第8話 ただいま
とうとう倒れてしまったハルオ
リカ改め、しおりに癒されます
ハルオはできるだけ隙間なく仕事を入れ、昼も夜もなく走り回っていた。
あとから思うとバイク便を使えばよかったのだけれど、台風が来て強い雨が降る中を、律儀というか、カンプという仕事の見本を届けに行った。濡れたからだのままで部屋に戻ってきて、また夜通し仕事をしていた。
のどの奥が絶え間なくごろごろと鳴るようになった。仮眠をとろうと横になっても、痰がからまり咳をせずにはいられなくて眠れない。
長年の職業意識のせいか、その仕事の締切りまでハルオのからだは動いていた。最終のデータを届けに行って「お疲れさま」という言葉をもらった時、全身の力が抜けていくのがわかった。
とにかく家に戻る気力だけは残しておかなくては……うちに帰ったとたん、文字通りばたりと倒れた。
這うように医者に行ったら、肺炎という診断だった。
「いまどき、肺炎になるひとなんているんですか」
「あなたがいま、現になっていますねえ」
なかなかクールなお医者さんだ。
いろいろと問題はあったけれど若くてかわいい部類の女の子と別れたあと、肺炎にかかってひとりで寝込むという以上に悪いことがこの世にあるだろうか?
口の悪い市さんなら、因果応報だといったにちがいない。
実際にはそんなことは考えていられない。とにかくこの咳がおさまってくれればいい、少しでも眠らなければ、いくらかでも回復していかなければ……人間、追いつめられたときは余計なことを考えないものだ。
まるで食欲がなく、インスタントのカップスープを買い込んでそればかり飲んでいた。
せきこみながら眠れずにひと晩すごしたあとに飲めば、そんなものでもイノチがつまったような味がする。
ほんの少しずつでも、飲んで、食べなければいけない、そうすればよくなっていくはずだから…。
もちろんずっとあとになって思ったことだけれど、なかなかMとの間にあったことから離れられなかったハルオにとっては、ちょうどいい洗礼というか儀式のようなものだったかもしれない。
とにかく起きて歩けるようになりさえすれば……いまよりはずっとマシだ。
強めの抗生物質とせき止めと胃薬と、あと何か五種類の薬をのんだあと、とにかく横になっていた。
まだよく眠れないし横になっていてもラクではないが、そうしているしかない。
それでもいくらかうつらうつらし始めたころ、来客を告げるチャイムが鳴った。
(新聞屋の集金か……何かの勧誘か、出なくてもいいかな……)
そう思いながらハルオは起き上がり、せき込まないようそっと歩いて、インターフォンの受話器をとった。
「はい、なんでしょう」
「……しおりです」
それは、二度目に寝たときに聞いたリカの本名だった。
しおりと仲違いをしたわけではなく、ただ積極的に誘わないだけのことだったから、いつものメールが来て病気で寝ていると答えていたのだった。
来てしまったものはしかたがない。
ドアを開けると、ケーキの箱を持ったしおりが立っていた。
「ゴメンナサイ、寝てるとこに来ちゃって迷惑だった?」
「いや……ありがと、なんでわかったんだ、ここは教えてないのに……名刺か」
独立した時に作った名刺を渡してあったのを思い出す。住所だけを頼りに彼女は訪ねてきた。
「むさくるしいなんてもんじゃないけど、まあ入って」
しおりを迎え入れたあと、ハルオはソファに座って後ろにもたれ、ほとんど寝ている状態になった。
ハルオは一緒に寝たことがある女性だから気楽にしてかまわないという性格ではないのだが、気力も体力もつきている。
「起きてなくていいよ……なんか洗い物とか洗濯とかする?」とリカが言った。
そういうことはするなよと答えかけて、面倒になった。
(部屋に入れてしまったんだから、しょうがない……というのは失礼だよな)
本当は、かなり嬉しかったのかもしれない。
「リカ……しおりちゃんにそんなことはさせられないけどな。とりあえず……悪いけどそこらへんにコーヒーの道具があるから、淹れて飲んでてくれない」
それだけ言ってハルオは眼を閉じた。
コーヒーを点てながらしおりはたまっていた食器を洗っていて、ハルオはその音を聴いている。
