【Part 2】深夜二時のメガネと、甘くて危険な引力
深夜二時。1402号室のリビング。
陽斗と透がそれぞれの部屋で深い眠りについているこの時間、室内はしんと静まり返り、冷蔵庫の低いモーター音だけが微かに響いている。
私は一人、薄暗いリビングのソファに座り、ノートパソコンのブルーライトに目を細めていた。
画面に表示されているのは、三週間後に迫ったショーケースライブのセットリストと、ステージの照明効果のタイムテーブル。
予算のない私たちには、専属の演出家なんていない。だから、彼らが一番輝くためのスポットライトのタイミングも、曲と曲の間の暗転の秒数も、マネージャーである私が全部計算してスタッフに指示を出さなければならない。
(……サビの瞬間に、三人に一気に白のピンスポット。うん、これが一番カッコいいはず)
キーボードを叩く指が、疲れで少しだけ鈍る。
目をこすり、マグカップに残っていたすっかり冷めたカモミールティーを飲み干す。
限界まで張り詰めた一日の疲労が、どっと肩にのしかかってくる。
カチャリ。
不意に、リビングの奥のドアが開く小さな音がした。
ビクッとして振り返ると、暗闇の中から、背の高い影がゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。
「……ルイくん? まだ起きてたの?」
声をかけると、影はピタリと止まり、やがてパソコンの青白い光の届く範囲へと足を踏み入れた。
「……喉渇いた」
低く、少しだけ掠れた声。
私は彼を見て、思わず息を呑み、パソコンを打つ手を止めてしまった。
ダボっとした薄手のグレーのスウェット姿。
いつもは完璧にセットされている黒髪は、シャワーを浴びた後なのか、無造作に顔にハラリとかかっている。
そして何より――彼のその切れ長の瞳は、黒縁のメガネのレンズの奥にあった。
(メガネ……!? いつもはコンタクトなのに)
完璧な「アイドル・神城ルイ」の鎧を完全に脱ぎ捨てた、完全なオフの姿。
その圧倒的な隙だらけの姿と、普段の鋭さとのギャップに、胸の奥がトクンと不規則な音を立てる。
「冷蔵庫にミネラルウォーターあるよ。麦茶がいいなら、作ってあるけど」
できるだけ平坦な声を取り繕って言うと、ルイは無言のままキッチンへ向かい、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
彼が戻ってくると、当然自分の部屋に帰るものだとばかり思っていたのに。
ギシッ。
重い音を立てて、私のすぐ隣――同じソファの座面に、彼が腰を下ろした。
本革のソファが深く沈み込み、私の身体が自然と彼の方へと傾いてしまう。
「えっ……」
近すぎる。
彼の太ももと私の膝が、触れ合うか触れ合わないかのゼロ距離。
お風呂上がりの熱を帯びた体温と、いつもとは違う、シトラス系の爽やかなシャンプーの匂いが、むわっと私の鼻腔を占拠する。
頭の中が、一気にパニックを起こしそうになる。
「な、何? どうしたの?」
「別に。何してんのかと思って」
ルイはペットボトルのキャップを開けながら、私の膝の上にあるパソコンの画面を横からのぞき込んでくる。
彼の顔が近づいたことで、さらに体感温度が跳ね上がる。
「……照明のキューシート? お前、こんなのまで作ってんの」
「うん。せっかくなら、一番いいタイミングで光を当ててほしいから。あなたたちのパフォーマンスを、一番完璧な形で見せたいし」
「……ふーん」
彼は喉を鳴らして水を一口飲むと、キャップを閉めてテーブルにコツンと置いた。
そして、ゆっくりとこちらへ向き直る。
メガネの奥の瞳が、至近距離で私をじっと見つめている。
「……隈、ひどいぞ」
「え?」
「目の下。真っ黒」
ルイの大きな手が伸びてきて、私の顔にそっと触れた。
ビクッと肩が跳ねる。
彼の親指の腹が、私の目の下の皮膚を、羽で撫でるように優しくなぞる。
ダンスの練習でマイクを握り続けているせいか、少しだけ硬くなった指先の感触。それが、直接皮膚から神経を伝って、脳をショートさせそうになる。
「ひ、ひどくないよ! ちょっと寝不足なだけ」
「言い訳すんな。倒れられたら困るのは俺たちなんだけど」
ぶっきらぼうな口調。
でも、私に触れている彼の手の温度は、恐ろしいほどに甘くて、優しい。
