第1話
鍋の底の黒い焦げ付きがなかなか取れない。
傷がつくといけないからと、柔らかいスポンジで地道に愚直にこすっているが、落ち切らない。
「はあ、もう無理」
汗が滲んできてため息をついた。
これだけやっていても、店は片付かない。
一旦鍋から手を離し、先に洗っておいたグラスの水気を拭き取って棚にしまう。
そして、水で流したさっきの鍋を水切りかごに伏せて乗せ、今度はコンロ周りを拭き始めた。
使っては掃除して、使っては掃除して。
「全自動自分でお掃除キッチンとかできねえかな」
それなら風呂も、トイレも、寝室も、何でもそうなってくれればいい。そうしたら一体どれくらい俺の時間が浮いて……でもじゃあその時間で俺は何がしたいんだと聞かれれば、別に何も。
俺には時間がある。それこそ、腐るほどに。
今度は客席のテーブルを拭きに行くと、ちりんとベルが鳴った。
小窓のカーテンを閉めたはずの緑色の扉が細く開いた。
ひどく不安そうに店内を覗くのは、若い女性。
しまった。
焦げ取りに集中して、クローズの札を出し忘れていた。
「……お店?」
視界に俺を捉えた女性は、小さな声で、恐る恐る尋ねる。
「ああ、はい、でも実はもう閉め」
「よ、よかったー」
俺が言い終える前に女性は倒れ込むように店に入ってきた。
店内を見回し、壁際の2人席の1つに向かう。
「電車降りたら東京のはずなのに真っ暗で、わけわからなくて、スマホもつながらないし、ひたすら歩いてたらここの明かりが見えて」
重そうなバッグをどっかりと象牙色の床に置き、崩れるように椅子に座る。
何だか随分と疲れているようだ。
いくら俺でも閉店時間だからと追い出すのが、気が引けてしまうくらいに。
「……あの、そろそろ閉店なんで、ドリンクくらいしか用意できないですけど」
せいぜい言えるのはこれくらいだ。
俺が店番の時用のメニュー表を彼女の前に置いて、素早く扉の外の札をクローズ側に裏返しに行く。
店内に戻ると彼女はメニュー表を見ずに、辺りをきょろきょろと眺め回していた。
俺も彼女を眺めた。
黒く、あまり艶のない髪を後ろに引っ詰めている。化粧は薄く色白で、痩せていて、服装も無地のシャツに黒いパンツに黒いスニーカー。あまりこれといった印象の残らない……しいて言えば、地味で幸薄そうだな、という感じの若い女性。俺よりは年上で社会人っぽくは見える。
「あの」と彼女はこちらを見上げた。
「注文決まりました?」
「あ、いえ、えっと」
口ごもり、目を泳がせ、もう一度俺を見る。
「結局ここって……何なんですか?」
「だから、店。いちおう、喫茶店っすよ」
そうじゃなくて、と彼女は自分のスマホの黒い画面を見せながら、窓の外の黒い景色も指をさす。
「スマホつかないし、周りは真っ暗だし……もしかして」
「もしかして?」
躊躇うようにしていた彼女だが、意を決したようにスマホを握り締めた。
「……異世界、とか?」
「は?」
「ここはアレなんじゃないですか」
女性は真剣だ。
「現実と異世界の境界とかにある不思議なお店で、素敵なマスターが素敵な飲み物とかを出してくれて、ちょっといい言葉をかけてくれて、少し癒されて前向きになれる……そんな店なんじゃないですか?」
「なんすか、それ」
「違うんですかぁ?」
女性はひどくがっかりしたように肩を落とした。
大人しそうな外見と違って、意外とよく喋る女性のようだ。
いやそれも、ここに来たからかもしれない。
「あの、それで何か飲むんですか? 注文しないならもう閉めるんで……」
「します! 頼みますよー」とようやく女性はメニューを見始める。
そんな彼女を尻目に一旦キッチンの方に戻った。
……夢とか、幻覚とか、そんなんじゃなく、真っ先に『異世界』という単語が飛び出すとは。
少し前に来た若いやつも同じようなことを言っていた。たぶんその前の客も。
一体最近のやつらの思考回路はどうなってるのか。
「……って、ココアしかないじゃないですか、飲み物」
「俺それしか作れないんで。いちおうアイス・ホット、クリームあり・無し、砂糖の量は選べますけど」
「はあ、じゃあ……ホットで、クリームあり、砂糖は……多めで」
「かしこまりましたー」
さてもう一仕事か。
俺は洗ったばかりの鍋を再びコンロの上に置いた。




