【Part 1】完璧な熱狂と、手放す覚悟
ズンッ、ズンッ、と内臓を直接揺らしてくる重低音。
それに負けないほどの、数千人規模の地鳴りのような歓声。
熱気と酸素不足で視界が歪むほどの巨大なライブハウスで、私はステージ袖の暗闇に立ち、ただ息を呑んで『それ』を見つめている。
『――♪〜ッ!!』
透の突き抜けるようなハイトーンボイスが、会場の空気を一瞬で真空に変える。
あの日、プレッシャーに押し潰されて声を出せなくなった少年の姿は、もうどこにもない。彼はマイクスタンドを両手で握りしめ、かつて忌み嫌っていた『観客』の顔を真っ直ぐに見据えながら、その魂を削るような歌声を惜しげもなく客席へと放っている。
「透くっ……ん」
私の唇から、震えるような感嘆の吐息が漏れる。
キュッ、ターンッ!
透の歌声の余韻を切り裂くように、陽斗がステージの端から端までを、重力を完全に無視した大ジャンプで横切る。
金色の髪から、汗の飛沫が宝石のようにキラキラと舞う。
彼の顔には、もう迷子のような怯えはない。心からステージを楽しみ、観客の視線を全身で浴びて喜ぶ、太陽のような本物のアイドルスマイルがそこにある。
「キャアアアアッ! 陽斗ぉぉぉッ!」
「透くんヤバい、鳥肌止まんないッ!」
客席の熱狂が、臨界点を突破していく。
そして。
その爆発的な二人の才能を、中央で完全に統率している男。
神城ルイ。
彼はセンターポジションから一歩も動かず、ただ顎を少し上げ、切れ長の瞳で客席を睥睨している。
漆黒のベロアコートの裾が、ターンに合わせて美しく翻る。
彼が長い指先を一つ動かすだけで、最前列のファンが次々と膝から崩れ落ちていくのが見えた。
完璧だ。
誰一人として、自分だけが目立とうと暴走していない。
透の歌を活かすために陽斗がステップの歩幅を抑え、陽斗のダンスを際立たせるためにルイが絶妙なタメを作る。
バラバラだった三つのガラスの破片が、互いの傷口を完璧に噛み合わせ、光り輝く巨大なステンドグラスへと変貌を遂げた瞬間。
「……すごい」
私はバインダーを胸に抱きしめ、熱くなる目頭を必死に堪える。
曲が終わり、暗転。
同時に、鼓膜が破れそうなほどの割れんばかりの歓声と拍手が、会場を包み込んだ。
「ハァッ……ハァッ……」
暗闇の中、三人の荒い息遣いだけがマイクを通して客席に響く。
再び、ステージの中央にだけ、真っ白なピンスポットライトが落ちた。
そこに立つルイが、ゆっくりとマイクを口元に寄せる。
滴る汗が、彼の鋭い顎のラインを伝って光る。
「……お前ら、楽しんでるか」
低く、色気を孕んだ声。
「ギャアアアアッ!!」
「俺たちは今日、ここから全部をひっくり返す。……一秒も、目を離すなよ」
ルイの言葉に、客席が再び制御不能な熱狂の渦に巻き込まれる。
その短いMCの最中。
ルイの視線が、ふと、ステージ袖の暗闇に立つ私の方へと向けられた。
ライトの逆光で私の顔は見えないはずなのに。彼は確かに私を捉え、口角をフッと上げて、不敵に笑ったのだ。
(……っ)
ドクン、と心臓が跳ねる。
『一番特等席で見とけ』
直前に彼が残した言葉が、熱を持って蘇る。
私は彼らに応えるように、暗闇の中で力強く頷いた。
彼らの視線の先にあるのは、もう絶望じゃない。果てしなく続く光の道だ。
――でも。
その圧倒的な光の渦を見つめながら、私の胸の奥に、ある小さな『違和感』が冷たい雫のようにポツリと落ちた。
(この子たちは、もう……大丈夫だ)
二階のVIP席を見上げる。
あの日、冷徹に「解散」を突きつけた社長が、身を乗り出すようにしてステージを食い入るように見つめているのが分かった。その顔には、隠しきれない驚愕と、確かな『特大の商品価値』を見出した商人の熱が浮かんでいる。
勝った。
これで彼らは、解散を免れるどころか、事務所の看板として一気にスターダムを駆け上がっていくはずだ。
もう、怯えて夜の公園を彷徨う陽斗はいない。
殻に閉じこもってイヤホンを握りしめる透もいない。
過去の傷に縛られ、一人で戦おうとしていた孤独なルイも、もういない。
彼らは今、本物の『居場所』をこのステージの上に見つけたのだ。
(……じゃあ、私の役目は?)
バインダーを抱きしめる腕の力が、ゆっくりと抜けていく。
彼らが立っているのは、何万もの人に愛され、求められる、眩しすぎる光の中。
一方、私がいるのは、一歩引いた裏方の、真っ黒な暗闇の中。
彼らがこれからどんどん大きくなっていく時。
ただの元保育士でしかない私が、これ以上『母親面』をして傍にいることは、彼らの足を引っ張ることになるんじゃないか。
若い彼らにとって、マネージャーという近すぎる女性の存在は、いつか必ず熱狂的なファンの反感を買い、スキャンダルの火種になる。ルイのあの熱を帯びた視線も、ただの吊り橋効果や、恩義からくる一過性の錯覚に過ぎない。
(種は芽吹いた。……彼らを育てた土は、もう必要ないんだ)
ステージで眩く輝く三人の姿が、涙でぐにゃりと滲んでいく。
私は手の甲でそっと目元を拭い、ギュッと唇を噛み締めた。
『――最後の曲です。聴いてください』
透の静かな曲振りに合わせ、ラストナンバーの美しいピアノのイントロが静かに流れ始める。
あの日、リハーサル室で透のハミングに合わせて私が弾いた、あのメロディ。
私は、暗闇の中でそっと踵を返した。
彼らの最高のステージの邪魔にならないように、息を殺して。
このステージが大成功を収め、彼らがステージから降りてくる前に。私は彼らの前から、綺麗に姿を消す。
それが、彼らを心から大切に思い、愛してしまった私にできる、最後の『仕事』だった。




