを蒸し返すって言うの!」


「い、いいよ優子ちゃん。──私は大丈夫。ありがとね、忍」


「……お、おう」


忍は耳を赤くして、牛乳に戻っていった。


この子は、たぶん、本当に心配してくれていたのだ。デリカシーが行方不明なだけで。

こういう不器用な優しさは、嫌いじゃない。


ふと、視線を感じて顔を上げると、楓がじっと私を見ていた。


「何?」


「……いや。さくらってさ、なんか、揉めごとの真ん中にいるのに、揉めないよね」


「そう?」


「そうだよ。フツー、昨日の今日だったら、学校休むか、泣くか、誰かに当たるかするって。──さくらは、なんか、全部が終わったあとの人みたい」


(……鋭いな、この子は)


全部が終わったあとの人。

言い得て妙だ、と思った。なにしろ、人生を一回、終わらせてきた身だ。会社も、名前も、家族も──。


……家族?


オレに、家族なんて、いたか?


胸の奥で、何かが、こつんと音を立てた。小さな小石が、深い井戸の底に落ちたような音だった。覗き込もうとすると、井戸の中は真っ暗で、何も見えない。


『大人だったころの記憶を、掘り起こそうとするなよ。おまえが苦しむだけだから』


あの影の声が、頭の奥で再生された。


「……さくら? おーい?」


「あ、ごめん。なんでもない」


私は井戸に蓋をして、デザートのパインに、フォークを刺した。

沖縄のパインは、暴力的に甘かった。



放課後。


帰り支度をしていると、楓がランドセルを背負いながら言った。


「さくら、今日も一緒に帰ろ」


「うん」


昇降口で靴を履き替えて、校門を出る。シーサーの横を通り過ぎたところで、楓がぽつりと言った。


「……鉄男さ。今日、一日じゅう、自分の席から動かなかったって。休み時間も、ずっと」


「誰情報?」


「一組に、幼なじみがいるの。──トイレも、行けてないんじゃないかって」


トイレ。

そうか。あいつにとって、男子トイレは、もう。

あの場所は昨日から、自分の罪の現場になってしまったのだ。


「……ねえ、楓」


「ん?」


「鉄男のこと、しばらく、そっとしておいてあげて。楓も、幼なじみの子も。──励ましたり、話しかけたりしないで、普通にしてるのが、いちばんいいと思う」


「……なんで?」


「今あいつに優しくすると、あいつは『優しくされる理由』を考えなきゃいけなくなるから。それって、昨日のことを毎回思い出すってことでしょ。──忘れさせてあげるのが、先」


楓は、しばらく黙って歩いていた。

赤瓦の屋根の向こうで、入道雲が、もくもくと育っていた。


「……さくらってさ」


「ん?」


「ほんとに、中身オッサンなんだね」


「言い方」


楓が、ぷっと吹き出した。私もつられて笑った。

昨日からこっち、初めて、ちゃんと笑った気がした。


笑いながら、私は考えていた。

鉄男が自分の席でじっと耐えている時間と、私がこの教室で視線に耐えている時間は、たぶん、同じ時間だ。

別々の教室で、別々の理由で、同じ痛みに耐えている。


あいつがいつか、自分から誰かに話したくなる日まで。

私は、待つ。


待つのは、得意だ。

──残り時間は、八年しかないけれど。



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