【Part 1】ハリネズミの春と、神戸への招待状
あの熱狂のサマーフェスから、季節は巡り、柔らかな春の風が吹き抜ける季節になっていた。
「……ん、いい匂い」
朝の光が差し込む1402号室のキッチン。
コーヒーメーカーから立ち上る香ばしい匂いに包まれながら、私が朝食のトーストを焼いていると、背後からスッと伸びてきた長い腕が、私の腰に巻き付いた。
「わっ……ちょっと、ルイくん!」
「おはよう。……相変わらず朝から元気だな、俺のマネージャーは」
背中に、彼の広くて温かい胸板がピタリと密着する。
寝起きの少し掠れた低い声が、私の耳元をダイレクトに撫でた。
サマーフェスの袖での『あの宣言』以来、ルイは他の二人がいようがお構いなしに、隙あらばこうして私に触れてくるようになった。
「お、おはよう。離れて、火使ってるから危ないよ」
「嫌だ。俺の充電時間」
ルイは私の肩に顎を乗せ、スンスンと首筋の匂いを嗅ぐようにして目を閉じる。
タンクトップ越しに伝わってくる彼の体温と、相変わらずの色気に、私の心拍数は朝から完全にレッドゾーンを振り切っている。
「ちょっと! ルイくんまた朝からひなちゃん独り占めしてる! ズルい!」
リビングの扉が開き、寝癖で金髪を爆発させた陽斗が、クッションを抱えたまま抗議の声を上げた。
その後ろからは、目をこすりながらあくびをしている透が歩いてくる。
「……朝から暑苦しい。見せつけんな」
透の冷ややかなツッコミにも、ルイは全く動じない。
むしろ、私の腰に回した腕の力をさらに強め、二人に向かってフッと勝ち誇ったような笑みを向けた。
「遅く起きてきたお前らが悪い。水瀬の朝の時間は、一番に起きた俺のもんだ」
「理不尽! 俺だってひなちゃんにおはようのハグしたいのにぃぃっ!」
「はいはい、陽斗くんもおはよう。トースト焼けたから、席についてね」
私がなんとかルイの腕を解いて振り返ると、ルイは少し不満げに舌打ちをしながらも、大人しくダイニングテーブルへと向かった。
(……本当に、変わったなぁ)
ジャムを塗ったトーストをかじりながら、他愛のない口喧嘩を始める三人を見つめる。
誰にも心を開かず、威嚇し合っていたのが嘘のようだ。
今や彼らは、テレビや雑誌で見ない日はないほどの人気アイドルグループへと成長した。サマーフェスでの伝説的なパフォーマンスがSNSで爆発的に拡散され、そこからの快進撃は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
「ひなちゃん、今日のスケジュールって午後からだっけ?」
陽斗が牛乳を飲み干しながら聞いてくる。
「うん。お昼過ぎに事務所で社長とミーティングして、そのあと雑誌の取材が二本。夜はダンスレッスンね」
「社長とミーティング? なんか新しい仕事?」
透が不思議そうに首を傾げる。
普段、彼らの現場のマネジメントは私がすべて仕切っているため、社長が直接三人を呼び出すのは、よほどのビッグプロジェクトの時だけだ。
「詳しくは聞いてないけど……多分、夏に向けた大きな話だと思う」
私の言葉に、ルイの瞳が鋭く光った。
午後一時。事務所の最上階、社長室。
マホガニーの巨大なデスクを前に、私たち四人は横一列に並んで座っていた。
以前ここに来た時は、「解散」という死刑宣告を待つ罪人のような気分だったけれど、今の彼らは違う。事務所の稼ぎ頭としての絶対的な自信と余裕が、その背中から滲み出ている。
「……単刀直入に言おう。君たちに、新たなステップを用意した」
社長が、分厚い企画書をデスクの上にドンッと置く。
「サマーフェスでの成功で、君たちの名前は全国区になった。次は、東京という箱を出て、本格的な全国プロモーションを仕掛ける」
「全国……!」
陽斗が嬉しそうに身を乗り出す。
「六月の初旬。この新プロジェクトのキックオフイベントと記者発表を、地方で行う。最初の舞台は……神戸だ」
「神戸、ですか」
私が企画書を覗き込むと、そこには洗練された港町の風景と、ある会場の名前が記されていた。
「そうだ。会場は、神戸でもひときわ感度の高い層が集まる『BistroCafe712』を貸し切る。君たちの洗練されたイメージにぴったりの、最高のロケーションだ。そこで、地元メディアも巻き込んだ大々的なプロジェクト発表を行う」
「……悪くねぇな。飯も美味そうだし」
ルイが企画書をパラパラとめくりながら、不敵に笑う。
「それから、水瀬くん。これは君への連絡事項だが」
社長が私の方へ視線を向ける。
「最近、ファンの間で彼らのことを『ハリネズミ』に例える動きがあるのを知っているか?」
「えっ? ハリネズミ、ですか?」
「ああ。最初はトゲトゲして威嚇していたのに、今ではすっかり心を許し合っている……そのギャップがたまらない、とSNSでバズっているらしい」
(それ、私が最初に心の中で思ってたことだ……!)
