【Part 4】夜明けの帰還と、終わらないプロローグ
深夜の裏路地。
冷たいコンクリートの壁と、ルイの熱い胸板に挟まれたまま、私は子どものように泣きじゃくった。
彼を置いていこうとした罪悪感と、彼が私を強引に引き留めてくれたことへの、どうしようもないほどの安堵感。その二つの感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、涙腺が完全に壊れてしまったのだ。
「……いつまで泣いてんだよ。服、鼻水まみれなんだけど」
頭の上から、呆れたような、でもひどく優しい声が降ってくる。
ルイは私を抱きしめていた腕を少しだけ緩めると、長い指で私の目元を拭った。
「な、泣いてないし。鼻水もつけてない……っ」
「嘘つけ。顔ぐちゃぐちゃだぞ」
ルイは意地悪く笑い、今度は私の額に軽くデコピンをした。
「痛っ」と私が小さく声を上げると、彼はそのまま私の手首を掴み、自分の唇にそっと押し当てた。
「っ……!」
手首の脈打つ部分に落とされた、熱くて柔らかな感触。
ビクッと肩が跳ねた私を、ルイは切れ長の瞳で真っ直ぐに見下ろす。
「もう二度と、勝手にいなくなるな。お前は俺が……俺たちが、世界一のアイドルになるのを一番近くで見届けるんだろ」
「……うん。見届ける。絶対に、離れない」
私が力強く頷いた、その瞬間だった。
「ひなちゃぁぁぁぁぁんッ!!!」
路地の入り口から、鼓膜を破らんばかりの大絶叫が響き渡った。
ビクッとして振り返ると、金色の髪を振り乱した陽斗が、涙と鼻水で顔をドロドロにしながら猛スピードで突進してくるのが見えた。
その後ろからは、肩で激しく息をする透が、膝に手をついて「……っ、足、速すぎんだろ……」と死にそうな顔で呪詛を吐いている。
「えっ、陽斗くん!? 透くんまで、なんで……!」
「ひなちゃん! 俺たちを捨てないでぇぇっ!!」
陽斗が私に向かって両手を広げ、思い切りダイブしてこようとする。
しかし、その目論見は、私の前にスッと立ち塞がったルイの長い脚によって、無惨にも蹴り止められた。
「ぐはっ!」
「俺のマネージャーに鼻水つけんな。汚ぇ」
「なっ……ルイくんズルい! 俺だってひなちゃんに抱きつきたいのに!」
陽斗がお腹をさすりながら抗議するが、ルイは冷たく鼻で笑い、私を自分の背中に隠すようにして庇った。
「遅ぇんだよ、お前ら。水瀬はもう俺が捕獲した。諦めろ」
「捕獲って……虫じゃないんだから」
私が背後からこっそりツッコミを入れると、ようやく息を整えた透が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
彼は倒れていた私のキャリーケースを無言で引き起こし、そのハンドルをガシッと掴む。
「……マジで、ふざけんなよ。打ち上げの途中でルイがいきなり飛び出していくから、何事かと思っただろ」
透は私をジロリと睨みつける。その瞳は怒っているように見えて、目元が微かに赤く腫れていた。
「せっかくのステージ大成功だったのに、あんたがいなくなったら、何の意味もねぇだろ……バカ」
「透くん……」
「次また勝手にいなくなったら、このキャリーケース燃やすからな」
物騒な脅し文句とは裏腹に、透は私のキャリーケースを絶対に離さないとばかりに強く握りしめている。
彼らもまた、私が残した鍵とパスを見て、血の気を失って探しに来てくれたのだ。
「……ごめんなさい、二人とも。そして、ありがとう」
私が深く頭を下げると、陽斗が「もう絶対許さないんだからね!」と唇を尖らせながらも、私のエプロンのポケットのあたりをギュッと掴んだ。
「ひなちゃんがいないと、俺、朝起きれないし! ご飯も食べれないし!」
「それは自分でできるようになりなさいよ……」
「俺たちには、あんたが必要なんだよ。……全員、な」
透がキャリーケースを引きながら、フッと柔らかく笑う。
その三人の姿を見て、私はようやく心の底から、重たい鎧を脱ぎ捨てることができた。
彼らはもう、大人に怯える子どもじゃない。
私の弱さも、不器用さも、全部ひっくるめて受け入れてくれる、頼もしい『パートナー』になっていたんだ。
「……帰るぞ。社長が打ち上げ会場で発狂してる頃だ」
ルイが私の手首を掴んだまま、前を向いて歩き出す。
「えっ、打ち上げ戻るの!? 私、こんな泣き腫らした顔で……」
「関係ねぇよ。お前も俺たちのチームなんだから、堂々としてろ」
ルイの大きく熱い手が、私の手をしっかりと握り直す。
もう、振り払おうなんて思わない。
「ひなちゃん、手繋ごー!」
「陽斗、お前は俺のキャリー持て」
「えー、透ヒドい!」
深夜の新宿。
冷たかったはずの夜風は、今はもう不思議と心地よく感じられた。
ビルの隙間から、ほんの少しだけ白み始めた夜明けの光が差し込んでくる。
その光に照らされた三人の背中は、昨日までとは比べ物にならないほど大きく、そして眩しく輝いていた。
「……行くよ、みんな! 明日からもっと忙しくなるんだからね!」
私が彼らの背中に向かって声を張ると、三人は同時に振り返り、それぞれの最高の笑顔を見せてくれた。
彼らが『最強のアイドル』へと駆け上がっていく、波乱万丈な日々。
そして、絶対君主である彼との、甘くて危険な距離感に振り回される日々。
私たちの本当の物語は、この眩しい朝日から、いよいよ本格的なプロローグの幕を開けたのだ。




