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絶対君主のハリネズミは、専属マネージャーにだけ甘く牙を剥く〜崖っぷちアイドルをプロデュースしたら、世界一重い愛で包囲されました〜  作者: はりねずみの肉球
第8章:境界線の溶ける温度

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【Part 3】アウェイの洗礼と、自立する背中

あの一線を超えそうになった深夜のドライブから数日。

私の日常は、目まぐるしいスケジュールの波に飲まれながらも、ルイが落としていった『熱』に常に焼かれているような状態だった。


「ひなちゃーん、俺のプロテインどこー?」

「……水瀬、今日のボーカルレッスンの資料どこやった」


1402号室の朝のリビング。

陽斗と透の声に、「プロテインは戸棚の二段目! 資料はテーブルの上!」とテキパキ答えながら、私はフライパンで目玉焼きを焼いている。

傍から見れば、騒がしい三兄弟と世話焼きの姉の、いつも通りの朝の風景だ。


しかし。


「……おはよう」


背後から、不意に低い声が降ってきた。

ビクッとして肩をすくませると、寝起きのルイが、私のすぐ横、キッチンカウンターに肘をついて立っていた。

黒のタンクトップ一枚の無防備な姿。寝癖でハネた髪の隙間から、まだ少し眠たげな切れ長の瞳が私を見下ろしている。


「お、おはよう。ご飯、もうすぐできるから座ってて」


「お前、昨日も俺らが寝た後、遅くまで起きてただろ。目の下にまた隈できてる」


「えっ……」


私が慌てて顔を背けようとすると、ルイの大きな手がスッと伸びてきて、私の顎を指先で軽く掬い上げた。


「っ……!」


「……隠すな。俺が隈のこと指摘すんの、嫌いじゃねぇくせに」


親指の腹で目の下をそっと撫でられ、ジュワッと顔中から火が出る。

あの深夜のソファでの出来事を明確に引き合いに出す、確信犯の甘い声。

彼は他の二人がリビングにいるにも関わらず、私のパーソナルスペースのど真ん中に平気で踏み込んでくるようになったのだ。


「ルイくん、ちょっと、離れて……陽斗くんたちが見てるから……!」


「見とけっつってんの。俺のモンだって」


「だーかーら! 私はみんなのマネージャーなんだってば!」


私が真っ赤になって抗議し、無理やりフライパンの火を止めると、ルイはフッと満足そうに笑い、私の頭をポンと叩いてテーブルへと向かっていった。


「……マジで、心臓もたない」


小さくため息をつきながら、私は胸の奥で暴れる心拍数を必死に落ち着かせる。

彼が私を『一人の女』として扱うたびに、今まで頑なに守ってきた『マネージャーとしての境界線』が、ドロドロに溶かされていくのが分かった。


午後一時。事務所の第一レッスン室。


「――というわけで、三週間後の『TOKYO サマーソニック・ビート』! 出演時間は夕方の17時半。ちょうど夕暮れ時の一番いい時間帯だよ!」


私がホワイトボードにタイムテーブルを書き込みながら振り返ると、鏡の前に座り込んだ三人の顔つきが、一瞬にしてプロのそれに切り替わっていた。


「数万人が集まる野外フェス……しかも、他のアーティストのファンばっかりの、完全な『アウェイ』だ」


ルイが腕を組み、鋭い視線をホワイトボードに向ける。


「うん。ショーケースや単独ライブみたいに、最初からあなたたちに興味がある人たちばかりじゃない。通りすがりの人たちの足を止めさせて、自分たちの空気に引きずり込まないといけないの」


私の言葉に、陽斗がニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。


「上等っしょ。俺のダンスで、遠くで焼きそば食ってる奴らまで全員こっち向かせてやるし」


「……ただのダンスじゃ弱い。野外のデカいステージなら、もっと視覚的に爆発力のある構成が必要だ」


透が、首にかけたイヤホンのコードを弄りながら口を開く。


「中盤のバラードの前、完全に音を消して、陽斗のソロのダンスブレイクを入れたらどうだ。そこから俺のアカペラで繋ぐ」


「えっ、マジ!? それめっちゃカッコいいじゃん!」


陽斗の目がキラキラと輝く。

すると、ルイがスッと立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み出てきた。


「悪くねぇ。ただ、それなら照明のキューは俺が指示を出す。夕暮れの光が落ちるタイミングに合わせて、ステージの地明かりを全部落とせ。ピンスポ一本で透と陽斗を抜く」


「……分かった。音源のリアレンジは俺がやる。夜のうちにベースのトラック作り直すから、明日の朝までに確認しろ」


透がノートパソコンを開き、すでに作業の準備に入っている。

陽斗はイヤホンを片耳に突っ込み、「よし、ソロの振り付け考えるわ!」と鏡の前でステップを踏み始めた。


「……えっと、照明の指示は、私がスタッフさんに……」


私が言いかけると、ルイがホワイトボードのペンを奪い取り、セットリストの横に次々とステージングの指示を書き込んでいく。


「いや、俺が直接スタッフと打ち合わせる。水瀬は俺たちのスケジュール調整と、当日の動線の確保だけ頼む。あと、衣装のマイナーチェンジも俺から衣装部に投げておく」


「あ……うん。分かった」


私はぽつりと返事をし、ペンが走る音と、ステップの音だけが響くレッスン室の隅に、そっと後ずさった。


(すごい……)