Mにはそんなことをさせなかったから、他人がこの部屋でそんなことをしている音を聴くのはなん年かぶりだ。
「ケーキ、食べられる?」
「ん? ああ……もらうよ、固形物を食うのひさびさだ」
「スープだけじゃ保たないよ」
たまっていた空き袋を見たのだろう。
「あの時も」
ふたりとも勤め明けで朝方にファミレスでスープを飲んだときのことを言っていた。
「なんか、ずいぶん昔みたいだな」
「ほんとに」
彼女が買ってきたチーズケーキとモンブランを食べる。美味しい。
しおりはあの時と同じに、目を細めて笑顔になっている。
「おかしいんか」
「すごいお酒飲みなのに、まじめにケーキ食べてて……なんかかわいい」
「ふざけんじゃねえ」
そう言いながらハルオも笑った。
しおりと寝たときになにがあったわけではない。
気心の知れた彼女とそうなれたのは素直に嬉しかったし、うまくいかなかったわけでもない。
そうなったからといって急に彼女にかたむくことがなかったのは、ハルオがまだまだMの影をひきずっているためと、もうひとつ原因があった。
あのとき身につけていたものを取ったしおりは、余分な脂のついていない少年のようなからだつきだったけれど、ふだんの細身なスーツ姿よりはずいぶん女らしく見えた。
目につくのは左胸の下、肌の色が変わっていることで、乳房のあいだからあばらの下までけさがけに手術で切った痕がある。
「これはね、あたし生まれつき心臓のどこかに穴が開いていたんだって、自分では覚えてないんだけどまだ赤ん坊のときに手術したの」
「そうなんだ……元気そうだけどな、いまはなんともないのか」
「ふつうに生活するぶんには大丈夫だよ、ただ赤ちゃんは産めないっていうか、産まないほうがいいって言われてるけど」
「……そうか」
どうしてしおりがハルオと寝る気になったのかは、わからなかった。
他人が聞いたらずいぶん投げやりな言い方だろうけれど、よかったら行くかとハルオが言い、いいよと頷いて彼女はついてきた。
そんなこともあるんだろうと思って、ハルオは彼女と一緒にそういう部屋に行った。
「……気になる? あたしね、嘘じゃなくて男のひととつき合ったことって二回しかないよ、あのシゴトしてるから遊んでるように見られるけどさ。マジメだからってわけじゃないね、この傷……見せちゃうと男のひとが離れていくんじゃないかと思って、やっぱりこわいんだ」
「リカはじゅうぶんキレイじゃないか……こんなもんで逃げてく男はもとからロクなもんじゃない」
「ハルオさんはそう言うと思ったんだ」
「……もういいよ、それは」
それからハルオとリカは……しおりという名前を教えてくれたのは二度目だった……長いこと抱き合って、ときおりキスをして、みじかく言葉を交わしあった。あまり直接セックスに向かう気はしなかったのだ。
「不思議だよね、こうしてるの……ずっと一緒にいたりしてさ、ないかな」
「そのほうがいいと思ったら、そうなることもあるだろ」
「……正直だね、正直すぎるくらい、でもそんなのってズルくない?」
「そうだよ、ズルしてるんだ、ずっとそうなんだ」
やがて彼女、しおりはある言葉をハルオの耳に吹き込んで、ハルオはごめんごめんと謝りながら、そうしていった。
(傷なんかどうってことはない。おれがしおりに夢中になっていかないのは)
コーヒーを飲みながらハルオは考える。
(……子どもを取り上げられたMと、産むことを禁じられたしおりとの間をうろうろしてる自分の姿が見えた気がして)
(なんか重すぎるな……しおりがどうだっていうんじゃなくて、自分のことが……いやになったっていうか、なにも男と女じゃなくてもいいだろうって思って)
体力が落ちているので、それ以上考えが続かない。また、考え続けたいことでもない。
「ハルオさん、横になったほうがいいんじゃない?」
またうとうとしていたようだ。
「うん……そうさせてもらう」
「あたし、まだここにいていい?」
「べつにおもしろかないだろ……テレビでも観てな」
ベッドに戻って寝ていると、ジーンズだけ取ったしおりが横に入ってきた。
「おまえ、病人を犯す気か」
「まさかぁ」
しおりはハルオの脇の下にちょうど入って、半身になってハルオのほうを向いた。
「こうしてるね」
