【Part 4】不器用な謝罪と、初めての「チーム」
ポタッ、と。
私の顎から滑り落ちた大粒の涙が、フローリングの床に丸い染みを作る。
その小さな水音が、しんと静まり返ったリビングにやけに大きく響いた。
「お願いだから……もう、一人で戦おうとしないで……ッ!」
喉の奥から振り絞った私の叫びは、まだ空気の中にビリビリとした余韻を残している。
泣くつもりなんてなかった。マネージャーとして、大人として、毅然とした態度で彼らを導くはずだったのに。
感情の堤防が決壊してしまった私は、情けなく肩を震わせ、両手で顔を覆うことしかできない。
圧倒的な静寂。
彼らは誰も動かない。大人から理不尽に怒鳴られることには慣れていても、自分たちのために大人が本気で涙を流して怒る姿なんて、見たことがなかったのだろう。
やがて。
微かな衣擦れの音がして、私の目の前に、長い影が落ちた。
「……っ」
顔を覆っていた指の隙間からそっと見上げると、神城ルイが立っていた。
彼は無言のまま、テーブルの上に置かれていたティッシュ箱から数枚のティッシュを乱暴に引き抜く。
そして、ため息を一つこぼし、私の頬にその丸めたティッシュを押し当てた。
「……痛っ、ちょっと、ルイくん……」
「大人が怖いなら盾になるんだろ。だったら、こんなに簡単に泣くなよ」
呆れたような、ひどくぶっきらぼうな声。
でも、その声の底には、昨日まで私を刺し貫いていたあの氷のような冷たさは、欠片もなかった。
ティッシュ越しに伝わってくる彼の手の熱が、私の冷たい頬を不器用に温めてくれる。
「……だって、あなたたちが勝手に壊れようとするから」
「俺たちのせいかよ」
ルイはフッと鼻で笑い、ティッシュを私の手に押し付ける。
その顔には、憑き物が落ちたような、ひどく疲れた、けれど年相応の柔らかな表情が浮かんでいた。
「……悪かったな」
消え入りそうなほど小さな、囁くような声。
「え?」
「……俺が、一番見えてなかった。一人で完璧でいなきゃ捨てられるって焦って、周りの音も、お前らの動きも、全部無視した。……俺のせいだ」
それは、絶対君主であるルイが、初めて自分の『間違い』を認めた瞬間だった。
彼にとって、弱さを認めることは死に等しい恐怖だったはずだ。その分厚いプライドの鎧を脱ぎ捨てて、彼は今、真っ直ぐに自分の足で立っている。
「……ルイ、くん」
陽斗が、涙で真っ赤に腫らした目を大きく見開いている。
ルイは陽斗の方へゆっくりと向き直り、気まずそうに視線を逸らしながら、ポリポリと頬を掻いた。
「……お前のステップ、俺のタイミングじゃ活きないのは分かってた。でも、合わせるのが怖かったんだよ。……すまん」
「うわぁぁぁん、ルイくぅぅぅんッ!!」
ルイの不器用な謝罪を聞いた瞬間、陽斗が弾かれたように立ち上がり、そのままルイの胸に向かって思い切り飛び込んだ。
「うわっ、おいバカ、鼻水つけんなッ!」
「だって、だって俺ぇ! もうルイくんに見捨てられたと思って……っ、俺こそごめんなさいぃぃっ!」
ルイは露骨に嫌そうな顔をして陽斗を引き剥がそうとするが、その手はどこか手加減されていて、本気で突き飛ばそうとはしていない。
陽斗はルイの黒い服をギュッと掴み、子どものように泣きじゃくりながら何度も何度も謝っている。
その光景を見ていた透が、床に倒れたままになっていたパイプ椅子を、ガチャリと音を立てて拾い上げた。
「……俺も」
透の低く掠れた声に、陽斗の泣き声がピタリと止まる。
透は俯いたまま、きつく唇を噛み締めていた。
「……俺も、逃げた。二人がズレてるの分かって、どうせ失敗するなら、自分から歌うのやめた方が傷つかないって……逃げた」
透の震える手が、首から下げていた黒いイヤホンをギュッと握りしめる。
