第二部 第一章 詫び
夕飯の片づけが終わったころ、玄関のチャイムが鳴った。
「こんな時間に、誰だろね」
お母さんが布巾で手を拭きながら立ち上がった。オレ……、私も、なんとなく胸がざわついて、リビングのドアから廊下のほうをそっと覗いた。
お母さんが鍵を開けると、玄関の外の暗がりに、三つの人影が立っていた。父親らしき大柄な男の人。その半歩後ろで身を縮める母親。そして、二人に挟まれるように、深くうつむいた男の子が一人。
──鉄男だ。
「夜分に、申し訳ありません。大城と申します。一組の、大城鉄男の……親です」
父親が、堅い声で名乗った。その名前を聞いた瞬間、お母さんの背中がわずかに強張ったのが、後ろからでも分かった。
「このたびは、うちの息子が、お宅のお嬢さんに……本当に、とんでもないことを」
父親が腰を折ると、母親も同じように頭を下げた。二人に挟まれた鉄男は、棒のように突っ立ったまま、自分のつま先だけを見つめていた。
「……あなた」
お母さんが、リビングのほうを振り返って呼んだ。
新聞をたたんでソファから立ち上がったお父さんが、廊下に出てきた。玄関先の三人と、その用件を、数秒で察したらしい。お父さんの顔から、すうっと表情が消えていった。
「……あなたがたが、昼間の」
「はい。本当に、お詫びの言葉も……」
「お詫び?」
低い声だった。お父さんが、こんな声を出すのを、私は初めて聞いた。といっても、この人と暮らし始めて、まだ三日目なのだけれど。
「お詫びで済む話だと、思っておられるんですか」
お父さんは一歩、玄関のたたきへ降りた。
「私は学校から、電話で聞きました。男子トイレに入ったうちの娘を、何人かで床に押さえつけて、スカートに手を入れて、下着を膝まで下ろした、と。──それを、子どものいたずらだと?」
大城さんの父親は、言葉を返せずに、ただ頭を下げ続けていた。
「もし楓さんが止めに入らなかったら、どうなっていたか。これは、強制わいせつです。れっきとした犯罪だ。それ相応の責任を、取っていただく」
お父さんの声は、震えていた。怒りで震えているのだ。
玄関の空気が、凍りついた。母親はうつむいたまま唇を噛み、鉄男はますます小さくなった。誰も、何も言えなかった。
私は──やめてあげて、とは、言えなかった。
だって、お父さんは、何も間違っていない。
娘がされたことに、これだけ本気で怒れる。三日前に出会ったばかりの、この娘の体に入り込んだだけの私のために。私は、その怒りを止める資格なんて、本当はないのだと思う。
それでも、私は廊下からそっと前に出て、お父さんの上着の裾を、後ろから軽く引いた。
「お父さん」
「さくらは部屋に行ってなさい。これは、大人の話だ」
「うん。……でもね、お父さん。ちょっとだけ、聞いてほしいの」
私は、お父さんの正面に回り込んだ。そして、できるだけ静かに、できるだけ、いつもの子どもらしくない口調にならないように気をつけながら、言った。
「お父さんが怒ってくれて、嬉しい。本気で怒ってくれる人がいるって、すごく、心強い。──それは、本当」
お父さんは、こちらを見下ろした。
「でもね。お父さんが今、ここで大城さんたちを許さなかったとして、それで私の気持ちは晴れるかな、って考えてみたの。……晴れないと思う。誰かのお父さんとお母さんが、こんなに頭を下げてるのを、私のために見るのは、つらいよ」
「さくら、お前は、自分が何をされたか分かってるのか」
「分かってるよ。怖かった。すごく怖かった。──でもね」
私は、震えそうになる声を、お腹の底でぐっと押さえた。
こういう交渉を、何百回やってきたか分からない。怒っている相手の前で、まず相手の正しさを認めて、それから、本当に守りたいものを一つだけ、テーブルに残す。子どもの体になっても、それだけは、抜けていなかった。
