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絶対君主のハリネズミは、専属マネージャーにだけ甘く牙を剥く〜崖っぷちアイドルをプロデュースしたら、世界一重い愛で包囲されました〜  作者: はりねずみの肉球
第1章:壊れた日常と最悪の出会い

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【Part 1】空っぽの城と、色褪せたウサギ

オレンジ色の夕陽が、床に敷き詰められたジョイントマットの境界線をくっきりと浮かび上がらせている。

むわっとした熱気。甘ったるいベビーパウダーの匂いに、少し酸っぱい汗の匂い、そして使い古されたクレヨンの油っぽい香りが混ざり合う、大好きな空間。


「ひなせんせぇ、みて」


私のエプロン――右ポケットのあたりに縫い付けられた、すっかり色褪せたウサギのアップリケ――を、小さな指がぎゅっと掴む。

視線を落とすと、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした年長のダイキくんが、私を縋るように見上げている。体重はもう十八キロ。ずっしりと重たいその温もりを、私は両腕の中にすっぽりと閉じ込める。


「どうしたの、ダイキくん。お鼻、かもうか」


箱からティッシュを引き抜き、小さな鼻を優しく包む。ダイキくんは私の首に短い腕を回し、顔をゴシゴシと押し付けてくる。


「あしたね、お砂場で、もっとおっきいお城つくるの。ひなせんせぇも、いっしょにつくる?」


鼓膜を震わせる幼い声が、胸の奥を鋭く抉る。

呼吸が止まる。肺の奥がひゅっと鳴って、喉の奥が焼け付くように痛む。

ぎゅっと目を閉じる。まつ毛の裏側に熱いものが滲むけれど、絶対にこぼすわけにはいかない。私は『先生』なのだから。


「……うん。お城、作ろうね。ダイキくんが作るお城、先生だーいすきだもん」


声が震えないように、お腹の底にぐっと力を入れる。とびきりの笑顔を作って、彼の柔らかい背中をトントンと一定のリズムで叩く。

嘘つき。心の中で、自分を思い切り殴りつける。

明日なんて、ない。一緒に砂場でお城を作る明日は、もう永遠にやってこない。


経営悪化。少子化。建物の老朽化。

大人たちが並べ立てたどうしようもない理由のせいで、この『ひだまり保育園』は、今日この日をもって閉園する。昨日まで当たり前のように響いていた笑い声も、泥だらけの小さな靴が並ぶ玄関も、私が私でいられたこの温かい日常も、全部、跡形もなく消え去ってしまう。


「ダイキ、先生困らせちゃダメでしょ。ほら、帰るよ」


背後から声がして、振り返る。お迎えに来たダイキくんのお母さんが、申し訳なさと寂しさが入り混じった顔で立っている。その目元も、うっすらと赤い。


「水瀬先生……今まで、本当にありがとうございました。先生のおかげで、この子、毎日楽しそうに通ってくれて」


言葉を詰まらせ、深く頭を下げるお母さん。その肩越しに、お母さんの手を引かれたダイキくんが何度も何度も振り返る。


「ひなせんせぇ、バイバイ! またあしたね!」


ちぎれそうなほど大きく振られる小さな手。

私は両膝を床につけ、彼と同じ目線になる。フローリングの冷たさが、ストッキング越しにじんわりと伝わってくる。


「バイバイ、ダイキくん! いっぱい遊んで、いっぱい食べて、大きくなってね!」


両手を振り返す。視界がぐにゃりと歪む。瞬きをすればすべてが零れ落ちてしまうから、私はひたすら目を見開き、頬の筋肉が痛くなるほど口角を引き上げ続ける。


ガラガラ、と重たい引き戸が閉まる音。

外側から、園長先生が鍵をガチャリと回す。冷たくて硬い金属音が、終わりの合図のように静まり返った玄関に響き渡る。


その音を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れる。


「……っ、うぅ……」


堪えきれなくなった嗚咽が、両手で覆った口の隙間から漏れ出す。

誰もいなくなった教室に、私の情けない泣き声だけが落ちていく。


泣き疲れて顔を上げると、窓の外はすっかり暗くなっている。

しんと静まり返った教室には、普段は気づかない床用ワックスのツンとした匂いが立ち込めている。

私はゆっくりと立ち上がり、足の裏から伝わる硬い感触を確かめるように、一歩、また一歩と歩き出す。


壁一面に貼られた、色鮮やかな画用紙。子どもたちが一生懸命描いてくれた、私の似顔絵。丸い顔に、アンバランスなほど大きな笑顔が描かれている。


「……みんな、上手にかけてるなぁ」


そっと指先でなぞると、クレヨンの凸凹とした感触が伝わってくる。

エアコンの風に吹かれて、画用紙の端がカサリ、と乾いた音を立てる。ただそれだけの微かな音が、今の私には鼓膜を劈くような爆音に聞こえる。


自分の両手を見つめる。

ついさっきまでダイキくんの熱い体温を抱きしめていた腕には、もう何も残っていない。

転んで泣いている子を抱き上げ、喧嘩をした子の頭を撫で、絵本をめくるためにあった私の手。その手から、守るべきものがすべてすり抜けてしまった。


部屋の隅に置かれた、おもちゃ箱の前にしゃがみ込む。

プラスチックのブロック、少し塗装が剥げたミニカー、布製の柔らかいボール。一つ一つを手にとり、丁寧に箱の奥へとしまっていく。

カチャ、コト、という無機質な音が響くたび、胸の真ん中にぽっかりと空いた巨大な穴に、冷たい風が吹き込んでくる感覚に陥る。


もう誰も、私を「ひな先生」とは呼んでくれない。

空っぽになった教室の真ん中で、私は床にへたり込み、両膝を強く抱え込む。

暗闇の中、クマの形をした壁掛け時計の秒針だけが、チク、タク、と無慈悲に時間を刻み続けている。

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