【Part 2】蜘蛛の糸と、本革のソファ
閉園から一週間。
私の城――という名の、駅から徒歩十五分、築三十年の狭いワンルームマンション。
薄い遮光カーテンの隙間から、容赦なく鋭い朝日が差し込み、ベッドの上に散らばったレシートや空のペットボトルを照らし出している。
「……あーあ、またこんな時間」
枕元のスマートフォンを手繰り寄せ、ぼやける視界で画面を確認する。時刻は午後一時を回っている。
ベッドから半身を起こすと、ひんやりとした空気が首筋を撫でる。暖房をつける電気代すら惜しくて、私は毛布を肩まで引き上げる。
テーブルの上には、昨日の夜に食べたコンビニの明太子おにぎりの空き袋。微かに残る海苔の匂いが、胃の奥を不快に刺激する。
「……貯金、あとこれだけかぁ」
銀行アプリの残高画面を見つめる。表示された数字は、私の心細さを正確に数値化したように心もとない。家賃と光熱費、それに奨学金の返済を引けば、来月の今頃には完全に底をつく。
焦りばかりが空回りする。
スマートフォンのブラウザを開き、『求人 未経験』『保育士 資格』といった単語を検索窓に打ち込む。画面をスクロールする指先だけが、機械的に動く。
どの募集要項も、白黒の文字が並んでいるだけで血が通っていない。綺麗に整えられた笑顔の写真を見ても、私の心は1ミリも動かない。
保育士の求人も、もちろんある。
でも、その文字を見るだけで、あの日、ダイキくんの小さな手を離した瞬間の喪失感がフラッシュバックする。胸が締め付けられ、息が浅くなる。情をかけて、大切にして、最後に引き剥がされるくらいなら、最初から誰もいない場所に行きたい。
自嘲気味に息を吐き出し、大手転職サイトの登録フォームに情報を入力していく。
送信ボタンを押した瞬間、ピコン、と無機質な電子音が鳴り響く。
『あなたに【特別スカウト】が届いています』
差出人は『スターリー・プロモーション』。聞いたことのない企業名だ。
画面をスクロールし、募集要項に目を通す。
『職種:専属マネージャー
内容:所属タレント(新人男性グループ)のスケジュール管理、現場への送迎、生活サポート業務全般。
※タレントと同階の寮に住み込み可能な方歓迎
歓迎スキル:保育士免許保持者。高い共感能力と、どんな相手にも根気よく向き合える忍耐力を求めています』
呼吸が止まる。
アイドルのマネージャーに、どうして保育士のスキルが必要なの?
怪しすぎる。そう思いながらも、私の視線は『専属マネージャー』という文字に釘付けになって離れない。特定の誰かのそばに、ずっと寄り添う仕事。それに、住み込みなら家賃も浮く。
冷え切った指先で、画面の底にある『面接を希望する』という青いボタンをタップする。
数日後。都内の一等地にある、全面ガラス張りの高層ビル。
その最上階にある重厚な扉の奥で、私は居心地の悪さに身を縮ませている。
案内された本革の黒いソファは、座ると身体が深く沈み込み、かえって姿勢を保つのが難しい。
部屋中を満たしているのは、淹れたてのコーヒーの苦い香りと、微かな葉巻の匂い。冷房が容赦なく効いた室内で、私の安いリクルートスーツの薄い生地越しに、鳥肌がじわじわと立っていく。
「水瀬ひな君、二十四歳。なるほど……先週まで保育士をやっていた」
マホガニーの巨大なデスク越しに、この『スターリー・プロモーション』の社長が、私の履歴書を指先で弾く。仕立てのいいスーツに身を包んだ、鋭い三白眼の男。その視線は、人間を見ているというより、ショーケースに並んだ商品の品定めをするような冷たさを帯びている。
「はい。勤めていた保育園が、経営難で閉園になりまして」
膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、できるだけ堂々と声を出す。
社長はふむ、と喉の奥で音を鳴らし、私の顔と履歴書を交互に見比べる。
「前の職場では、主にどんなクラスを担当していたのかな」
「えっと……三歳児から五歳児までの、合同クラスです。手のかかる子も多かったですが、一人ひとりと向き合うことには自信が」
「君、面白いね」
私の言葉を遮るように、社長の薄い唇が弧を描く。目は全く笑っていない。
「……はい?」
「適性テストのスコアを見たよ。ストレス耐性と、他者への介入意欲が異常に高い。おまけに中型免許まで持っている。うちが今、社運を賭けて売り出そうとしている新人アイドルグループがいるんだがね。彼ら……少々、手がかかってね」
社長は立ち上がり、ゆっくりとした足取りでデスクを回り、私の目の前まで歩いてくる。足音を吸収する分厚い絨毯。彼が見下ろしてくる圧迫感に、思わず息を呑む。
「君なら、あの『猛獣』たちの手綱を上手く握れそうだ」
「猛獣、ですか……?」
「そう。才能はあるが、協調性は皆無。これまで何人ものマネージャーが、胃に穴を開けて辞めていった」
社長はそこで言葉を区切り、私の目を真っ直ぐに射抜く。
「保育園が潰れて、君は今、住む場所も金もない。違うか」
図星を突かれ、心臓が跳ねる。
見透かされている。この人には、私の足元がぐらついていることが完全にバレている。
「今日からよろしく。期待しているよ、水瀬君」
ドン、と。
分厚い契約書の束が、ガラスのローテーブルの上に無造作に放り出される。
「えっ……今日から、ですか? まだ面接しか」
「寮の鍵はこれだ。彼らと同じマンションの隣室を手配してある。引越し費用は会社で持つから、今日のレッスンからすぐに入ってくれ」
銀色の鍵が、契約書の上に滑らされる。チャリン、という冷たい金属音。
有無を言わさない圧倒的なペース。反論する隙すら与えられない。頭の中が真っ白になる。でも、テーブルの上の『寮完備』『給与保証』という文字が、私の目を焼き付けて離さない。
震える指でペンを握り、契約書のサイン欄に自分の名前を書き込む。
その瞬間から、私の人生の歯車が、自分では制御できない猛スピードで回転し始めるのを感じる。




