【Part 3】地下二階の猛獣たちと、元保育士の意地
「水瀬さんですね! 社長から聞いてます。ほら、これスタッフパス。急いで!」
契約を終え、一階のエントランスロビーに降りた途端。インカムをつけた若い女性スタッフに、有無を言わさず腕を掴まれる。
引っ張られるようにして向かったのは、ビルの奥まった場所にある関係者専用エレベーターだ。
「あの、私、何をすれば」
「とりあえず地下二階の第一レッスン室に行って! ダンスの予定時刻、とっくに過ぎてるから!」
女性スタッフはそれだけ言い残し、バタバタとヒールの足音を立ててロビーの奥へ走り去っていく。
残された私は、手渡されたプラスチックのパスを首から下げ、ゆっくりと閉まるエレベーターの銀色の扉を見つめる。
下へと降りていく独特の浮遊感。
胃の奥が冷たくせり上がるような緊張が、指先から全身へと広がっていく。
チン、という無機質な電子音とともに、地下二階に到着する。
扉が開いた瞬間、空気の質がガラリと変わる。ひんやりとした、窓のない閉鎖空間特有の重たい空気。
廊下の奥から、重低音の効いたダンスミュージックのビートが、壁を伝って微かに振動として響いてくる。
ズン、ズン、という足元から這い上がってくるリズムに合わせて、私の心拍数も跳ね上がる。
『第一レッスン室』と書かれた、分厚い防音扉の前に立つ。
大きく深呼吸をする。
酸素を肺の底まで送り込み、震えそうになる両手にぐっと力を込める。
(大丈夫。相手がどんな人でも、私は私の仕事をするだけ。家賃と生活費のためだもの)
冷たい金属のドアノブを両手で握り、一気に体重をかけて扉を押し開ける。
むわっ。
重い扉が開いた瞬間、押し寄せてきたのは、息が詰まるような熱気。
そして、鼻を突く甘い香水の匂いと、微かな汗の匂いが混ざり合った、酷く暴力的な香り。
壁一面が鏡張りになった、体育館のようにだだっ広い空間。
蛍光灯の白々しい光の下、三人の影が散らばっている。
「今日から皆さんの専属マネージャーを務めます、水瀬ひなです。よろしくお願いします!」
腹の底から、できるだけ明るく、よく通る声で挨拶をする。
ひだまり保育園で、新しいクラスの子どもたちの前に立つ時とまったく同じように。一番奥の壁まで届くように。
しかし。
返ってきたのは、身の毛がよだつほどの完璧な沈黙だった。
部屋の左隅。
冷たいフローリングの床に仰向けに寝転がっている、銀灰色の髪の青年。
両耳に黒いワイヤレスイヤホンを深く突っ込み、スマートフォンの画面をぼんやりと見つめている。
彼が、資料にあった『白瀬透』だ。
私の大きな声が響いたはずなのに、瞬き一つせず、微動だにしない。まるで、私という存在が最初からこの空間のノイズでしかないとでも言うように。
部屋の右側、パイプ椅子にだらしなく深く腰掛けているのは、明るい金髪の青年。
『橘陽斗』。
彼は両手でスマートフォンを激しくタップしながら、ニヤニヤと笑っている。
「あー、また死んだ! マジこのボス強すぎっしょ!」
けたたましい笑い声とゲームの電子音が、私の挨拶を綺麗に上書きして消し去る。
こちらを一瞥すらせず、完全に自分の世界に没頭している。
そして、部屋の中央。
巨大な鏡の真ん前に立ち、腕を組んで自分の姿を見つめている長身の青年。
彼が、リーダー格の『神城ルイ(かみしろ・るい)』。
黒い練習着の上からでもわかる、無駄のないしなやかな筋肉と、息を呑むほど整った顔立ち。
彼は鏡越しに、ちらりと私のほうへ視線を向ける。
氷のように冷たく、見下すような鋭い瞳。
目が合った瞬間、背筋にゾクッと悪寒が走る。
彼はふん、と鼻で短く笑うと、すぐに視線を外し、再び鏡の中の自分へと興味を戻す。前髪を鬱陶しそうに掻き上げる仕草すら、計算されたように美しいが、その態度は最悪だ。
(……見事に、全員から無視された)
顔の筋肉が引き攣るのを感じる。
これが、社長の言っていた『猛獣』。
壁にぶつかるどころか、壁としてすら認識されていないような圧倒的な拒絶感。私はただの空気だ。
壁にかかったデジタル時計の赤い数字が、残酷に現在時刻を告げている。
『13:15』
社長から渡されたスケジュール表によれば、ダンスレッスンの開始時刻は十三時ちょうど。
すでに十五分が経過している。しかし、誰一人として準備運動すら始めていない。
(……誰も、練習を始める気配がない。先生が来るまで待つつもり?)