彼は私の頬に手を添えたまま、少しだけ顔を近づけてくる。
吐息が交じり合うほどの距離。
彼の瞳の奥にある色素の薄い茶色が、パソコンの光を反射してガラス玉のように透き通っている。
「……お前が無理やり繋ぎ止めたんだ。途中で投げ出すなよ」
低い声が、私の鼓膜を直接震わせる。
それは、ただのマネージャーへの労いじゃない。
私の存在を、自分の領域のど真ん中に引きずり込み、二度と手放さないと言い含めるような、強烈な執着を含んだ響き。
「投げ出さないよ。最後まで、ちゃんと一緒にいる」
震えそうになる声を必死に抑え込んで、真っ直ぐに彼の目を見つめ返す。
ルイはフッと口角を上げ、ほんの少しだけ目を細めた。
「……なら、今は寝ろ。パソコン閉じろ」
「でも、これだけ終わらせちゃわなきゃ……」
「寝ろって言ってんの」
ルイは私の膝の上からパソコンを強引に奪い取ると、パタンと画面を閉じ、テーブルの端へと追いやった。
そして、あっけにとられている私の腕を掴み、グッと自分の方へと引き寄せる。
「わっ……!」
バランスを崩した私の身体が、ルイの広い胸板にすっぽりと収まる形になってしまう。
彼が私を抱き込むようにして、背もたれに深く寄りかかったからだ。
「ちょ、ちょっとルイくん! 何して……!」
「五分だけ。……このまま目ぇ閉じろ」
私の頭の上から降ってくる、絶対君主の強制的な命令。
彼の腕が私の肩をホールドしていて、逃げ出すことはできない。
耳を押し当てた彼の胸の奥から、ドクン、ドクンという力強く早い心拍音が直接伝わってくる。
(嘘。この人も、心臓すごく早く鳴ってる……)
その事実に気づいた瞬間、私の顔がボンッと音を立てそうなほど熱くなった。
彼は余裕な顔をしているように見えて、本当は、彼自身もこの距離にどうしようもなく戸惑い、そして熱を帯びているのだ。
「……五分だけだからね」
抵抗するのを諦めて、私は小さく呟き、彼の温かい胸の中でそっと目を閉じる。
シトラスのシャンプーの匂い。彼を包む圧倒的な男の人の熱。
いつもはハリネズミみたいに威嚇してくる彼が、今はただ、私の存在を確かめるように、少しだけ腕の力を強めたのが分かった。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
仕事の枠を超えてはいけないと分かっているのに、私の中で明確に、彼を『一人の男性』として意識してしまう、決定的な引力が生まれ始めていた。
「――ひなちゃん! 次の曲流して!」
「あ、うん! 行くよ!」
翌日の午後。地下のレッスン室。
私は慌ててスマートフォンの再生ボタンをタップし、昨日までの甘い余韻を振り払うように頭を振った。
ズンッ!と重低音が響き、三人が一斉に動き出す。
(集中、集中。私はマネージャーなんだから)
自分の頬を両手で軽く叩き、ノートを開く。
鏡の前で踊る彼らの動きは、日に日に研ぎ澄まされている。
陽斗のステップは、ルイの動きと完璧にリンクし、まるで一つの生き物のように連動している。
透の歌声は、イヤホンを外したことで二人の呼吸と完全に同化し、どこまでも高く、深く空間を支配していく。
そして、ルイ。
彼はセンターで踊りながらも、常に視線の端で二人の動きを捉えている。
誰かがほんの少し遅れれば、彼が瞬時にタメを作ってカバーし、誰かが前に出すぎれば、彼が全体のフォーメーションを素早く修正する。
かつての、自分だけが目立てばいいという自己中心的なダンスは完全に影を潜め、今の彼は、このチームの『完璧な絶対軸』として君臨していた。
「……いける」
ペンを握る手に力がこもる。
ショーケースライブまで、あと二週間。
彼らの才能は、互いを傷つけるための刃から、互いを高め合うための最強の武器へと完全にシフトした。
曲が終わり、三人が荒い息を吐きながらポーズを決める。
「……どうだ、水瀬」
汗だくのルイが、鏡越しに私を見て口角を上げる。
その瞳には、昨夜の甘い熱の欠片を微かに残したまま、ステージで観客を圧倒するための凶暴な自信が宿っていた。
「……完璧。最高にカッコいいよ」
私が親指を立てて笑うと、三人は顔を見合わせ、満足そうにハイタッチを交わした。
もう、誰も彼らを『寄せ集めのゴミ』なんて呼ばせない。
反撃の狼煙を上げるための大舞台が、すぐそこまで迫っていた。




