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第10話 A Silent Prayer


なにも片づいてはいませんでした

終幕です


 

 ずっと、後ろから誰かがついてくるのがわかっていた。

 肩を叩かれた気がして向き直ると、男はにやりと笑って闇の中へ消えていった。

 すごい動悸がして、あっと喉から声が出て、ハルオは目を覚ましていた。

 死んだ男や会わなくなった女が、つづけざまに夢に出てきていたのだ。



 やっと仕事の格好をつけて取引相手の会社まで行き、そこで印刷する。

 ハルオは「彼女」のことを考えている。


 喫茶店に入った。カレーを食べている老人がいて、食後に紅茶を頼んでいた。

 指でよくレモンを絞り、砂糖を三杯も入れていた。


 吹きさらしのホームに立つ。

 きのう、きみが死んだら自分も生きていないとメールを打った場所だ。


『心配してくれてありがとう。実は病院に行った翌日、痛みがひどくなって救急でまた行ったの。点滴を二本打ってもらって、レントゲンとエコーもやってもらいました。やっぱり腎盂炎だそうです。いまでもまだ痛むよー。痛くて眠れない……』


 自宅に戻った。残り少ないおカネを集めてくまのプーさんがプリントされた袋に入れる。

 妹の子どもにお年玉をあげた時の残りだ。水引の袋よりはいいような気がした。

 二十万あった。二十万か……いつかの話を思い出す。元の男からおカネを取り返す話だ。

 とくに何も考えてはいなかったのか。

 とりあえずおカネをあげるくらいしか、できることがない。


 食事をして横になった。

 よく眠れないので起きてみるが、からだに力が入らない。

 自分も肝臓くらい悪いかもしれないなとハルオは思った。


 それでも、いちさんがいないほうの居酒屋へ行ってハイボールを二杯飲んだ。

 話しかけられさえしなければ心おきなく、素の……真っ暗な穴ぼこみたいになった自分でいられる。

 常連のミウラさんが「おれなんか死んだって同じなんだ、アフガニスタンに行って戦争がしたい」と言う。

「そうだね」とハルオは頷いた。

   (※当時紛争があった国名なだけで特に意図はありません)


 帰って少し残りの仕事を進め、また横になる。

 深呼吸をして鼓動を整えようとする。

 吸って、吐いて……その間に息をしていない瞬間もあって……。

 そんなふうに意識しなければ呼吸もできないのか、そんなわけはない。



 もっと怒りや悪意や、憎しみもあった方がいい。

 それが力になるのなら……自分は聖者になりたいわけではなく、正しくなくてもいい。

 けれど、悪態をつくのはやめようと思った。

 神様がいないのなら、何に祈ればいいのか……せめて彼女に、健康とほんの少しの安息を。



 しおりからメールが戻ってきていた。

 ずっと返事がなかったので見離されたかと思っていたが、貧血で倒れて実家に帰っていたそうだ。

 仕事に復帰しているからよろしく、と。

 元に戻ることはできるのか……自分は一度、彼女を見切ってしまった。


 天気がよかったので散歩に出かける。

 もうMやしおりから連絡がくることもないだろうと考え、当然だと思う。

 少し前まではそう考えても、いいトシをした孤児みたいにずきずきしていた。

 その場所は通り過ぎたのだと思う。


 浅草の居酒屋で飲んでいたら、外国人の女性三人が入ってきた。

 食事はできますかと英語で訊かれて主人が困っていたので、ここはお酒と軽い食べ物を出すところだと説明してあげた。

「ヤキトリ? OKです。シューマイとライスをください。サケはありますか? レイシュ」

 見たところ三世代の家族のようで、真ん中のお母さんにあたるブロンズ色の髪の女性はけっこう日本語ができる。

 冷酒はないんですがと言って主人が富久娘の瓶を見せると、お母さんは「スバラシイ」と言ってそれをたのんだ。

 娘はもう少し明るいブロンドに近い髪でからだも大きく、絵に描いたような西欧人の女性だ。

 アタマのなかでMとしおりをその横においてみる。

 まるで子どもみたいに見える。


 歩き疲れた。地元まで帰り、市さんのいる店にたどり着いて燗酒をたのむ。

 オヤカタが来て、サトウさんが来た。適当に話をしているうちにカラ元気が出てくる。

 相撲や野球の話をして、おじさんたちはけっこう盛り上がった。

 ナオちゃんもセンセイもやってきて、ハルオはウイスキーを出してもらった。


 みんな帰った。

 ハルオは頭をかかえて時々ウイスキーを飲む。

 やりきれない疲れはあるのだが、それは仕方のないことで……なにもかも割り切る必要はないと思う。

 そんな時はただ頭をかかえていればいい。


 Mにおカネを渡すことはできなかった。約束した待ち合わせ場所に来なかったからだ。

 MはJ医大には行っていない。

 心配のあまり禁を破って勤務先に電話をしたら、その間ずっと普通に出勤しているのだった。

 なぜ? そんなことは考えてもしかたがない。そうハルオは思う。


 市さんが誘ってくれたので、二人で近所の焼肉屋に行く。辛い真っ赤なうどんを食べた。

 市さんに一万円札を差し出したが取らなかった。

 この次があったら「おれも男だ、出したものを引っ込められるか」と言おうと思った。照れていてはいけない。



 次の日の朝、間違い電話でハルオは起こされた。少し頭の横が痛む。

 煙草を買うついでに公園まで行って、ベンチに座る。

 誰が最初に言ったのか、秋の空は高くて、淡いけれど深い蒼だ。

 木の下で梢を見上げる。雲はほとんどない。

 家族連れを見る。老人たちを見る。風が吹いて、陽の光に透けた葉が揺れる。

 こういう日に、誘ったりしなくても普通に散歩ができて、何を話すでもなく横に座ってくれる、誰か。


(べつに、そんなものが欲しかったわけじゃない)

(もっとみっともないことになる前に、あいつのほうから幕を引いてくれたんだ……親切だよな)


 そんなふうにハルオは考えてみた。

 自分でほとんど嘘だというのがわかった。

 だから、考えないことにしようと思った。



(了)



この地味で明るくはない物語

最後まで見守り続けてくれた皆さん

ありがとうございました

※ほかの作品等については活動報告をご覧ください

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