【Part 3】強制突破の朝と、天才のハミング
バンッ、と閉ざされた重厚な木製のドア。
その前で、私は社長から預かったマスターキーの冷たい金属の感触を、手のひらでギュッと握りしめる。
現在時刻、午前七時三十分。
現場への出発予定時刻まで、あと四十分しかない。陽斗と透は、私が作った朝食を何とか腹に詰め込み、ダラダラとしながらも着替えを始めている。
問題は、あの絶対君主だ。
「……ルイくん、入るよ」
ノックをしても当然返事はない。私は迷わず鍵穴にキーを差し込み、カチャリと回す。
ドアノブを押し下げると、部屋の中から冷え切った空気がヌルリと這い出してきた。
「うわ……」
リビング以上に澱んだ空気。
遮光カーテンが完璧に外の光を遮断し、部屋の中は真夜中のように暗い。
鼻を突くのは、あの甘くてスパイシーな香水が濃縮された匂いと、微かなアルコールの残り香。床には脱ぎ捨てられた黒い服が散乱し、キングサイズのベッドの真ん中で、長い手足がシーツに絡まっている。
私は迷わず窓際へ直行し、分厚いカーテンを両手で力任せに引き開ける。
シャーッ!
「……っ! てめぇ……!」
容赦なく差し込んだ朝日に、シーツの塊がビクンと跳ねる。
殺気立った低い声とともに、枕が弾丸のようなスピードで飛んできた。
間一髪でそれを避け、私はベッドの脇に仁王立ちになる。
「おはよう。出発まであと三十分だから、早く着替えて」
「……殺すぞ。俺の部屋に入るなっつったよな」
ベッドから身を起こしたルイの目は、本気の怒りに血走っている。
寝癖で乱れた黒髪の隙間から覗く鋭い眼光。放たれる圧倒的な威圧感に、膝の裏が震えそうになる。
「言ったよ。でも、私は仕事でやってるの。ここであなたを寝かせて遅刻させたら、私の給料が減るから」
「はっ、金のためかよ。なら社長に言って倍払ってやる。だから今すぐ俺の視界から消えろ」
「バカなこと言わないで。アイドルが時間にルーズで誰が得するの? 評価を落として困るのは、私じゃなくてあなたたちでしょ」
言い返すと、ルイはチッと盛大な舌打ちをして、再びシーツを頭から被ろうとする。
その瞬間。私は無意識のうちに、彼の腕を両手でガシッと掴んでいた。
「なっ……」
「起きるまで離さないからね」
保育園で、お昼寝からどうしても起きない子を起こす時の最終手段。
物理的な接触。
ルイの腕は、想像以上に硬く、熱かった。彼が驚いて動きを止めた隙に、私は全体重をかけて彼をベッドから引きずり出そうとする。
「おい、ふざけんな! 触んじゃねぇ!」
「じゃあ起きて! 洗面所行って!」
数秒の無様な引っ張り合いの後、ルイは苛立ちを爆発させるように私の手を振り払った。
「……っせーな! 行きゃいいんだろ、行きゃ!」
乱暴にシーツを蹴り飛ばし、大きな足音を立てて部屋を出ていく。
残された私は、ジンジンと痺れる両手を見つめながら、大きく、深く息を吐き出した。
(……心臓、止まるかと思った)
それでも。
私の『強制介入』は、確実な成果を上げた。
午前九時。都内某所のテレビ局スタジオ。
マイクロバスのハンドルを握り、地下駐車場に滑り込んだ私は、時計を見て小さくガッツポーズをした。
予定時刻の十分前。遅刻回避。
「あ、おはようございます! スターリー・プロモーションの……」
楽屋口で待ち構えていた番組スタッフの男性に声をかけると、彼は私の顔と、後ろからゾロゾロと降りてくる三人の姿を交互に見て、目を丸くした。
「えっ……ウソ。彼らが、入り時間に間に合った……!?」
「はい。今日から担当になった水瀬です。よろしくお願いします」
私が深く頭を下げると、スタッフの男性は信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから両手で私の手を握りしめてきた。
「ありがとうございます……! いつも一時間は平気で遅刻されて、僕ら胃に穴が開きそうだったんです! 水瀬さん、神様です!」
大げさな感謝の言葉に、私は思わず苦笑する。
その後ろで、陽斗が「えー、俺らいつもそんな遅れてないっしょ」とヘラヘラ笑い、ルイが不機嫌そうに舌打ちをする音が聞こえた。