そして、彼は顔を上げ、赤く充満した瞳で、真っ直ぐにルイと陽斗を見つめた。
「もう……逃げない。だから……次も、一緒に歌わせてほしい」
絞り出すような、透の決意。
それは、彼が再び『世界』と繋がることを選んだ、何よりの証明だった。
ルイは陽斗の頭を乱暴に撫で回して引き剥がすと、透の方へと歩み寄る。
そして、透の細い肩を、大きな手でドンッと力強く叩いた。
「……当たり前だ。お前のその生意気な声がなきゃ、俺のダンスは完成しねぇんだよ」
「……っ」
透の瞳から、再びポロポロと涙がこぼれ落ちる。
彼は袖口で乱暴に目を擦り、小さく、けれど力強くコクンと頷いた。
窓の隙間から入り込む朝の風が、室内の澱んだ空気を完全に押し流していく。
涙の匂いと、少し冷めた出汁の香り。
バラバラだった三つのガラスの破片が、お互いの傷口をパズルのように噛み合わせ、初めて一つの『形』になった瞬間。
私はその光景を、壁際で静かに見守っていた。
胸の奥に空いていた冷たい喪失感の穴が、じんわりと温かいもので満たされていくのを感じる。
(私……もう、一人じゃないんだ)
彼らを救おうとしていたはずが、本当は、私自身が彼らに救われていたのだ。
彼らが私を『マネージャー』として、自分たちの領域に受け入れてくれたことで、私は再び、誰かのための居場所になることができた。
「……おい、水瀬」
ふいに名前を呼ばれ、顔を上げる。
ルイが、陽斗と透を両脇に従えるような形で、私の方を見下ろしていた。
その瞳には、かつての圧倒的なカリスマ性が、さらに強靭な光を帯びて戻ってきている。
「いつまでメソメソしてんだ。みっともねぇぞ」
「……誰のせいだと思ってるのよ」
私が鼻をすすりながら睨み返すと、ルイの口角がフッと上がる。
それは、私が初めて見る、彼の年相応で、少し意地悪な、本物の笑顔だった。
「お前が言ったんだからな。俺たちがどれだけ泥被っても、絶対に見捨てないって」
「言ったよ。言ったことは絶対に曲げないから」
「……上等だ。だったら、お前も覚悟決めろ」
ルイは長い脚で一歩前に出ると、私に向かってビシッと指を突きつけた。
「三週間後のショーケース。絶対に客の度肝を抜いて、社長に土下座させてやる。……俺たちを最強のアイドルにするのは、お前の仕事だからな」
「……っ!」
その力強い宣言に、陽斗が「うおーっ! やってやんよ!」と拳を突き上げ、透が「……仕方ない、付き合ってやる」と小さく笑う。
私の顔にも、自然と笑みがこぼれる。
涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、私は彼らに向かって、とびきりの笑顔を作った。
保育園の子どもたちに見せていた作られた笑顔じゃない。心から湧き上がる、本物の笑顔。
「任せなさい。あなたたちを、誰にも文句言わせない最高のチームにしてあげる!」
午前八時三十分。
私たちは、誰に急かされるでもなく、自然とそれぞれの準備を始めた。
陽斗が食器を片付け、透が自分のキャリーケースを部屋の奥へと押し込み、ルイがシャワーを浴びに洗面所へと向かう。
もう、冷え切った空気も、威圧的な沈黙もない。
そこにあるのは、同じ目標に向かって走り出すための、心地よい緊張感と熱気だ。
私は自分のエプロンを外し、気合を入れるように両頬をパンッと叩く。
彼らの心にあった『間違い』は、今日、確かに正された。
あとは、その不器用で傷だらけの心を、最高のパフォーマンスという形に昇華させるだけ。
「さあ、行くよ! 今日から地獄の特訓だからね!」
私の号令に、三人がそれぞれの場所から「へーい」「だる……」「……うるせぇ」と、バラバラの、けれど確かに繋がった返事を返す。
私たちの本当の物語が、今、確かな鼓動とともに幕を開けた。