「好きにしてくれ」
「兄妹みたい?」
「……ふつう兄妹は、抱き合って寝ないと思う」
「もぉー、ほんとに……」
憎まれ口ばかりたたいているようだがこれはハルオの癖だ。
これからしおりとどうにかなるということは、あまり考えていないというか、いまは考えられない。それが無責任と言われるならしかたがない。
今日、見舞いにきてくれて、いまこうしてくれているのはありがたい。
Mのことと比べられるものじゃなくて、これはまた別のことだ……。
そうだ、ひとこと言っておこうと考えた。
「肺が炎症を起こしてるわけだけど、うつるもんじゃないそうだよ」
しおりはぜんぜん別のことを口にした。
「子どもができたら、あたしどっか行ってひとりで産むね」
ハルオは、もう女が何を言い出しても驚かないぞと思った。
オンナなんてやぶれかぶれなもんだと思った。
ハルオが女性に対してけっこうやさしくて公平なのか、それともそれがやはり逆に偏見を持っていることになるのかは、女の子たちに訊いてみるしかない。
そして彼女たちはけっして正直に答えることはないと思う。それは差別じゃなくて、知識だろう……。
しおりと一緒に寝た時ハルオは丁寧にそういう配慮をしたから、彼女がいま妊娠しているということではないんだろうと思った。ひとりで子どもを産んで育てるのはたいへんなことだし、軽い気持ちで決められることではない。想像してみているのだろう。
「だって、心臓に負担がかかるんじゃないのか」
「なんとかなるよ、みんな産んでるんだし」
「……だから人類は栄えてきたんだなぁ、産んだはいいけど自分が具合悪くなったら、自分も子どもも困るじゃないか」
「だってさ」
寝たままハルオの顔のほうを見上げるかたちになって、彼女は言った。
「子どもがいたらさ、子どもは離れていかないじゃん?」
そうだろうか。
そうでもないとハルオは思うけれど、冷たすぎる言い方になるとわかっているので、それは言わない。
きっと彼女は、けっこう母親の愛情につつまれて生きてこられたのか、それともまったくそれを知らないで憧れているか、どちらかなのだろう。
「子どもは、ぶじ成長したら親から離れていくよ、そうじゃなきゃ困るしな」
「そうだろうけど、なんかさ……ハルオさんの親は? 心配かけてるんでしょ」
「こんな人間じゃ安心できないだろうけど……言わなかったっけ、もうふたりともいないよ」
「……ごめん、悪いこと訊いちゃった」
「悪いことはないよ」
ハルオは身の上話はしたくない。
「おれにとっちゃもう十年も前から当たり前のことなんだから、なんとも思わない。いろんな人がいるんだよ」
まだ病み上がりまでいっていないのに、まじめな話をして少しアタマも使ったので、疲れた。
ハルオはちょっとだけしおりを抱き寄せて、まだ若い彼女のからだの弾力を気持ちいいなと思い、温かさをうれしいと感じた。
さすがに欲望らしいものはなく、両腕で軽く彼女の肩をつつむようにして、ハルオは今度こそ心底ほっとして眠りに入っていく。
(まるで愛が芽生えちゃったみたいだな……たぶんいまそう思ってるだけで、明日になればまたわからないんだろうけど……しおりの態度が変わらなければ、ずっとそうなることもあるのかな……それじゃ相手次第でどうでもいいみたいだ)
(そういう面もあるか……おれがひとりでどうにかしようったって、相手のあることだし……)
明け方に目を覚ますと、しおりはいなかった。
(いいけど、玄関は開けっ放しかい……取られるもんもないからかまわないか)
(仕事に行ったのかな)
なんとか起き上がって朝刊を取りにいく。
(いくらかよくなったか、とりあえず咳は止まっているし……)
ドアの引き手に手をかけたら勝手に開いたので、からだのバランスがくずれて中途半端な姿勢になった。
なにがあったかはわかったので、気持ちを落ち着かせて、向き直った。
「ただいまっ」
しおりは、食料品が入っているのだろう、二十四時間スーパーの袋を下げていた。
こういう時に気のきいた台詞を言ってもしかたがない。
「おかえりなさい」
昔テレビドラマとかで視聴者から「頼むからハッピーエンドにしてくれ」
という投稿があったそうです、私もそうしたい




