第3話
緑に塗装された窓枠から見える店の外は、明かりもなく星も月もない。
「そのシュレッダーやっちゃったのが、私が指導していた新人の男の子なんですけど」
俺が眺めていたからか、女性も墨のように黒い窓の方に目をやって、ぽつぽつと情報を追加していく。
「その子、会社の役員の息子さんで、平たく言うと、まあ、コネで入ったような子で。私がやったことにしてくれって泣きつかれて……」
失態を肩代わりした、ということのようだ。
指導している側としての責任感もあるだろうし、相手が役員の息子という立場なら、逆らいにくいだろう。
彼女の話によれば、その役員の息子は自分のやらかしを押し付けた彼女に、補償を約束したという。
親の力を使って彼女の処分を最低限にとどめることと、今後の人事異動の口添え。
しかし結果的に、処分はクビにならなかっただけマシというようなもので、彼女は雑用の部署に回され、将来的な希望も絶たれているような状況らしい。
とりあえずここまでのことを、調味料なんかの瓶を拭きながら聞いている。いや、普段はこんなところまで細々掃除しない。でもただ何もせず聞いていると、話を聞くのがメイン作業みたいになってしまう気がするからだ。
他人の話なんて、俺にとっては小説やドラマの話くらいに他人事だ。
そもそも会社に入ったこともないような人生経験の浅い俺には、彼女みたいな社会人の気持ちなんて、想像もできないし何も言えない。
しかし、細々した掃除もすぐに終わってしまう。
手持ち無沙汰にならないように……客はいるが、端の方から床掃除を始めることにしよう。
俺は一度エプロンの紐を結び直し、店内用の箒を手に取った。
「普通に考えたら、いくら役員の息子でも、新人の彼に人事とかへの影響力なんてなかったんだと思うんです」
諦めたように彼女は笑った。
「でも、初めに半分脅すように泣きつかれた時、私も焦って言う事聞いちゃって」
掃除をしながらさりげなく彼女がいる白いテーブルを覗くと、ココアは既に空で、マグカップの底に焦茶色の溶け残りがこびりついているだけだ。
最初にお冷を出し忘れていたことに気がついた俺は、キッチンに戻り、グラスに氷と水を入れてテーブルに持って行く。
「あ。ありがとうございます」
一度に話して喉が渇いていたらしく、彼女は美味しそうに水を飲んだ。
グラスをことりとテーブルに置いて、「一番嫌だったのは」と彼女は続ける。
「お客様や上司から怒られることよりも、私がそんなミスをするような人間だって、普通にそう思われたのが悔しいというか。もちろん私がミスを認めたから仕方がないんですけど、誰もそこは疑わなかったのかなって。私なりに会社では頑張って来たんですけど」
言葉尻は寂しそうだったが、すぐに彼女は「でももういいんです」と言った。
「仕事は、辞めようかなって思ってます。今の会社にそんなに固執してるわけじゃないんです。今は売り手市場ですし。今回は運が悪かっただけだって、もう……諦めがついてます」
──どうせ辞めるんなら、秘密にすることもないんじゃないですか。
ついそんなことを思ったが、口にはしない。
しかし、顔に出ていたのだろうか。
「辞めちゃうから、どうでもいいんですよね」と彼女は言った。
「辞める会社のことで、自分の時間とか労力とか割きたくないっていいますか、騒ぎ立てるのもなんか無駄かなって」
彼女の中では既に前を向く方に舵を切っているらしい。
「とは言ってもやっぱり、“本当はあれはあいつがやったんだ”って言いたい気持ちはずっと燻ってました。別に公にするってことじゃなくて、愚痴を言う程度でよくて。でも誰が聞いてるかわからないし、どこかで話が漏れて私がバラしたって思われたらなんか……私が低俗な人間みたいじゃないですか」
だから、と俺を見る彼女は、さっき店に訪れたときの疲れ切った顔ではない。夜が明けたように……とまではいかなくても、少しだけ晴れやかに見えた。
「こんな所で暴露できてすっきりしました、すごく」
そして彼女はうんと伸びをした。
スマホの黒い画面をもう一度確認し、立ち上がる。
「さて、そろそろ帰ります。お会計は?」
「えっと……」
これを言うときはいつも気恥ずかしさがある。
鞄から財布を探そうとしている彼女に、
「もうもらってます」
とぼそりと告げた。
「え?」
俺の指さす方につられて彼女がテーブルを振り返ると、マグカップとグラスの横に、薄青い石がころりと置かれている。
ビー玉くらいの大きさで、表面はきちんとカットされていて、店内の暖色の照明を受けてちらちらときらめいていた。
「……なに? これ。さっきはなかったけど」
「お客さんが話した秘密が、結晶化するらしいんです。この店」
「ええ?」
「でも、そちらには漏れませんから」
やや不安そうに眉をひそめた彼女に強調して言った。
「言ってなくてすみません」
騙し討ちみたいだっただろうか。
先に説明しておくべきだったのかもしれないが、そうするとまるで、「ここは秘密を話す場所です、聞く準備はできてます」と言っているような気がしてなんか嫌だ。
秘密を明かすかどうかは客次第であり、言わないのなら普通に金を払ってもらえばいいのだが、俺が店番の時は、わざわざあらかじめそのシステムを伝えるようなことはしていない。
しかし彼女は気を悪くした様子もなく、その宝石をつまみ上げ、「へえ、きれい」と興味深そうに眺めていた。
それから「どうぞ」と俺に手渡した。
「ありがとうございます」
それをポケットに入れ、緑の扉へと女性を促す。
「このまま外に出れば、普通に帰れるらしいですよ」
彼女は「不思議」とその言葉をもう一度呟いた。
「おかしなことだらけなのに、なんか“そういうもんかあ”って思っちゃう」
「そうらしいですね」
彼女は小さく笑った。
「変なの。店員さんなのに、“らしい”ばっかりで」
それを言われてしまうと痛いものがある。
「まだ……見習いなんで」
「そうなんですか」
彼女は俺を見上げた。
「店員さん、お名前は?」
「……」
「こっちのことは、漏れないんでしょ? 私が知っても別に、何にもならないんじゃない?」
いたずらっぽく笑う彼女に、俺の口端も少しだけ持ち上がった。
「西っていいます。方角の、西」
「西さん。いえ、西くんかな、学生さんくらい?」
にこりと微笑む彼女に、俺は頷きのような曖昧な反応を返す。
扉を開けると、やはり闇が広がっていた。
道もない。しかし彼女は躊躇うこともなく、外へと足を踏み出した。
ここで代価を払った客は迷わず帰ることができる。
そういうものらしい。
「私にとってはやっぱり、癒し系異世界カフェでした。ありがとう、西くん」
そう言って小さく手を振り、鞄を肩にかけ直し、彼女は去っていった。
──どこが癒し系なんだか。
俺は頭を掻き、外のクローズの札を再度確認して、扉を閉めた。
ポケットに入れた結晶を一度取り出して天井の明かりに透かすと、光を散りばめたように輝いた。色は薄い方だ。
それを確認し、店の金庫の中のマーブル柄の缶に、そっと入れる。
これで今日は本当に、店じまいだ。




