第8話
オストリーを見送った後も、客は来ない。
俺は倉庫に戻り、在庫品を改めて整理し直した。それを終えると、窓から見える外は薄暗くなっていた。
「まあこんな日もあるよ」
店長は夕食作りを始めている。
キッチンに並べられた材料を見るに、パスタだろうか。
「でも」とニンニクをリズムよく刻みながら続ける。
「売上無いのも困るからね、どうだい。そろそろ西くんの秘密話を明かすというのは」
「いやいや」
店長はさりげなくそういうことを投げ込んでくるのだ。
「無いっすよ、別に、秘密話なんて」
その返答が矛盾しているのはわかっていた。
今ここにいる自分が言えることではない。
店長は穏やかな微笑を浮かべて今度はベーコンを手早く切っていた。
「まあ、ここなら考える時間も考えを整理する時間もたっぷりあるけどね」
小ぶりの鉄フライパンを火にかけ、そこに刻まれたベーコンが入れられる。すぐにじゅうじゅうと表面が焼ける音がし始めた。
「うちの経営がいよいよ危なくなったら、改めて頼もうかな」
店長はフライパンを揺すりながら茶目っ気のある瞳を向けた。
もはや手持ち無沙汰でキッチンに突っ立っていただけの俺は、目を逸らしてしまう。
“あんまり長くいるのはどうかなーと思います”
というオストリーの言葉が頭をよぎった。
「……俺は、ずっと居たいんですけど。ここに」
店長は菜箸を動かしている。
「時間はあるって言ったけど」と店長は横で茹でていた短めのパスタをザルに上げた。
「だからといって無駄にしてはいけないよ。時が止まってるからといって、すべてが不変というわけじゃない」
時間をかけても、俺の気持ちは変わらないと思う。
でも一応、頷いてはおいた。
「さて、今日はもう店は閉めて、のんびり夕飯にしようか」
パスタをソースに絡めたところで店長が言った。
「でも今日、1日中のんびりっていうか……」
「ま、そういう日もあるよ」
店長の朗らかな笑顔に押され、俺は店の扉に掛けられている札をクローズに裏返そうと外に出る。
夕方と夜の間。
紫色の空を見て、ふと、今朝の老人の秘密の対価──薄紫色の宝石を思い出す。
俺は……俺のは、一体どんな色や大きさになるのか。
きっとあんなに綺麗じゃないと、なんとなく思う。
確かめる機会は来ないだろうが。
抱えている限り、俺はここを出ていくことができない。だから、ここに居ることができる。
オストリーや店長、きっと他にも数多いるこっち側の存在と同じように。
扉に掛けられた札を返そうとした時──
遠く、ベルのような音が聞こえた。
どこか耳馴染みのある、これは……自転車のベルか。
街灯もなく、薄闇に染まりつつある地平線に目を凝らした。
「すんませーん」
声と共に浮かび上がるように見えてきたのは、白いシャツ。
自転車に乗って近づいてくるその姿に、ざっと全身の血が下がった気がした。
大きな肩掛けバッグ、短い黒髪、日に焼けた肌。高校生くらいの少年。
自転車はブレーキ音を立てて俺の前に止まる。
「……葉介?」
口から転がり出た。
少年は「え?」と首を傾げる。
「え、あ、いや……」
葉介のはずがない。
よく見れば、背格好が似てるだけで、あいつとは全然違う。
自分の失言に焦り、うまく言葉が出てこない。
「とりあえずよかったぁ、普通っぽい人いて」
少年は俺の挙動を気にした様子もなく、ひらりと自転車から降りた。
身につけている白シャツも灰色のパンツも、学校の制服のようだ。やはり高校生だろうか。
先ほどの電流が走ったような衝撃が去った代わりに、力が抜けた。体のどこかに穴が空いてしまったみたいな気分だ。
「オレ、学校から帰ろうと思ったらなぜかこんなとこにいて。ここ、どこですか。スマホもつかなくて」
「え、ええと……」
「おかしくないですか? 空と地面しかない。オレ、東京にいたんですよ」
疑問はたくさん持っているようだが、パニックになっている感じではない。
「おにいさん、何か知ってるんすか。オレどうすれば。あのー言葉通じてます?」
「え、えっと……通じてる」
咳払いをする。
「きちんと説明はできないんだけど、とりあえずここは、店……喫茶店だから」
少年は興味深そうに俺の背後の店を見上げた。
「食べ物とか飲み物とか、出せるけど」
「よかった、腹減ってるんすよね。あ、でもオレ、現金あんまないな。スマホもダメだし払えないかも」
「あー……平気だよ。たぶん」
彼が自分の秘密を明かすのなら。
自転車を適当に停めさせて、少年を先導すると素直についてくる。
戸惑っているようなことを口にしている割に、妙に落ち着いているというか、飄々として見える。状況をすぐに受け入れられるのは若さなのか。
扉を開けると、「いらっしゃいませ」とにこやかな店長がすぐに出迎える。
俺達の外の話し声が聞こえていたのだろう。
待ち構えていたかのようなタイミングだった。
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第二章 完




