【Part 3】真夜中の逃亡と、絶対君主の捕縛
ガラガラガラ……。
深夜の新宿。人がまばらになった大通りから一本入った、薄暗い裏路地。
キャリーケースの硬い車輪がアスファルトを擦る無機質な音だけが、私の足元で虚しく響き続けている。
(これでいい。これが一番いい結末なんだから)
私は冷たい風に身を縮めながら、自分に何度もそう言い聞かせる。
彼らは自らの力で分厚い壁を壊し、最高のステージを作り上げた。あの社長のことだ、明日にはすぐに強力なプロモーションチームを組み、彼らを本格的に売り出す手はずを整えるだろう。
そこにもう、素人の私が入る隙間はない。
むしろ、彼らが過去のトラウマに縛られていた時の『弱い姿』を知りすぎている私が傍にいることは、彼らが新しい世界へ羽ばたくための邪魔になる。
だから、振り返っちゃダメだ。
その時だった。
『――タッタッタッ……!』
背後から、ひどく乱れた、けれど必死な足音が近づいてくるのが聞こえた。
深夜の裏路地には似つかわしくない、アスファルトを力強く蹴り上げる音。
(……え?)
思わず足を止め、振り返ろうとした瞬間。
ガシッ!!
「……っ!」
私の右腕を、背後から伸びてきた大きな手が、骨が軋むほどの強い力で掴み取った。
「……捕まえた」
低く、掠れきった声。
肩で激しく息をする、荒い呼吸音。
むわっと押し寄せてきたのは、あのステージの強烈な熱気と、私があれほど愛おしいと感じていた、シトラスとスパイスの混じった彼の匂いだった。
「ル、イくん……!?」
私は目を見開き、信じられない思いで振り向く。
そこには、漆黒のベロアコートの胸元を大きくはだけさせ、肩で息をする神城ルイが立っていた。
完璧にセットされていたはずの黒髪は汗で額に張り付き、その切れ長の瞳は、私が今まで見たことのないほどの『焦燥』と『怒り』に燃え盛っていた。
「なんで……打ち上げは? まだ社長たちと……」
「ふざけんなッ!!」
静かな裏路地に、ルイの怒声がビリビリと響き渡る。
彼は私の腕を引いたまま、乱暴な手つきで私のキャリーケースを蹴り飛ばした。
ガシャン!と音を立ててケースが倒れるが、彼はそんなものに見向きもしない。
「部屋空っぽにして、鍵とパス置いて……てめぇ、どういうつもりだ!」
「……っ」
「俺たちを見捨てないって言ったのはお前だろ! 逃げないって、一番特等席で見てるって……あんなに偉そうに説教垂れといて、なんでお前が逃げんだよ!!」
ルイの叫びには、過去のトラウマを抉られたような、血を吐くような痛みが混じっていた。
彼にとって、一番信じたかった人からの『突然の消失』は、十五歳で大人たちから捨てられたあの日の絶望と同じだ。
私は彼のためを思って身を引いたつもりだったのに、結果として、彼の一番深い古傷を容赦なく引き裂いてしまったのだ。
「ごめんなさい……でも、違うの。見捨てたわけじゃない」
私は泣きそうになるのを必死に堪え、彼の強い視線を真っ直ぐに見つめ返す。
「あなたたちのステージ、本当に最高だった。もう私なんかがいなくても、あなたたちは自分の足で立って、歩いていける。……これからは、プロのスタッフがあなたたちを支えるべきなの」
「……は?」
「私はただの元保育士だよ。あなたたちを『お世話』する役目は、もう終わったの! だから……」
「勝手に俺たちの関係を終わらせんな!!」
ドンッ!!
ルイが私の両肩を掴み、そのまま背後のレンガの壁に力強く押し付けた。
「っ……!」
背中に鈍い衝撃が走る。
逃げ場を失った私の目の前、数センチの距離に、ルイの顔が迫る。
その瞳は怒りで燃えているのに、どこか泣き出しそうに揺らいでいた。
「誰がお前を『世話係』だなんて言った。……誰がお前を、いらないなんて言ったんだよ」
「……ルイくん」
「俺が、あのステージの上で誰のために踊ってたと思ってんだ」
ルイの低く熱い声が、私の耳元に直接注ぎ込まれる。
「二階席の社長のためか? 客のためか? ……違う。暗闇の中でずっと俺たちを見ててくれた、お前のためだ」
ドクンッ、と。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。
息が、できない。
「お前が俺のこと見捨てないって言ったから、俺はあのステージに立てたんだ。お前が笑ってくれるなら、俺はどんな泥だって被ってやるって思えたんだよ」
ルイの大きな手が、私の肩からスッと滑り落ち、そのまま私の頬を両手でそっと包み込んだ。
壁に押し付けていた先ほどの暴力的な力とは裏腹に、ガラス細工でも扱うかのような、ひどく繊細で優しい手つき。
「……一人で歩けるようになんて、なってねぇよ」
彼のおでこが、私のおでこにコツンと重なる。
吐息が交じり合うほどの絶対的なゼロ距離。
黒いベロアコート越しに伝わってくる彼の体温が、私の冷え切っていた身体を急速に溶かしていく。
「お前がいなきゃ……俺はまた、空っぽに戻っちまう。だから、お願いだ……」
その言葉は、絶対君主である彼が初めて見せた、一人の男性としての『無防備な懇願』だった。
「俺を……俺だけを置いて、消えないでくれ」
ポタッ、と。
彼の熱い涙が、私の頬に零れ落ちた。
「……っ、あ……」
私の目からも、堪えきれなくなった涙が溢れ出す。
なんという思い上がりだったのだろう。
私は「彼らのため」なんて綺麗な理由をつけて、本当は、彼らが遠くへ行ってしまう寂しさから逃げたかっただけなんだ。
二度と傷つかないために、自分から関係を断ち切る。それは、あの日彼らがやろうとしていたことと、全く同じじゃないか。
「ごめんなさい……っ、ごめん、なさい……」
私は両手を伸ばし、目の前にいる彼の背中に、そっと腕を回した。
汗で少し湿ったベロアコートをギュッと握りしめ、彼の胸に顔を埋める。
「私だって……離れたくなかった……っ。ずっと、ルイくんのそばにいたかった……!」
私の本音がこぼれ落ちた瞬間、ルイの腕が私の背中を強く、強く抱きしめ返してきた。
私の骨が折れてしまうんじゃないかと思うくらい、深く、力強い抱擁。
「……二度と、逃がさねぇ」
耳元で、彼が低く囁く。
「お前はもう、俺たちのマネージャーだ。……いや、俺の、だ」
その甘くて危険な独占欲に、私の心臓は完全に白旗を上げた。
深夜の暗い裏路地。
倒れたキャリーケースの横で、私たちは互いの体温を確かめ合うように、長い間、ただ強く抱きしめ合っていた。
大人の事情も、アイドルという肩書も、今はどうでもよかった。
彼が私を必要としてくれて、私が彼を愛している。
その絶対的な事実だけが、私たちを繋ぐ世界で一番強固な『絆』になっていた。