「私、明日からも、何年もあの学校に通うの。これから先、ずっと。その最初の一日を、誰かを潰すことから始めたくない。──敵を作ることから始めたくないの。それより、鉄男くんが、もう二度とあんなことをしないって、ここで約束してくれるなら、私はそのほうがいい。そのほうが、ずっと、私のためになる」
玄関が、しんとなった。
大城さんの両親が、信じられないものを見るような目で、私を見ていた。お母さんも、お父さんの隣で、口を半分開けたまま固まっていた。
「……お前は」
お父さんが、何か言いかけて、やめた。喉の奥で、言葉が詰まったようだった。怒りの行き場を失って、その大きな肩から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かった。
「……さくらが、そう言うなら」
お父さんは、絞り出すように言って、大城さんの父親のほうへ向き直った。
「今日のところは、引き取ってください。ただし──」
「はい。重々、承知しております。学校とも、きちんと話を」
「二度と、ないように。それだけです」
大城さんの両親は、何度も何度も頭を下げた。
◇
話が一段落して、大城さんたちが帰ろうと、鉄男の背中を押したそのとき。
私は、サンダルをつっかけて、たたきへ降りた。そして、うつむいたままの鉄男の、すぐ前まで歩いていった。
至近距離で見る鉄男は、思っていたよりずっと小さかった。昼間、トイレであんなに乱暴だった子と、同じ子には見えなかった。肩が、小刻みに震えていた。
「大丈夫だから」
私は言った。
「鉄男くん──いや、鉄男ちゃん。辛かったね」
その先は、何も言わなかった。
言う必要は、なかった。
「……っ」
うつむいていた鉄男の顔が、はじかれたように上がった。
私と、目が合った。
その目が、みるみるうちに濡れていく。堰を切ったように、涙が、ぼろぼろと、滝のように頬を伝って落ちた。子どもらしい、大粒の涙だった。
それなのに、鉄男は、声を上げて泣かなかった。
泣けなかった、のだと思う。
口を、固く、固く結んでいた。歯を食いしばって、喉から漏れそうになる嗚咽を、必死に飲み込んでいた。
──男が、声を上げて泣くわけには、いかない。
その思いが、この子の体じゅうに、鎖みたいに巻きついているのが、私には見えるようだった。
泣きたいのに、泣けない。本当の自分を、外に出すことが、どうしてもできない。
かつての、私みたいに。
「ちゃん……?」
母親が、戸惑った声でつぶやいた。
お父さんも、お母さんも、大城さんの両親も、誰一人として、私が今、何を言ったのか、その意味を分かっていなかった。
ただ一人。
鉄男だけが、分かっていた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、鉄男は私を見つめていた。
なんで。
どうして、お前が。
そう問いかけるような目だった。
私は、ほんの少しだけ、笑ってみせた。
大丈夫。私は、知ってる。
誰にも言わないよ。
声には出さず、目だけで、そう伝えた。
鉄男は、自分の秘密のすべてを、出会ったばかりのこの転校生が知っていることを、悟ったらしかった。喉の奥で、ひゅっ、と短い音が鳴った。それでも、やっぱり、声を上げては泣かなかった。
大城さんたちが帰っていく玄関の戸が、静かに閉まった。
「……さくら」
背中で、お母さんの声がした。
「あんた、今日は、本当に……。なんていうか、大人みたいだったね」
「そうかな」
私は振り返って、できるだけ、いつもの子どもの顔を作った。
「友達が増えるといいなって、それだけだよ」
その夜、ベッドに入ってからも、私はなかなか寝つけなかった。
天井を見上げながら、考えていた。
鉄男ちゃん。
あの子は、これから、どうなるんだろう。
私みたいに、悪魔が現れて、願いを叶えてくれるわけじゃない。あの子は、自分の体と、自分の名前と、まわりの目と、たった一人で、戦っていかなきゃいけないんだ。
あと八年しかない命で、私は、あの子に、何をしてあげられるだろう。
考えているうちに、まぶたが重くなってきた。
今夜は、あの影は、出てこなかった。




