【Part 2】熱狂の終わりと、冷たい鉄の扉
ラストナンバーの美しいピアノの旋律が、ライブハウスの熱気を優しく包み込んでいく。
私はステージ袖から続く暗い通路を後ずさりし、非常口を示す緑色の誘導灯の下で、ピタリと足を止めた。
これが、最後。
そう自分に言い聞かせ、もう一度だけ、眩い光が溢れるステージの方へと振り返る。
『――♪……』
透が紡ぐ、切なくも力強い最後のロングトーン。
それが空気の中にスッと溶けて消え、曲が完全に終わる。
コンマ一秒の、完璧な静寂。
直後。
鼓膜が破れそうなほどの、爆発的な大歓声と拍手が会場を揺らした。
「キャアアアアッ!!」
「最高ッ!! ずっとついていくからーッ!!」
熱狂。興奮。そして、割れんばかりの拍手の雨。
ステージの上の三人は、肩で激しく息をしながら、客席に向かって深く、長く頭を下げている。
二階席の社長も、立ち上がって惜しみない拍手を送っているのが見えた。
(……勝ったんだ)
誰も彼らを「寄せ集めのゴミ」なんて呼ばない。
彼らは自らの実力で、見下していた大人たちを完全に黙らせたのだ。
やがて、ステージの照明がふっと落とされる。
暗転したステージから、三人の影が袖に向かって小走りで戻ってくるのが見えた。
「ハァッ……ハァッ……」
荒い息遣いが、暗い通路に近づいてくる。
「やった……俺、間違えなかった! 最高のステップ踏めたッ!」
暗闇の中で、陽斗が興奮しきった声で叫ぶ。
彼はそのままの勢いで、隣を歩いていた透にガバッと抱きついた。
「うわっ、暑苦しい! 汗くっつけんな!」
「いいじゃん! 透の歌、マジで神懸かってたっしょ! 俺、踊りながら鳥肌立ったし!」
「……お前が邪魔しなかったからな」
透は口では毒づきながらも、陽斗を本気で突き飛ばそうとはしていない。暗がりでも分かるほど、その口元は達成感で柔らかく綻んでいる。
そして、その二人の背中をドンッと力強く叩く、大きな影。
「浮かれんな。ここからがスタートだぞ」
ルイだ。
彼もまた、全身汗だくで息を弾ませているが、纏っているオーラは王者の風格そのものだった。
彼は陽斗の頭を乱暴に撫で回し、透と短く拳を突き合わせる。
誰も、一人じゃない。
互いの才能を認め合い、背中を預け合える、本物の『チーム』。
私が喉から手が出るほど見たかった景色が、今、目の前にある。
「……ひなちゃん! ひなちゃん、どこ!」
陽斗が、キョロキョロと袖の暗闇を見回しながら私の名前を呼ぶ。
「あいつ、泣きすぎてへばってんじゃねぇの」
透が呆れたように言うが、その声色には確かな親愛がこもっている。
「……水瀬?」
ルイの声が、一段低くなる。
彼の鋭い視線が、暗闇の奥を、私のいる非常口の方へと真っ直ぐに向けられた。
(……っ)
心臓が、痛いほど跳ねる。
今すぐ駆け寄って、「最高だったよ」って、思い切り三人を抱きしめたい。
タオルを渡して、冷たいお水を飲ませて、一緒に泣き笑いしたい。
でも、私の足は前へは進まない。
コンクリートの床に縫い付けられたように、動かない。
(私は、保育士だから)
保育園の先生は、子どもたちをずっと手元に置いておくことはできない。
愛情を注いで、立って歩けるように育てたら、最後は笑って次の場所へ送り出すのが仕事だ。
彼らはもう、大人を恐れて威嚇する迷子じゃない。
光の当たるステージで、大勢のファンに愛されて生きていく本物のアイドルだ。
だから、ここで卒業。
これ以上私が彼らの内側に深く入り込めば、一人の女性としての情が湧き、彼らの足枷になってしまう。
ルイの足音が、一歩、こちらへ向かって踏み出されるのが見えた。
「おい、水瀬。どこに……」
私は息を殺し、静かに、非常口の重たい鉄の扉に手をかける。
そして、彼らの方へ向かって、誰にも聞こえない声で唇だけを動かした。
『――ありがとう。さようなら』
ガチャン。
冷たい金属音とともに、重厚な鉄の扉を押し開ける。
「水瀬ッ!?」
背後でルイの鋭い叫び声が聞こえた気がしたが、私は振り返らずに外へ飛び出し、そのまま力一杯扉を閉めた。
バタンッ!!
