第5話
カウンター席の老人は、落ち着かないように店内に視線を泳がせている。
戸惑ったようにコーヒーを注文してからあの調子だ。
ここはどこなのか。
どうやって自分はここに来たのか。
この店内のどこかに何かのヒントが散りばめられていると思っているのかもしれない。
本日第一号の客だ。
朝に来店者があるのは、わりと珍しい気がする。
店長が丁寧にハンドドリップして淹れたコーヒーを受け取り、トレイに乗せて客であるその老人の席に運ぶ。
白地に薄い紫の花柄。これは、店長お気に入りランキング第3位のカップだ。
「どうぞ」
白い石のカウンターテーブルに置くと、老人は「あ、ああ」と少し驚いたような反応を見せる。
しかし置かれたコーヒーの香りを嗅いだおかげか、ふっと肩の力が抜けたようにも見えた。
微かに波打つ黒い表面を見つめ、カップの細い取っ手を皺の刻まれた指でつかむと、口をつけてずっと啜った。
長い溜息をつきながら、その老人はソーサーの上にカップを置いた。
白髪混じり……というよりもほぼ白髪の頭。特徴のない紺のジャンパーに灰色のパンツ、薄汚れたスニーカー。テーブルに置かれた画面の割れたスマホ。
鞄も持たずにちょっと近所に散歩に出たご老人、という感じである。
「ここは……」
やがて老人が誰ともなく口を開く。嗄れた声だ。
「どこなんでしょうか」
キッチンに下がった俺は、横の店長に目をやる。
店長がいるときは、俺はただの給仕だ。給仕以上のことはやらない。
「喫茶店ですよ」
店長が穏やかに答える。
「私は……私の家の周りは畑ばっかで、こんな洒落た店はないはずなんですけどね……」
白髪頭を撫で「町内会に行く途中だったんだけどなあ」と呟く。
「白昼夢ってやつですかねえ」
その疑問に、店長は柔らかな笑みだけを返す。そして店長の視線は俺に向いた。
「西くん、これ、お客様に」
店長は先程焼けたばかりのクッキーを小皿に2枚取り、俺に渡す。
「サービスね」
俺は頷き、老人のところへ数歩で運ぶ。
「バタークッキーです。よかったらどうぞ」
「お、いいんですか」
クッキーの皿を前に、老人の口調はさっきよりも和やかになる。「まだあったかい」と言いながらクッキーを手に取り、口にした。
「うん、おいしい」
俺も後でいただこう。
店長の焼き菓子は素朴でうまい。
腹は減らなくても、食欲はあるのだ。
「夢でもしっかり味があるんだなあ」とすっかりここを夢だと思っているらしい老人は、またコーヒーを飲んだ。
最初の警戒心は解け、空気はだいぶほぐれて見える。
「お客様」
やはりと思ったタイミングで店長が声をかけた。
「お客様は……どこか浮かない顔をされていますね。何かお悩み事でもあるんでしょうか」
どう考えても胡散臭い占い師みたいな台詞だが、店長が言うと親身で感じよく聞こえてしまうのだから不思議だ。
老人ははっとしたように顔を上げ、それからきまり悪そうに目を伏せた。
「そう……見えますかね」
「ええ。これは僕の勘ですけどね、何か、人に言えない秘密を抱えているんではありませんか?」
「僕の勘」などと平然と言える店長がすごい。俺には無理だ。
ここに来る客は皆、大なり小なり秘密を抱えている。店長もそれをわかってて言うのだから、占い師というよりももはや詐欺師に近いのかもしれない。
とはいえ、別に店長は相手を騙そうというのではない。ただ、秘密を提供してもらいたいだけだ。
「ここで話したことは、絶対にどこにも漏れないんですよ」
流れるような店長の言葉に、老人客は「え?」と首を傾げる。
「不思議に思われるかもしれませんが、そうなんです」
店長に言い切られ、老人は答えを求めるように俺を見た。
俺は、頷いたとは言えないくらいに顎を引くだけに留める。
老人は黙った。
この店に時計はない。時は過ぎないからだ。
コーヒーとクッキーの香りだけが漂っている。
もう一度コーヒーを飲み、だいぶ間を空けたあとで、「実は」と老人は語り始めた。
「宝くじが当たったんですよね、私」