今まで、ステージの構成から照明のタイミング、彼らの意見のすり合わせまで、すべて私が間に立って『お世話』をしていた。

でも今は、違う。

彼らは自分たちの頭で考え、互いの才能をリスペクトしながら、自らの足でステージを創り上げようとしているのだ。


『寄せ集めのゴミ』から、誰にも文句を言わせない『本物のアーティスト』へ。


その圧倒的な成長スピードを目の当たりにして、私は誇らしさで胸がいっぱいになる。

……と同時に。

胸の奥に、ほんの少しだけ、チクリとした冷たい風が吹いた。


(そっか。もう、私が手取り足取り教えることなんて、何もないんだ)


かつて、ひだまり保育園で、卒園していく子どもたちの大きな背中を見送った時の感覚。

彼らはもう、大人に怯えて牙を剥くハリネズミじゃない。

私が守らなくても、立派に戦える。


「……立派に、なったなぁ」


誰にも聞こえないような小さな声で呟き、私はバインダーを胸に抱きしめた。


「……水瀬」


不意に、名前を呼ばれる。

顔を上げると、いつの間にか私の目の前に、ルイが立っていた。

ホワイトボードの前で打ち合わせを終えた彼が、私の些細な声のトーンの変化を聞き逃さず、真っ直ぐにこちらを見下ろしている。


「どうしたの? 打ち合わせ、終わった?」


私がいつも通りの笑顔を取り繕って見せると、ルイはチッと短く舌打ちをした。


「お前、今、なんか変なこと考えてただろ」


「変なことって何よ。何も考えてないよ」


「嘘つけ。顔見りゃ分かんだよ」


ルイは一歩、私の方へ距離を詰める。

部屋の奥では、陽斗と透が完全に自分の作業に没頭していて、こちらには見向きもしていない。

それをいいことに、ルイは私の背後にある壁にドンッと手をつき、私を逃げ場のない空間に閉じ込めた。


「っ……ちょっと、ルイくん」


「お前、また『母親面』してただろ。あーあ、立派に育っちゃって私がいなくても大丈夫ねー、とか、そんな下らねぇこと」


図星を突かれ、私は言葉に詰まる。

彼のその恐ろしいほどの洞察力は、私の心の奥底の、一番隠しておきたい感情すら容赦なく暴き出す。


「……だって、本当のことじゃない。あなたたちはもう、私がいなくても完璧なステージを作れる。私はただの裏方で……」


「バカか、お前は」


ルイの大きな手が、私の頭をポンッと、少しだけ強めに叩いた。


「いって」


「俺たちがここまで来れたのは、お前が俺たちの首根っこ掴んで、絶対に逃がさなかったからだろ。お前が俺たちを信じてくれたから、俺たちは自分の足で立てるようになったんだ」


彼が少しだけ顔を近づける。

メガネの奥の切れ長の瞳が、私を真っ直ぐに射抜いている。


「お前は、俺たちの後ろから見送るだけの『母親』じゃねぇ。俺たちの隣に立つ、『パートナー』だ」


「パートナー……」


「俺が世界一の景色を見せてやるって、約束しただろ。……置いていくわけねぇだろ、バカ」


その言葉の奥にある、深くて熱い愛情。

彼は、私の抱えていたちっぽけな寂しさを、一瞬にして燃やし尽くしてくれた。


「……うん。見届けるよ。一番近くで」


私が涙を堪えながらふわりと笑うと、ルイは満足そうに口角を上げ、壁についていた手を離した。


「分かればいい。……とりあえず、今夜は透のトラック制作の徹夜に付き合うことになる。夜食、カツサンドな」


「ええっ、いきなり深夜作業!? もう、本当に人使いが荒い王様なんだから!」


私がわざとらしく膨れてみせると、ルイは低く笑い声を上げながら、陽斗と透の待つステージの中央へと戻っていった。


夕暮れの野外フェス。数万人のアウェイの洗礼。

次なる強大な壁を前にしても、もう恐れは微塵もなかった。

彼らの隣には私がいて、私の隣には彼らがいる。


境界線が完全に溶け落ちた世界で、私たちは最強のチームとして、夏の終わりの大舞台へと向かって走り出していた。

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