【Part 1】高級マンションと、絶望のゴミ屋敷
翌朝。午前六時三十分。
都内にある、セキュリティの厳重な高級タワーマンションの高層階。
ふかふかの絨毯が敷かれた内廊下で、私は『1402』と書かれた金属のプレートを見上げている。
私の部屋は、隣の『1401』号室。
会社が手配してくれたその部屋は、信じられないほど広くて綺麗で、一人で住むには贅沢すぎる空間だった。
そしてこの1402号室が、彼ら三人が共同生活を送っているという事務所の寮だ。
「おはようございまーす……入りますよー」
インターホンを三回鳴らしても、中からは何の反応もない。
社長から預かったマスターキーを鍵穴に差し込み、カチャリと回す。
重厚なドアノブに手をかけ、ゆっくりと手前に引く。
「…………うっ」
開いた扉の隙間から押し寄せてきた空気に、私は思わず鼻と口を両手で覆う。
むわっとした熱気。
ツンとするような男物の香水の匂いに混じって、昨日の夜に食べたであろう宅配ピザの脂っこい匂い、飲み残しのエナジードリンクの甘ったるい匂い、そして……単純に、何日も換気していない部屋特有の『澱んだ空気』が、顔面に直撃する。
「……嘘でしょ」
玄関で靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れた瞬間、私の口から絶望の声が漏れる。
百平米はありそうな、広々としたリビングダイニング。
窓際にはイタリア製の高級そうな革のソファが置かれ、壁には巨大な薄型テレビがかかっている。
……しかし、肝心の『床』が、まったく見えない。
脱ぎ捨てられた黒いTシャツ、裏返しになった靴下、開けっぱなしのファッション誌、プレステのコントローラー、空のペットボトル。
それらが、足の踏み場もないほど一面に散乱している。
ソファの上には、誰のものかわからないデニムが山積みにされ、ダイニングテーブルの上には、食べかけのスナック菓子の袋が口を開けたまま放置されている。
(いくら男の子三人とはいえ、これは……っ)
頭痛がしてくる。
華やかなアイドルの裏側がこんなにも荒れ果てているなんて、世間のファンが知ったら一瞬で幻滅するだろう。
私はため息を飲み込み、リビングの奥にある巨大な窓へと向かう。
厚い遮光カーテンを、両手で一気にシャーッ!と左右に引き開ける。
眩しい朝の光が、埃の舞う室内を容赦なく照らし出す。
「んんっ……まぶし……」
ソファの足元、ラグの上に丸まって寝ていた毛布の塊が、モゾモゾと動く。
金色の髪の毛が、鳥の巣のように爆発している陽斗だ。彼は薄く目を開け、私を見ると「うわ、出た」と呟いて、再び毛布を頭から被ってしまう。
「陽斗くん、おはよう。朝だよ、起きて」
声をかけながら、私は彼を跨いでキッチンへと向かう。
足裏にネチャッという嫌な感触。こぼれたジュースが乾いた跡だ。
シンクの中には、洗われていないマグカップと箸が山のように積まれている。
(とりあえず、朝ごはんの準備をしてから、全員叩き起こそう)
私は冷蔵庫の大きな扉に手をかけ、勢いよく開く。
冷たい空気が顔を撫でる。
……しかし、中を見て、私は完全に言葉を失った。
巨大なファミリー向けの冷蔵庫の中に入っていたのは、賞味期限の切れたマヨネーズと、干からびた半分だけの玉ねぎ。
そして、大量のミネラルウォーターと、色とりどりのエナジードリンクの缶だけだった。
「……あなたたち、毎日何を食べて生きてるの」
思わず独り言がこぼれる。
キッチンを見渡しても、炊飯器のコンセントは抜かれたままで、フライパンは一度も使われた形跡がなくピカピカに光っている。
(食事、睡眠、部屋の環境。……全部、完全に崩壊してる)
子どもたちの成長において、最も大切なのは『生活の基盤』だ。
安心できる居場所があって、温かくて栄養のあるご飯を食べて、清潔な布団で眠る。それが満たされて初めて、心は真っ直ぐに育っていく。
