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第1話 春の夜半


もっと怒りや悪意や、憎しみもあった方がいい。

それが力になるのなら……自分は聖者になりたいわけではなく、正しくなくてもいい。

けれど、悪態をつくのはやめようと思った。

神様がいないのなら、何に祈ればいいのか……そんな「ハルオ」の物語。


 

 『ある時代のこと、ピアノ弾きの少年に恋した男がいた。

 同性愛を嫌悪していたピアノ弾きは大陸をこえて逃げ、男は得体の知れない情熱でそれを追いかけた。

 なぜかそれを止めようとしているのが自分で、地下のカフェへとつづく白い漆喰ふうに塗られた壁をつたっていくと、ピアノ弾きは殺されたあとで、殺してしまった男の方が涙を流していた』


 どういう夢なのだろう。



 いつも寄る居酒屋でハルオがはじめて会ったその女性は落ち着いた話し方で、酒場に出入りして男を拾っているおばさんという感じではなかった。

 たまたま隣りに座ったハルオは気楽な感じで、けれど失礼な印象を与えないよう適当に気を配りながら、いくつか話をした。


 だから、店を出たとき袖を引かれたのは意外な感じがしたのだけれど、やり方が控え目で好感が持てたので、これが大人のつき合いなのかなと思いながら、ハルオは彼女のアパートについていった。

 そういう、行きずりで女性と寝るということはほとんどした経験がなく、たぶん十ちかく上の年齢の女性を抱くということも記憶にない。


 部屋に入ってからはそう会話も交わさず、やや義務感のようにハルオは彼女にかじりついた。

 彼女は「こんなおばさんでごめんね」とだけ言った。

 ハルオは(このやろうかわいいじゃねえか)と思った。


 朝方、まだ五時前だっただろうか、ハルオは起き上がって帰り支度をした。

 彼女は目を覚ましていて、何もないけど朝ご飯を食べていけばと言った。

 そういうことはするなよとハルオは言って、それから、何だか悪い気がしたので顔を見て、にっこり笑ってみせた。


 これから始発で会社に行って、ほかの社員が出てくるまでソファで寝ていようと思いながら、駅への道を歩いていく。

(最後まで感じは悪くなかったけど、やばい男がついていたり、面倒な話を持ちかけられたり、それってあるよな、危ないことしちゃったな……)


 薄闇の中に浮かんだ彼女の裸が、意外ときれいだったことを思い出す。

 それなりに楽しんだにはちがいないのだが(しゃらくせえ)とハルオは自分に向かって言い、このことは忘れた。



 ハルオはその会社を辞めることが決まっていた。

 そういう場合あまりないことだが、業務の区切りがつかず、その日もひとりで深夜まで残って仕事をした。

 普通に考えれば、自分がデータを持ち出したり会社の備品を盗んだりしても不思議はないとハルオは思う。

 もちろんハルオはそんなことはしないし、会社もそれがわかっているから仕事を任せていた。

 仕事の内容の申し送りを書いて同僚たちの机の上に置き、たまっていた私物をいくつかの手提げ袋に詰め、午前三時にクルマを拾って帰った。

 ねぎらいの言葉とか送別会は意味がないとハルオは考えていて、これが十年勤めた会社との最期にふさわしいと思った。


 ハルオがMに会う前の話だ。



 ハルオは、酒について考える。

 値段の高いのがいい酒だとはかぎらない。

 自分がうまいと思って飲んでいればいいのだが、頭が痛くなるだけの安い酒というものはあるし、カクテルとは名ばかりの色つき水がある。そんなものを好きこのんで飲むことはないと思う。


 ハルオの父は、一番安くて長く飲めるという理由だけで、混ぜもの入りの日本酒、昔は合成酒といったものを飲んでいた。

 ハルオに買いに行かせて、朝から飲んでいた。

 それを見て育ったハルオは成長しても酒だけは飲むまいと考えていたが、例にたがわずそれなりの酒飲みとなり、父よりはいくらかいい酒を飲んでいる。

 五十という年齢で亡くなった父に、あんたどうせならもっといい酒を飲んで死ねばよかったのに、と胸の中でつぶやいていることもある。


 新しい仕事の打ち合わせで飲んだあと、ひとりでもう一軒の酒場に寄り、そこで一時間ばかりを過ごした。

(これからおれはどうなるのだろう?)

 そんなことを言っていられる年齢は、とっくに過ぎているのだけれど。


 自宅から少し離れた場所でハルオはタクシーを降りた。

 少し入り組んだ路地の先なので、説明するのが面倒だったのだ。

 よそのマンションの駐車場を横切っていこうとした。


 酔っているせいもあったのだが、暗い駐車場は視界が悪く、駐車位置の区切りになっているブロックの石につまづいた。ふわりとからだが浮いた。

 ほんの一瞬のあいだに酔いが醒めて、骨折か、打ち所が悪ければ死んだりするかもと考えた。


 右前方に空きスペースがあるのが目に入って、ハルオは右手で地面をはらうようにして、その方向に前転していった。

 くるりときれいに回ることができて、ハルオは元通り立っていた。

 どこも怪我はしていないようだ。

 上着を手にとってはたきながら、誰か見ていなかったかと辺りを見回してみた。

 暗くてよく見えないが、人の気配はない。

 高校の時に柔道で受け身程度は習ったのが、十なん年目に初めて役に立ったかとハルオは思って、家に向かって歩き始めた。



 ハルオが彼女と恋に落ちたのは、会社を辞めた時にくずした定期預金が銀行に入っていて、気持ちに余裕があったせいもあると思う。

 それまでのハルオは来月の家賃の支払いに頭を悩ませる日々で、それどころではなかった。

 他人が聞いたら、不純というか打算的に思うだろうか。

 本当におカネがない時に恋なんかしてしまったら、ただ苦しいだけになる。

 そういうことが昔あったから、それまでは歯止めになっていたのだろう。


 つなぎに仕事していた派遣先で知り合ったMとは、PCのメールで何度かやり取りをしていた。

 それは週に一度か二度のことで、それで終わっていればべつにそれだけのことだったと思う。

 何かの時にと教えておいた携帯のほうにメールが入ってきていた。

「ママがお祭りの委員であたしは家で留守番なの、だから土曜は会えない」

 というものだった……これはなんだろう?


作中「ハルオ」がソルトの「サンジ」の元の姿です

完全にイコールではないかも

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