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第9話 最低の男


すれ違いながら愛を手探りするふたり

けれど追いかけてきた影は


 

 はっきりしないことの全てを、考えてはっきりさせようとは思う。

 けれど、それでアタマの中をきれいにできるというわけではない。

 また、きれいになったからどうだというものでもない。

 はっきりしないことは毎日生まれてくる。



 少しずつからだは回復していった。

 しおりが献身的に看病をしてくれたというわけでもなくて、彼女も仕事があるから一、二日おきに顔を見せる程度だったけれど、それはずいぶんありがたいことだった。


 ハルオとしおりは、横になったまま飽きずに話をしていた。

 喋ることが邪魔になってくると、ただ抱き合って過ごす。

 ちょっとキザな気もしたが、彼女の胸の下の傷にそっと唇をつけて、なにか神聖というか安らいだ気持ちになることもあった。


 いつまでもそうしていたわけではない。

 からだが力を取り戻してきて、ハルオは強く長く彼女を愛した。

 手足を投げ出しているしおりに「平気か」とハルオがいて、「だいじょうぶよ、このくらい」と彼女は答える。


 ハルオたちは長い昼下がりを一緒に過ごし、それから軽い食事をとりに散歩に出かけた。

 まだMのことがハルオのアタマの中を去ったわけではなかったが、考えてもしかたのないことだった。しおりに対しても失礼だ。

 自分がいいかげんで卑怯だと思うのは、そのとおりだから、自分のなかで解決していくしかない。

 病気はそのための時間をくれたんじゃないだろうか?

 そんなふうに、かなり都合よく、ハルオは考える。

 いちさんにいつもそう言われて怒られるのだ。

(まだ、あそこにしおりを連れては行けないな……)



(けれど人は、目のくらむような恋愛のなかでは生きられない、いつまでもは)

 ハルオの中になんとなく生まれてきた考えだ。

 それは自分がそう思っているだけで、ただの手ひどい勘違いだったりもするのだから。


 たとえばハルオとMとのことは、Mの側から言えば「偏屈な中年男に関係を強要されていたけれど、なんとか逃げてきました、一緒にいる時は怖いのでただ笑ってごまかしていました」ということになったりするかもしれない。

 実際にはそんなことはなかったはずだし、Mはそういうふうには言わないだろうとハルオは思いたい。

 しかし男女間のことは、当事者同士でもそのくらい受け取り方が違う。

 それはアタマに入れておいたほうがいいかもしれない。


 人は、目のくらむような恋愛のなかでは生きられない。

 それはふつうに生きることから、ちょっとの間、避難しているだけのことなのかもしれない。

 それは多くの場合、退屈で息のつまる毎日からのささやかな逃亡だったり、探しても見つからない「いまよりすばらしい自分」への近道だったりする。

 そんなものは、どこにもない。

 ひどいことを言っているだろうか? …ないのだ。


 正確にいうと、人はちょっと余裕がある時にやさしいフリだけでもできる関係を見つけ、それが続けられるうちは続けるのだと思う。

 続けることでそれは、最後には本物だったことになる。


 そんなふうに人は、少しを求め、少しを怖れて、生きていく。

 それが本当のところだ。



 しおりが毎日ハルオの部屋に来るようになり、昔でいえば押し掛け女房というかたちになって、やれやれとか言いながらけっこう幸せだったり。

 そういうことが始まるのかとハルオは思ったが、実際にそうはならなかった。


 なんとか病気から回復したハルオは、休んでいたぶんを取り戻すべく仕事を再開した。

 少しだけ仕事をくださいと言うことはできない。

 以前と同じくかなり締切のきびしい仕事をもらってきて、体力が落ちているので続けて作業することはできず、三時間取り組んでは一時間休み、また三時間やっては二時間横になるという生活になった。

 そうしているうちに本調子に戻ると思っていたが、起きている間ずっと仕事しているような感じになってしまった。


 明け方にしおりが帰ってきて、ほんの二時間ばかり彼女を抱いて眠り、また起き出して外回りにいく。

 彼女の出勤前に外で待ち合わせて食事をとり、彼女は店に行って、ハルオは部屋に帰る。

 しおりには悪いが、知らない人が見たらホステスとそのヒモだとハルオは思った。おカネをもらっていないだけだ。

 お互いに昼間、ふつうに勤められるところを探そう、という話もすこしは出たのだけれど、すぐにそうできないことはわかっていた。


 そういう生活は、三週間くらいしかもたなかった。

 自然と、今度の日曜日はお互い自分の部屋で寝ていようということになった。

 なにも考えずひとりで眠る時間がないと、続かないのだ。

 きのうきょう始まったことではないし、ゆっくり仲良くしていけば、悪いようにはならないだろうとハルオは思った。

 つい比べてしまうけれど、Mの時は絶え間なく焦る材料があって、空回りが多かった……あれとはちがうからと。


 けれどそれはうわっつらの考えで……いったん離れてしまうとなかなか時間をつくることができず、なんとなくそのままになってしまうような気はしていた。

 最初のうちに強引に壁を踏み越えていないと、もう一度そこまでいくのは難しいのだ。

 そんな経験がいくつかあったからといって、過去に縛られすぎていることになるだろうか。



 しおりと半同棲のように過ごした何週間かのあと、ハルオはもうただ仕事をしていようと思った。

 彼女とのことをどうにかしようと考えるよりも、先に進むにはそれしかない。

 知らない会社に入っていって、新しい取引が始まる。ほどよい緊張感が自分をしっかりさせていくのがわかる。


(市さん、おれはいつもいつも色恋に生きてるわけじゃないからさ)

