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第2話 長く乾いた道


浅草から自分の部屋、実家のあった場所、妹が通っていた教会

友だちが行っていてお菓子がもらえたからだったようです

 

 派遣の仕事が切れて、ハルオは浅草を散歩することにした。


 まだ四月だが空も晴れて、日曜の浅草は暑いほどだ。

 WINS浅草の周囲は人で一杯になっている。紫や黒のシャツで決めたつもりのお兄さんたち、くたびれたジャンパーの中年男たち。

 初音はつね小路なんて名前だけはきれいな響きの通りだが、保健所に通るとは思えないすごい色の煮込みをさかなに、男たちがビールや酎ハイを飲んでいる。

 すぐそこの花やしきからジェットコースターの客の歓声と悲鳴が聞こえてくるけれど、のんびりしたものだ。

 誰が着るんだこんなもんという古着屋、売れ残りのヌードカレンダーを安売りしている屋台、地方客相手にわけのわからない鉢巻やおこしを売っている店。

 板橋の商店街で育ったハルオにとって、居心地いい部類に入る土地である。


 吾妻橋を渡ってなんとなく歩いていった。

 十年間ただ働いていたわけでもないのだが、こんな時間の過ごし方はずいぶんひさしぶりだ。

 川の向こう、墨田区側はだんだん人通りも減ってくる。

 業平なりひら橋のファミレスに入り、スパゲティ、オニオングラタンスープを注文した。


 隣の席では中学生くらいの女の子三人が、万引きでもしてきたのか、バッグから服を出してはトイレで着替えてきて互いに見せ合っている。席の上で立ち上がって、下着が見えていたりする。


 反対側の隣に座っていた家族連れのおとうさん……といってもたぶんハルオより年下なのではないだろうか……その男が、わざわざ長いストラップをつけてある携帯を置き忘れて席を立った。大声で呼ぶのがイヤなので立ち上がって追いかけ、ウェイトレス越しに渡した。

 ハルオは意外と親切なのだ。


 自宅のある駅まで帰って角の空き地まで来たら、雲の切れ間から陽光がこぼれてまっすぐ地上まで差しているのが見える。

 ハルオは、あれをステアウェイ・トゥ・ヘヴンというのだと教えられたことがある。「天国への階段」だ。


 いつもの居酒屋で携帯を手にとってMから来たメールを眺めていたら、カウンターのいちさんに声をかけられた。

「あんた、またしょうもない女に手を出してるわけ?」

「出されてるんだよ」

「またこの人は……あんた、自分を下げてるっていうか、自分を粗末にして楽しんでるんだよね」

 市さんというのはいろいろと口ではいえない経験を積んできているらしい男で、彼がハルオに悪態をつくのはいつものことだ。


『ママがお祭りの委員であたしは家で留守番なの、だから土曜は会えない』

 土曜日なら会えるねとメールしたのは、確かにハルオのほうだった。ふざけて書いたわけではなかったけれど、そう切実なものでもなかった。

 それに対してMがまともに返事をくれるとは考えていなくて……それにしてもいくら若いといっても、もう二十四歳? 母親の用事があるから出られないとは、「おれはこんな小娘の相手をしていていいのだろうか」とも思う。


(あいつ、なんか人なつこかったし、かわいい顔をしていたな……べつに何のコンタンがあるわけじゃなし、メシでも食えばいいか)

 ハルオは、その日三杯目のハイボールを飲みながら、そう考えた。

 丁寧になりすぎてもおかしいかなと思いながら、ゆっくり時間をかけてメールの返信を作った。




 ハルオは用事があって、実家のあった辺りに戻った。

 小学校の途中で板橋から移り、高校を出るまで住んでいた土地だ。もう両親ともいないし家もないので、ビジネスホテルに部屋をとった。

 朝、五一四号の窓を開けて、街に落ちてゆく雨を見下ろす。

 これ以上人を傷つけるなら自分が死んだほうがいいのになと考えた。そういうことがあったのだ。

 横になってまた寝ようとする。

 持ってきたノートPCが出す小さなノイズだけが聞こえる。


 朝食をとる。冷たいミルクと熱いコーヒー……こういうものが大切なのだと思ったのは、心臓まで少し弱っているような気がしたからだろう。あまり無理はしない方がいいとハルオは考えた。


 センチメンタルになっているひまはないが、気晴らしにでもなるかと思い、家のあった場所に行くことにした。

 おぼろげな記憶を甦らせながら歩いていく。

 駅は汚く、見覚えのある公民館もタクシー会社もそのままだ。映画館はおそらくはるか昔に潰れている。

 妹が日曜学校で通っていた教会はまだある。


 たぶんこの角を曲がるのだろうと適当に進んでいくと、酒屋があった。

 父の注文で粗悪な合成酒を買いにハルオが通っていた店だ。そこの自販機で煙草を買った。


 もう少し先に小さな森が見え、それが神社なのだということはわかっていた。

 夏休みにセミを捕ったり、秘密の隠れ家を造ったり、カタ屋が出てみんなで色を塗ったりした場所だ。

 赤い土で石段がぬめっている。土壁には蝸牛かたつむりが這っていて、時折姿を見せるのはずっと昔からいたような年寄りだけだ。

 ハルオを分かる人間はいるはずもない。


 帰りに駅までの時間を見たら、十二分だった。

 子どもだったハルオは、乾いた赤土の砂ぼこりを浴びながら、この道を三十分はかけて歩いていたはずだ。


 別に昔の知り合いに会うつもりはなかったが、うちが米屋のヒロセはこの町にいるはずだと思った。

 商店街を歩いていく。

 銀色の台に載ったアイスクリームを食べた食堂は、ゲームセンターになっていた。大判焼きを作っているのだけは昔と同じだ。

 覚えていたのと反対側にヒロセ米店はあって、昔ながらの精米店ではなく今風の明るい造りになっていた。

 奥さんらしい人が店番をしている。

(いなければいないでいいか)

 そう思って戻ろうとしたら、店の脇から配達用のバンが出るところだった。それに乗っていた男は……ヒロセだったのだろうか。

 髪がだいぶ白くなり深く皺になった顔は、ヒロセの父にしては若く、ヒロセ本人にしては年を取り過ぎているように見えた。

 男は一瞬ハルオを見て怪訝けげんそうな表情を浮かべ、それから発車していった。

 おそらく、あれがヒロセだったのだろう。


 仕事に戻らなければならない。

 駅を発車して一時間足らず。途中で人種が変わっていくのがわかる。

 東京の人間の方がいくらか服装が洗練されていて、そのぶん生気がないように見える。


 自分の部屋に帰って荷物をばらし、しばらく横になった。

 午後十時四十九分に携帯が鳴り、Mからのメールだった。

 生きる勇気がすこし出てきたような気がする。

 そんな自分を、バカなんだろうなとハルオは思った。


「市さん」は某所で暴れているイチさんで、これが初登場です

他の作品で店をたたむまで、いつも悪態をついてきます

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