年齢は大人に近くても、彼らの心はあのレッスン室で見た通り、酷く不安定で脆い。
こんな荒れた環境で、まともな精神状態を保てるわけがない。
私の中で、昨日切り替わった『保育士のスイッチ』が、さらに一段階深くカチリと音を立てて入る。
無意識に、腕まくりをする。
髪をヘアゴムで高い位置に一つにまとめ、気合を入れる。
「……上等じゃない。やってやろうじゃないの」
私は持参してきた自分のエコバッグを、ダイニングテーブルのわずかな空きスペースにドンッと置く。
昨日の夜、自分の部屋の冷蔵庫を満たすために買っておいた食材たち。
それを一つずつ取り出し、調理台の上に並べていく。
卵、豆腐、ネギ、鶏肉。それに、小さめのパックの味噌。
(まずは胃袋から。温かいもので、内側から強制的に目を覚まさせてやる)
水道の蛇口をひねる。
冷たい水が、勢いよくシンクの汚れを洗い流していく。
スポンジに洗剤を含ませ、まずは山積みの洗い物を猛烈なスピードで片付け始める。
カチャカチャという小気味良い陶器の音が、静かな部屋にリズムを作り出す。
洗い物を終え、小鍋に水を入れて火にかける。
まな板の上で、ネギをトントンと一定のリズムで刻む。
出汁の香りがふわりと立ち上り、ツンとしていた男部屋の空気を、少しずつ柔らかく塗り替えていく。
「……ん、なに……この匂い……」
背後で、パタパタという気怠い足音が聞こえる。
振り返ると、銀灰色の髪を寝癖で跳ねさせた透が、目を擦りながらキッチンに近づいてきている。
だぼだぼのグレーのスウェット姿。耳には相変わらずイヤホンが刺さっているが、鼻をヒクヒクと動かして、鍋の方を見つめている。
「おはよう、透くん。もうすぐご飯できるから、顔洗っておいで」
「……なんで、あんたがここにいるの」
「マネージャーの仕事には、生活管理も含まれてるからね。ほら、ぼーっとしない」
透は信じられないものを見るような目で私と鍋を交互に見つめた後、舌打ちをして洗面所の方へと歩いていく。
鍋の中で、豆腐とネギの味噌汁がコトコトと音を立てている。
隣のフライパンでは、甘めの卵焼きが綺麗な黄色に焼き上がっていく。
ごま油の香ばしい匂いと、出汁の優しい匂いが、部屋いっぱいに充満する。
「はぁー……腹減った……」
今度は、毛布の塊から這い出してきた陽斗が、フラフラと歩いてきてダイニングの椅子に座り込む。
テーブルの上に置かれたほかほかの白いご飯と、湯気を立てる味噌汁を見て、彼の瞳が一瞬だけ輝いたのを、私は見逃さなかった。
「はい、おまたせ。陽斗くん、ルイくんも呼んできてくれる?」
「えー、ルイくん絶対怒るよ。俺、朝のルイくん起こすの嫌なんだけど」
「いいから。冷めちゃうでしょ」
私はお玉を持ったまま、ピシャリと言う。
その時、リビングの奥にある一番大きな個室のドアが、バンッ!と乱暴な音を立てて開いた。
「っせーな……朝から何の騒ぎだ……」
低い、地鳴りのような声。
黒いシルクのパジャマの胸元をはだけさせたルイが、殺気を放ちながらリビングに現れる。
切れ長の瞳は、明らかな睡眠不足で不機嫌に細められている。
「あ、おはようルイくん。ご飯できたよ。手洗って座って」
私は全く動じることなく、彼に向かってにっこりと微笑みかける。
ルイの視線が、エプロン姿の私と、テーブルの上に並べられた朝食、そして部屋に充満する味噌汁の匂いへと順番に移動する。
その完璧な顔立ちが、理解不能な事態に直面して、みるみるうちに歪んでいく。
「……お前、俺の部屋で何勝手なことしてんの?」
氷点下の声が、リビングの空気を一気に凍りつかせる。
しかし、私は卵焼きを皿に盛り付けながら、平然と言い返す。
「朝ごはんだよ。アイドルがエナジードリンクだけで生きていけると思ったら大間違いだからね」
私とルイの視線が、空中でバチバチと激しくぶつかり合う。
距離ゼロの共同生活。
私たちの本当の『戦い』が、今、甘い卵焼きの匂いの中で幕を開けようとしていた。