(……外部からの評価って、案外ちょろいかもしれない)
ほんの少しの達成感。
しかし、そんな安堵は、数時間後に訪れた『衝撃』によって完全に吹き飛ばされることになる。
午後一時。
番組の収録が押し、ぽっかりと空いた待機時間。
私は次のスケジュールの確認をするため、誰もいないリハーサル室の隅でパイプ椅子に座っていた。
ふと、微かな音が耳を打つ。
防音扉の向こうからではなく、この広い部屋の奥から。
視線を上げると、薄暗い部屋の片隅、グランドピアノの影に座り込んでいる透の姿があった。
いつも通り、両耳には黒いイヤホン。
しかし、その口元が微かに動いている。
『――♪〜』
ハミング。
いや、ただのハミングじゃない。
それは、空気を震わせ、皮膚から直接細胞に染み込んでくるような、圧倒的な引力を持った『声』だった。
(なに、今の……)
持っていたバインダーが、手から滑り落ちそうになる。
息を呑む。
透が歌っているのは、おそらく今聴いている曲のメロディラインなのだろう。
言葉を持たないただの音の羅列なのに、そこにはどうしようもないほどの孤独と、胸を締め付けるような切なさが宿っていた。
(この子……とんでもない才能を持ってる)
私は吸い寄せられるように、音を立てないよう静かに立ち上がり、ピアノの方へと近づいていく。
透は目を閉じたまま、自分の世界に完全に没頭している。
グランドピアノの黒光りする蓋の横に立ち、私はそっと鍵盤を見つめる。
保育士時代、毎日弾いていたピアノ。
透の声のピッチは、恐ろしいほど正確だ。彼のハミングのキーを探り、私は息を殺して、人差し指でそっと鍵盤を押し下げた。
ポーン……。
澄んだ単音が、リハーサル室の空気に溶け込む。
透のハミングと、完璧に同じ音。
ビクッとして、透の目が開いた。
彼は驚いたように私を見上げ、すぐさま唇を結んで音を止めた。
部屋に静寂が戻る。
「……何してんの、あんた」
警戒心を剥き出しにした、冷ややかな声。
「ごめん。あまりにも綺麗な声だったから、つい」
私は鍵盤から手を離し、彼に向かって素直な感想を口にする。
お世辞でもなんでもない、心からの言葉。
透は信じられない言葉を聞いたように軽く眉をひそめ、イヤホンを外した。
「……綺麗? 俺の歌が?」
「うん。すごく、引き込まれた。透くんって、歌うの好きなんだね」
「別に。好きとか嫌いとか、そういうのじゃない。……ただ、これしかないだけ」
自嘲するように吐き捨て、彼は再びイヤホンを耳に突っ込もうとする。
その動作が、たまらなく痛々しく見えた。
音楽だけが、彼が世界と繋がる唯一の細い糸のように思えたからだ。
「ねえ、もうちょっとだけ、聴かせてくれない?」
私は無意識に、彼が座る床のすぐ近くにしゃがみ込んでいた。
「は?」
「私、ピアノ弾けるから。透くんが歌う曲、合わせてみたいなって思って」
「……あんた、バカなの。なんで俺があんたと」
「いいからいいから」
私は立ち上がり、強引にピアノの椅子に腰を下ろす。
鍵盤の蓋を開け、両手を乗せる。指先が、冷たい象牙の感触を思い出す。
「ほら、さっきの曲の続き。歌って」
透は呆れ果てた顔で私を見ていたが、私が真っ直ぐに見つめ返すと、やがて小さくため息をついた。
そして、諦めたように、ぽつりと言った。
「……ズレたら、即やめるから」
再び、彼が小さく息を吸い込む。
紡ぎ出されたメロディに合わせ、私は慎重に和音を探り当て、鍵盤を叩く。
音と音が重なり合う。
バラバラだった波長が、空中でカチリと噛み合う感覚。
(……すごい。音が、生きてる)
私の指先から生まれる拙い伴奏を、透の歌声が包み込み、鮮やかな色彩を与えていく。
薄暗いリハーサル室の空気が、一瞬にして魔法にかかったように変わる。
彼と私を隔てていた透明な壁が、音の波に溶けて消えていくような錯覚。
「……おい」
不意に。
背後から投げられた冷たい声に、私はビクッとして鍵盤から手を離してしまった。
不協和音が響き、魔法の時間が強制終了される。
振り返ると、ドアの前にルイが立っていた。
ポケットに両手を突っ込み、その切れ長の瞳で、ピアノの前にいる私と透を射抜くように睨みつけている。