(なんで市さんなんだ……当たり前だよって答えるだろうな)

(酒はまだだ、先に仕事をしてからだ)

 ビルのワンフロアを全部使ってパーティーションで区切っただけの室内。

 数十台のコンピュータが設置されていて、ほぼ同じ数の人間がその前にいる。

 ほとんど誰も話さない。この雰囲気がいやだという人もいるけれど、ハルオには懐かしい。

 ここしか帰る場所はないのかもしれない。


 ハルオとしおりは、週に一回か二回はメールを交換し、会えそうな時は約束して外で会っていた。

 あれから一度だけ店に行ったけれど、なにか彼女の仕事場に迷い込んだような気がして以前とは勝手が違ってしまい、もう行けないなと思った。

 ハルオたちは待ち合わせて食事をし、近況を話し合って、そのまま別々に帰っていく。

 気まずい雰囲気ではなかったと思うし、しばらくはこれでいいと考えていた。

 そういうことが何度かあったあと、二週間続けて会えない時があり、それからメールの返信が来なくなった。



(携帯が壊れてるとか止められてるとか、たいした意味はないんだろうな)

 返信がないのにメールを続けることはできない。仕事帰りの電車のなかでハルオは考える。

(そうじゃなくて見捨てられてたとしても、文句は言えない立場だし)


(そう考えても胸が痛まないのは)

 ハルオは、結論をだすのをためらう。

(やっぱり、おれがそんなにはしおりに惚れていないからで……あいつにもそれがわかるのか)


 しおりが親切にしてくれたことへの答えが、それしかないのか。

(最低の男かもしれない)

(でも、おれが義務感みたいにしおりに対してやさしいふりをし続けたら、あいつはもっと傷つくだろう)


 考えすぎだ。忘れたころにまたメールが来るだろうから、なんでもない感じでまたつき合っていけばいい。

 そう思い直したところに、着信があった。

(ほら来た)

 それはしおりからではなかったが、見覚えのあるメールアドレスだった。

 Mだ。


 Mのメール。

『ごぶさたしちゃってごめんねっ。いま、J医大にきています。右うしろの腰から脇にかけて痛みがあって、昨日は夜も寝付けなかった……。腎盂炎かもしれないそうです。多分心配してくれるだろうから、結果が出たらメールするね』


「ばかやろう」

 つい声が出た。仕事から帰る途中の駅のホームで、もう遅いから人の影はない。

 夜の冷気の中にハルオの声がしばらく残った。


(なんで、いまなんだ、で、この内容なんだ)

(どこまでおれを心配させたら気がすむんだ)


 それからハルオのなかに湧き上がった感情について、うまく説明することはできるだろうか。


 ひとを、異性を愛するのには本当は理由がないのかもしれないとハルオは思う。

 しおりの親切に感謝しながらもハルオはなんとなく、もう全てを諦めたような気持ちになって、それで仕方ないのだと感じていた。

 彼女のことは充分、自分にはもったいない女性だと思っていたのだけれど。


 Mから突然来たメールを目にしたとき、相変わらずの、ハルオから見れば理不尽な内容にめまいがしそうになった。

 けれど、ほんの一瞬でハルオは何もかもに気がついていた。

 ハルオの胸の中に紅い血を流させ、心に火がついたようにさせるのはMしかいないのだということ。

 Mによってまた厄介な苦しみが引き起こされたとしても、彼女が与えてくれる歓び、イノチが燃える感触のほうが、自分には必要なのだということに。


(まったく、最低の男だ……)

 急に切なくなり、そして不安になった。

 腎臓とか肝臓は、簡単には治らないというか、一度 いためたらそうはよくならないはずだ。

 ハルオと対等に飲めるくらい酒は強いと思っていたから、何も考えずに、会えばハルオはMに酒を飲ませていた。

 子どもではないし無理に飲ませたわけではないから、責任を感じる必要はないといっても。


 ハルオは、できるだけ、なんでもないように返事をしなければと思った。すぐに会いに行きたいくらいでそんな余裕はないが、せっぱつまった返事をしてもなんにもならない。


『教えてくれてありがとう。どうしちゃったのかと思ったよ。たいしたことはできないかもしれないけど、ぜひまたメールしてください、待っています……お大事にね』


 次の日、ハルオは取引先にむかって歩いていた。

 Mから検査の結果をメールしてきた。とりあえず投薬で様子を見るという。

 ハルオはいつもの思慮を捨てて、きみに何かあったらおれも生きていたくないな、大切にしてくださいと返信した。

 大げさでなくそう思った。


 何度も、何十回もやめようと考えて、異性としての彼女の魅力もそれほどではないと思い込もうとしていた。

 どう転んでもこれ以上彼女の人生に関わることはないと考えた。

 ハルオが手を離した方が彼女はラクなはずだと思った。

 それなのにハルオはどうしても、彼女は自分に似ていると思って……つまり、この苦しみが、ハルオに彼女を愛させる。


明日20日23時で最終回となります

もう少しです

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