【Part 4】不協和音と、絶対零度の拒絶
ガァン……ッ!
私が弾いた鍵盤から指が滑り落ち、ひどく濁った不協和音がリハーサル室に響き渡る。
先ほどまで空間を満たしていた、魔法のように美しい透の歌声とピアノの旋律。その完璧な調和が、たった一言の冷たい声によって、無惨にガラスのように砕け散った。
「……おい」
開け放たれた防音扉の前に、神城ルイが立っている。
ポケットに両手を突っ込み、その切れ長の瞳で、ピアノの前にいる私と透を射抜くように睨みつけている。
纏っている空気は絶対零度。室内の温度が、急激に数度下がったかのような錯覚に陥る。
「……なにやってんの、お前ら」
低い、地鳴りのような声。
ルイがゆっくりとした足取りで、こちらへ近づいてくる。一歩、また一歩。
スニーカーが床を擦るわずかな音が、異常なほど大きく鼓膜を打つ。
私は咄嗟に立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けない。
隣を見ると、透はすでに俯き、さっきまで微かに熱を帯びていた瞳を完全に閉ざしていた。手早く両耳にイヤホンを押し込み、外界とのシャッターを完全に下ろしてしまう。
(あ……待って)
せっかく、ほんの少しだけ繋がれた気がしたのに。
透の音楽という、彼が世界と繋がる唯一の細い糸に、私は確かに触れたはずだったのに。
彼の強固な『殻』が再び閉じていくのを、私はただ黙って見ていることしかできない。
「……別に。何もしてない」
透は私と目を合わせることもなく、それだけを淡々と呟き、立ち上がった。
「透くん……」
呼び止める私の声も虚しく、透は近づいてきたルイを避けるようにして、足早にリハーサル室から出て行ってしまう。
残されたのは、私とルイの二人だけ。
「……チッ」
ルイは不機嫌極まりない顔で盛大な舌打ちをし、ピアノの前に座る私の目の前まで距離を詰めてくる。
長身から見下ろされる、圧倒的な威圧感。
甘くてスパイシーな香水の匂いが、刃物のように私の鼻腔を突く。
「……俺たちのテリトリーで、母親ごっこでもしてるつもりか」
「そんなつもりはないよ。ただ、透くんの歌がすごく綺麗だったから、合わせてみただけで」
「綺麗? はっ、笑わせんな」
ルイは嘲笑するように唇を歪める。
そして、長い腕を伸ばし、私の横にあるピアノの蓋に、ドンッ!と強く手を突いた。
ビクッとして肩が跳ねる。
顔と顔の距離が、数十センチまで近づく。
彼の瞳の奥で燃えているのは、先ほどの朝食の時のような単純な怒りではない。もっと深く、ドロドロとした『苛立ち』だ。
「いいか、勘違いすんなよ。朝飯作って、ちょっとピアノ合わせて、俺たちの懐に入り込めたとか思ってんなら、大間違いだ」
「……思ってない。私はただ、マネージャーとして」
「お前のその『マネージャー面』が鬱陶しいっつってんの!」
怒鳴り声が、リハーサル室の壁にビリビリと反響する。
私は息を呑み、言葉を失う。
「俺たちはな、どうせ売れなきゃすぐに切られる、寄せ集めのゴミなんだよ。お前みたいなお花畑の元保育士が、ちょっと優しくしたくらいでどうにかなるような、可愛いガキじゃねぇんだよ」
彼の言葉には、自暴自棄にも似た痛みが混じっていた。
売れる直前の不安定な立ち位置。中途半端な自分たちへの苛立ち。そして何より、大人たちから「どうせダメだろう」と値踏みされ続けてきた、過去の記憶。
彼は、誰かが自分たちに『期待』を寄せることを、極端に恐れているのだ。
期待されれば、いつか必ず裏切られる。だから最初から、誰のことも信じない。関係なんて築かない。
「……寄せ集めのゴミなんかじゃない」
私は震える両手を膝の上で固く握りしめ、ルイの冷たい瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「透くんの歌には、人を惹きつける力がある。陽斗くんのダンスだって、周りを明るくする力がある。あなただって……」
「黙れッ!!」
ルイがピアノの蓋を、掌でバンッ!と激しく叩きつける。
鈍い音が響き、私の言葉を強引に遮断した。
「俺たちの何を知った気になってんだよ。たった一日二日一緒にいたくらいで、俺たちの何が分かる」
彼の顔が、さらに近づく。
整った顔立ちが、怒りと、それに相反するようなひどい焦燥感で歪んでいる。
「お前はただの部外者だ。仕事の枠を超えて、俺たちの内側に踏み込んでくんじゃねぇ」
低く、地を這うような声。
彼は私の目から一切視線を逸らさず、最後通告のように冷酷に言い放つ。
「俺は、まだお前のことなんて、ミリも信用してねぇから」
その言葉は、鋭い氷の刃となって私の胸のど真ん中を貫いた。
ルイはそれだけを言い捨てると、私からスッと体を離し、踵を返す。
一度も振り返ることなく、長い脚で足早に部屋を後にしていく。
バタンッ!
重い防音扉が閉まる音が、彼と私の間にある『決定的な断絶』を象徴しているように響いた。
「……っ」
張り詰めていた糸が切れ、私はピアノの椅子に深く崩れ落ちる。
膝の上で握りしめていた両手は、じんじんと痺れ、手のひらには爪の跡が白く残っていた。
冷え切ったリハーサル室。
さっきまで、あんなに温かくて美しい音楽が満ちていた空間が、今はまるで嘘のように無機質で冷たい。
(……分かってる。分かってたはずなのに)
彼らが一筋縄でいく相手じゃないことなんて、最初から覚悟していた。
それでも、透と音が重なり合ったあの瞬間。私は確かに『希望』を見てしまったのだ。
この三人なら、きっとすごいことができる。私がその背中を押せるかもしれない、と。
でも、その希望は、ルイという絶対的なリーダーの強固な壁の前に、あっけなく粉砕された。
「……ひなちゃん? なに一人で落ち込んでんの?」
不意に、少し開いたドアの隙間から、陽斗がヒョッコリと顔を出した。
彼はキョロキョロと部屋の中を見渡し、私に近づいてくる。
「あれ、ルイくんと透は? ここにいるって聞いたんだけど」
「……ううん、もう出たよ。陽斗くんも、次の収録の準備、しなきゃね」
私は慌てて顔を上げ、無理やり口角を引き上げて『保育士の笑顔』を作る。
「えー、まだ時間あるっしょ。ひなちゃん、なんか顔色悪いよ? 大丈夫?」
陽斗が心配そうに覗き込んでくる。
彼のこの無邪気な優しさが、今は少しだけ痛い。
彼らは三人とも、向いている方向がバラバラだ。透は殻に閉じこもり、陽斗は空気を読まずに漂い、ルイはすべてを拒絶し、破壊しようとする。
チームとしての結束なんて、微塵もない。
「大丈夫、なんでもないよ。さ、行こっか」
私は立ち上がり、膝の埃を払う。
そして、もう一度だけ、黒光りするグランドピアノを振り返った。
(……このままじゃ、ダメだ)
彼らの心はバラバラのままだ。
それぞれの才能は本物なのに、お互いを信じられず、大人を信じられず、自分自身さえも信じきれていない。
この不安定な均衡は、いつか必ず破綻する。
そしてその予感は、私たちが迎える『初の小規模ライブ』という大舞台で、最悪の形で現実のものとなるのだった。