このまま黙って様子を見るべきか。
それとも、下手に刺激せずに角に立っているべきか。
いや。
私は、彼らのマネージャーとしてここに来たんだ。
嫌われるとか、無視されるとか、そんなことで立ち止まっている暇はない。それに、この無法地帯の空気感は、私の中の『ある部分』を猛烈に刺激してくる。
私の中で、三年間培ってきた『保育士のスイッチ』が、カチリと音を立てて切り替わる。
無意識のうちに、背筋がピンと伸びる。息を吸い込む。
パンッ!
両手を、顔の前で強く打ち鳴らす。
広く静かなレッスン室に、破裂音のような鋭い拍手が反響する。
「はい、そこまで!」
三人の肩が、ほんのわずかにビクッと揺れる。
透の視線がスマートフォンから外れ、陽斗の指の動きがピタリと止まる。
ルイが、苛立たしげに眉根を寄せて振り返る。
「レッスンの時間はとっくに過ぎています。携帯もゲームもしまって、一度ちゃんと集合してください」
私は一歩、彼らの『テリトリー』である部屋の中央へと踏み込む。
その瞬間、室内の空気が、ピリッと静電気を帯びたように張り詰めるのを感じる。
「……は?」
地を這うような、低い声。
ルイがゆっくりと振り返る。長い脚が床を蹴り、私の目の前まで、一切の躊躇なく距離を詰めてくる。
一歩、また一歩。
彼が近づくたびに、甘くてスパイシーな香水の匂いが強くなる。
私の目の前、わずか数十センチの距離で、その大きな身体が止まる。
見上げるほどの長身。上から射抜かれるような圧迫感に、思わず後ずさりしそうになるのを、足の指先に力を込めて必死に堪える。
「……お前、誰に向かって口聞いてんの」
完璧に整った顔立ちが、明らかな不快感に歪んでいる。
瞳の奥にあるのは、純粋な怒りというより、自分の領域に土足で踏み込まれたことへの強い拒絶。
「新任のマネージャーだと言いました。今はレッスンの時間です。遅刻はよくありません」
視線を逸らさずに言い返す。声が震えなかったのは、我ながら奇跡だ。
ルイは私の目をじっと見下ろしたまま、鼻で短く笑う。
「お前みたいな部外者が、俺に指図すんな。目障りだ」
言葉の刃が、容赦なく私を切り裂く。
彼は私の肩を乱暴にドンと突くと、そのまま私をすり抜け、ドアへ向かって歩き出そうとする。
「ちょ、ルイくん待ってよー! 俺も行くし!」
陽斗がパイプ椅子を蹴るようにして立ち上がり、ヘラヘラと笑いながらその後を追う。
床に寝転がっていた透も、無言のまま気怠そうに立ち上がり、重い足取りで後に続く。
「ちょっと、どこに行くの! まだレッスンが」
私の制止など全く意に介さず、三人は連れ立って廊下へと出ていこうとする。
完全に舐められている。私の言葉は、彼らの耳には一文字も届いていない。
その時だった。
「おや。随分と自由だね、君たちは」
開け放たれた扉の向こう、廊下の奥から歩いてきたのは、先ほどの社長と、テレビ局のプロデューサーらしき初老の男性だった。
三人の足が、ピタリと止まる。