分厚い鉄の扉が閉まった瞬間、ライブハウスの爆音と熱気が、嘘のように遮断される。
代わりに全身を包み込んだのは、深夜の新宿の、氷のように冷たく鋭い夜風だった。
「……っ、うぅ……」
裏路地の暗がりに出た途端、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
両手で顔を覆い、しゃくり上げるようにして泣く。
足元がふらつき、冷たいレンガの壁に手をついて、必死に体を支える。
痛い。
胸の奥が、引きちぎられるように痛い。
彼らを立派なステージに送り出した達成感よりも、彼らの体温を、あの騒がしい日常を、二度と味わえないという圧倒的な喪失感が、私を容赦なく殴りつける。
『お前が無理やり繋ぎ止めたんだ。途中で投げ出すなよ』
『俺たちを最強のアイドルにするのは、お前の仕事だからな』
ルイの不器用な信頼の言葉が、耳の奥で呪いのように反響する。
(ごめんなさい……ごめんなさい、ルイくん)
私は彼らを見捨てたわけじゃない。彼らの未来を守るために、身を引いたんだ。
そう自分に言い聞かせても、涙は全く止まってくれない。
私は壁から手を離し、濡れた頬を袖口で乱暴に拭う。
早くしなければ。彼らが楽屋に戻って着替えを終える前に、マンションの部屋を空っぽにしなければならない。
私はヒールの音を響かせながら、ネオンが毒々しく光る大通りへと早歩きで向かった。
午前一時。
1401号室。私に与えられた、広すぎるワンルーム。
私は無言のまま、部屋の隅に広げたキャリーケースに、自分の荷物を次々と放り込んでいく。
洋服、化粧品、そして、保育園から持ち帰ってきたあの色褪せたウサギのエプロン。
元々荷物は少なかったから、パッキングはあっという間に終わってしまった。
ジッパーを閉める、ジーッという無機質な音が、しんと静まり返った部屋に響く。
隣の1402号室からは、何の音も聞こえない。
彼らは今頃、打ち上げの席で社長やスタッフたちに囲まれ、これからの輝かしい未来について語り合っているはずだ。そこに私の居場所はない。
私は立ち上がり、ガラガラとキャリーケースを引きずって玄関へと向かう。
最後に、下駄箱の上の小さなトレイに、二つのものをそっと置いた。
『1401』と刻印された、この部屋の銀色の鍵。
そして、『スターリー・プロモーション 専属マネージャー 水瀬ひな』と書かれた、プラスチックのスタッフパス。
「……お世話に、なりました」
誰もいない部屋に向かって、深く一礼する。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
内廊下の冷たい空気が、私を現実に引き戻す。
隣の1402号室のドアを、一度だけじっと見つめる。
あの扉の向こうで、一緒に冷めた味噌汁を温め直して食べたこと。
ガラスの破片を片付けながら、ルイの背中を叩いたこと。
(全部、私の宝物だよ。……ばいばい)
心の中で最後の別れを告げ、私はエレベーターへと歩き出す。
マンションのエントランスを抜け、深夜の静かな通りに出る。
冷たい夜風が、私の火照った頬を冷ましていく。
ポケットに突っ込んだスマートフォンは、電源を落としてある。連絡が来ても、もう応えることはできない。
私はキャリーケースのハンドルを強く握りしめ、一度も振り返ることなく、暗い夜道へと歩き出した。
彼らのいない、私だけの一人の時間が、再び残酷に動き始めていた。




