第十章 保健室
担任の先生が、職員室からすっ飛んできた。騒ぎを知らせたのは、教室にいた楓たちのグループの女子だったらしい。
スカートを必死に押さえている女の子。それを取り囲む男子たち。楓に殴り飛ばされ、頬を押さえて座り込んでいる鉄男。──先生はその異様な光景に、一瞬、棒立ちになった。だが、すぐに我に返って声を張り上げた。
「あんたたち! さくらさんに何したの!」
先生が来たことに気づいていなかった男子たちは、弾かれたように手を離した。
「そこの男子、全員、校長室に来なさい! 楓君は、さくらさんを保健室に連れて行ってちょうだい!」
男子たちは校長室へ連行され、オレは楓に付き添われて保健室へ向かった。四時間目の始業ベルが鳴ったが、騒ぎを遠巻きに見ていた生徒たちは、誰も教室に入ろうとしなかった。
保健室は、校舎一階の、玄関に一番近いところにあった。ドアを開けたが、中には誰もいない。カーテンで仕切られたベッドが二つと、処置用のテーブルと椅子。オレと楓はとりあえず椅子に座って、保健の先生が来るのを待った。
「……さくらちゃん」
楓が口を開いた。
「鉄男、前はあんな奴じゃなかったのに……。──あとさ。オレのこと、男だと思ってたでしょ」
「ごめん。さっきの騒ぎになるまで、全然気づかなかった。先生も『君』で呼んでたし……」
「まあ、いつも君呼びされるような格好してるしね。別に、それが嫌なわけでもないから」
「楓さんのことは、なんて呼べばいい? 楓君? 楓さん? 楓ちゃん?」
「楓でいいよ。友達を君とかさん付けで呼ぶ人、あんまりいないって。ちゃん呼びする人もいないな」
「じゃあ、私のことも、さくらでいいよ」
「分かった。──で、さくらさ。鉄男が言ってたこと、本当? 男子トイレで、立ちションしようとしたって」
「うん。それは、ほんと」
ここで嘘をついても仕方がない。それに、この子には助けてもらった。昨日はビーチで、見ず知らずのオレに傘まで貸してくれた。訊かれたことには、正直に答えよう。
「……どうして、またそんなことを?」
「んー。……つい、いつもの癖で」
「えっ。癖?」
「オレ、おとといまで男だったんだ。しかも、オッサン。昨日の朝、目が覚めたら、さくらっていう名前の女の子になってた。──この話、信じる?」
「男だった? ……オッサン?」
楓は目を丸くしていた。けれど、その目に軽蔑の色はなかった。むしろ、もっと聞かせてくれと、そんな顔をしていた。
「そう。昨日、ビーチで会ったでしょ。あの日が、女の子になった初日だったんだ。ワンピースを穿いたのも初めてだった。──悪魔と、契約したんだよ」
楓が何か言いかけたとき、ガチャリとドアが開いて、担任の先生と保健の先生が入ってきた。オレと楓は弾かれたように立ち上がった。
「二人ともいるね。そのまま座ってて」
保健の先生の柔らかい声が、張りつめていた空気を緩めた。隣で楓が息を吐くのが聞こえた。
「さくらさん。お家に電話して、お母さんに簡単に事情を説明したよ。学校に来てくれるそうだから、それまでに、トイレで起きたこと、言える範囲でいいから教えてくれるかな。男子のほうは今、一組の仲本先生と体育の大城先生が話を聞いてる」
オレは、トイレでの経緯を話した。ただし、さっき楓に話した悪魔の契約のことだけは、伏せて。
話が終わるころ、保健室のドアが開いて、お母さんが入ってきた。
「さくら……」
お母さんは、この世の悲しみを一身に背負ったような顔をしていた。
昨日の朝、突然「わたしは誰ですか」と言い出した娘。そして転校初日から男子トイレに入るという、奇怪な行動をした娘。かけてやる言葉も見つからないだろう。──また、この人に心配をかけてしまった。可愛い娘の体を、オッサンが乗っ取ってしまった。その罪悪感が、胸の内側をやすりで擦るように、ひりひりと痛んだ。
「さくらさんのお母さんですね。どうぞ、こちらに」
処置用のテーブルを挟んで、担任の先生と保健の先生、その向かいにオレと楓。お母さんは、オレの横に用意されたパイプ椅子に腰を下ろした。
先生の口から、トイレでの出来事が改めて語られた。男子トイレに入ったこと。そこで立ち小便をしようとしたこと。男子たちに下着を脱がされかけたこと。楓が、その男子に一発食らわせたこと。立ち小便のくだりでは、お母さんが小さく息を呑むのが分かった。
キーンコーンカーンコーン。
四時間目の終わりを告げる鐘が鳴った。
「さくらさんと楓君は、教室に戻って給食を食べてね。──それとも、さくらさん、今日は早退する?」
「大丈夫です」
即答した。
「分かりました。じゃあ楓君、先生はまだお母さんとお話があるから、先生が戻らなくても先に給食を食べるように、みんなに伝えておいて」
ここからは大人同士の話、ということだろう。オレと楓は席を立った。ただ、一つだけ、どうしても言っておきたいことがあった。
「あの……。鉄男君を、あまり叱らないであげてほしいんです」
先生たちが、驚いた顔でオレを見た。
「私も悪かったんです。小学五年生といったら、もう異性が気になる年頃です。これまで経験したことのない、どう扱っていいのか分からない、爆発しそうな気持ちに苦しんでいるのかもしれません。そんなところに、私がトイレを間違えて、スカートをたくし上げてしまった。鉄男君の中の、何かの引き金を引いてしまったのかもしれません」
オレは思い出していた。押さえつけられたあのとき、鉄男の目の奥にあったのは、怒りでも嗜虐でもなく──悲しみと苦痛の色だったことを。
「……さくらさん、分かりました。あとは大人の話だから、楓君と教室に戻ってなさい」
「はい」
保健室を出て、静かにドアを閉めた。廊下は給食の準備で、生徒たちが行ったり来たり、騒がしかった。
「さくらさんは、小学五年生にしては、ちょっと大人びて──」
閉めたドアの向こうから、お母さんと先生の声が、小さく漏れ聞こえた。
オレと楓は五年二組へ向かった。途中、一組の前を通ったが、鉄男たちはまだ校長室から戻っていないようだった。悪ふざけとはいえ、事が事だ。親も学校に呼び出されているだろう。
二組の教室の前に着いた。窓越しに、給食の準備をするクラスメイトの姿が見えた。純の姿もあった。先に教室へ帰されたらしい。助けてくれた側なのだから、当然といえば当然だ。
楓が引き戸を開けて中に入ると、クラス全員の視線が、一斉にオレと楓に突き刺さった。