「そこで、ちょうど今年開催される『ハリネズミ雑貨展2026』という大規模なイベントから、彼らに公式アンバサダーのオファーが来ている。少しアイドルの方向性とは違う気もしたが……ファンサービスの一環として受けることにした。神戸でのイベントと並行して、この企画も進めてくれたまえ」
「はい! 承知いたしました!」
私は力強く頷く。
ハリネズミのアンバサダー。かつて彼らの孤独な威嚇をそう呼んでいた私からすれば、これほど彼らに似合う、そして彼らの成長を感じられる仕事はない。
「神戸でのキックオフ、そして夏の全国ツアー。……君たち、これでもう完全に後戻りはできないぞ。やれるな?」
社長の鋭い問いかけに、三人は顔を見合わせた。
そして、リーダーであるルイが、ゆっくりと立ち上がる。
「当然だ。俺たちがどこに行こうが、客の心を全部かっ攫ってやる。……アンタこそ、俺たちの売り上げで腰抜かすなよ」
相変わらずの不遜な態度。
しかし、社長は咎めるどころか、満足そうにフッと口角を上げた。
社長室を出て、専用エレベーターに乗り込む。
「やったー! 神戸! 俺、神戸牛食べたい!」
「……仕事で行くんだからな。観光気分で浮かれんなよ」
大はしゃぎする陽斗を、透が呆れたようにたしなめる。
「水瀬。神戸のイベント、六月って言ってたな」
エレベーターの壁に寄りかかっていたルイが、私を見下ろして低く囁いた。
「うん。ちょうど二ヶ月後だね。スケジュールの調整、大変になりそうだけど頑張らなきゃ」
私が意気込んでいると、ルイは私の耳元に顔を近づけ、他の二人に聞こえない絶妙な音量で、甘い毒を吐いた。
「地方出張ってことは、当然、ホテル泊まりになるわけだ」
「えっ……」
「夜は、俺の部屋に来いよ。マネージャーとしてじゃなく……俺の女として、な」
ドクンッ、と心臓が跳ね上がり、全身の血が沸騰する。
密室のエレベーターの中、彼の切れ長の瞳が、私を完全に捕食者の目で射抜いていた。
「な、何言ってるの……っ! 仕事なんだから、そんな不純な……」
「不純? 俺はいたって真面目だけど。お前が俺から逃げられると思ってんなら、大間違いだぞ」
ルイの指先が、私の手の甲をそっと撫でる。
そのぞくぞくするような感覚に、私は完全に言葉を失ってしまった。
『最強のアイドル』へと駆け上がる彼らの輝かしいステップと。
『一人の男』として私を絡め取ろうとする、ルイの底なしの独占欲。
神戸という新たな舞台に向けて、私たちの境界線は、もう後戻りできないほどに熱く溶け合おうとしていた。




