第2話
ココアの粉末に少しお湯を入れて、火にかけ、木べらでよく練る。
やがて、チョコレートの良い香りが漂ってくる。
仕事はだるいが、このこっくりとした香りは好きだ。店の中に満ちていく。
ちらりとカウンター越しに女性を見ると、スマホをいじるのも諦めたらしく、暗い窓をぼんやりと眺めていた。
何かに疲弊して見える。
家庭か、仕事か。体力的にか、精神的にか。どちらもか。
わからないが……それ以上探ろうという気は起きない。
俺と彼女は店側と客の関係でしかない。
真っ赤なマグカップに注いだ熱いココアに、スプレーから出てくる生クリームを盛りつけ、その上にココアの粉をまぶす。
出来上がり。まあまあだろう。
「お待たせしました」
トレイからテーブルに置くと、見た目にも甘そうなココアを前に、女性はぱっと顔を輝かせた。
彼女がそれに口につけるところまで見ることはせず、さっさとキッチンに下がる。
「おいしい」と言う独り言が聞こえた。
「ちゃんと味がするってことは、やっぱり夢でもないんですね」
在庫のチェック表を記入していた俺は、その言葉に顔を上げる。
女性と目が合った。
「落ち着いたお店、おいしいココア、スマートな店員さん。ここが現実に疲れた私を癒やす異世界カフェでもなく夢でもないなら、一体何なの……?」
ちょっと噴き出しかけた。
「いやちょっと何言ってるのかわかんないっすけど」
ていうか俺がスマートって。
軽く咳払いをする。
「さっきも言ったとおり、ここは店。お客さんは対価を払う。俺はココアを提供する。それだけ」
「ふぅん」
女性は納得いかないように鼻を鳴らし、スプーンですくった生クリームを口に運ぶ。
「俺はそれ以外に何も提供しないけど、他に誰もいないし、店の片付け終わるまでなら、どう過ごしてもらっても自由なんで」
「自由……」
女性はその言葉が指し示すものを探すように、視線を宙に泳がせた。
「自由って言われても、なんだろ。どうしようかな」
知らん。
と言いたいが、最低限の接客マナーとして口は閉じておく。在庫のチェックを続ける。
しばらく女性はゆっくりとココアを飲んでいた。
このまますんなりと帰ってくれると、俺としては楽なんだが。
しかしその期待も虚しく。
「あの」という女性の控えめな声。
「はい」と俺はカウンターから顔を出す。
「あ、おにいさん作業したままでいいんで。というか、別に反応してもらわなくてもいいんですけど、勝手に私……喋ってていいですか?」
やや緊張した面持ちで女性が聞いた。
「……」
やっぱりこうなるようだ。
見知らぬ場所で見知らぬ相手に話をしたくなるのは、客が自分一人だけだからなのか。
しかし、「自由だ」と伝えたのは俺だ。話す自由は制限できない。
「まあ、どうぞ」
在庫チェックを終えた俺はキッチンに目を走らせてやることを探し、冷蔵庫の艷やかな前面扉を拭き始めることにした。
「……私、先日会社でやらかしちゃって」
女性は減ってきたマグカップの中身を見つめながら呟くように言う。
「というか、やらかしたことになっていて」
ちょっと気になる言い方だ。
しかし、俺が突っ込んで、彼女から返しがあって、それにまたうまい返事ができる気がしないので、話すがままにしておく。
「会社の契約に関するすごーく大事な文書を……本当にすっごく大事なんですよ。それを間違って、ほかの書類と一緒にシュレッダーしちゃったんですよ」
俺は特に相槌もせず、背中で聞いていた。
「ほとんどはデータでのやりとりになってるんですけどね、でもまだまだ紙の部分もあって、気難しいお客さんがやっとハンコ押してくれたその書類を……」
悔しさを滲ませたあとは、少し沈黙が訪れた。
振り返ると、彼女はまだ言い淀んでいるらしく、その手で赤いマグカップを包んでいる。
彼女は心配そうに顔を上げた。
やっぱり話して大丈夫だろうか。
そんな気持ちがその表情に出ている。
話し始めたのはそっちだろう。
とはいえ、話が途中で切れるのも気持ち悪いので。
「ここで話したことは、漏れないですよ。あ、別に続きが聞きたいから言ってるわけじゃないですけど」
女性は今度は不思議そうにこちらを見ている。
俺は目を逸らし、再び背を向けた。
店長お気に入りの幾何学模様のカップを柔らかな布で拭いて、壁の棚に展示するように置きながら続ける。
「異世界……じゃないけど、ていうか定義がよくわからないけど、ここ、お客さん達が生活してるところとは少し、ずれた空間っていうか」
「ずれた空間?」
繰り返した女性の口調は強張っていた。
「え、戻れるの? 私」
「それは、大丈夫です、俺が知る限り」
俺の言葉に何の説得力もないだろうが、それでも彼女は少しほっとした顔になる。
「説明は難しいんすけど、とにかくこっちから、そっちの社会に干渉はできないんで。ここで個人情報漏洩しちゃっても、絶対に面倒なことにはならないってこと」
本当に説明が難しい。俺自身がよく理解できていないから、あやふやな言い方になってしまう。
しかしややあって、「ああ」と彼女は手を打った。
「『王様の耳はロバの耳』の穴的な」
「あれは漏れちゃいますけどね」
俺が言うと彼女は少し笑った。
「不思議ですね。何でも“絶対に大丈夫”なんてことないのに、ここにいると、なんか信じられちゃうっていうか。……いいですね」
それから笑みを収めてもう一度ココアを口にする。
「じゃあ、言っちゃおうかな」
息を吐きながらそう言った。




