【Part 2】冷めた味噌汁と、割れた破片の片付け
私の肩に顔を埋め、大きく息を吐き出したルイ。
その背中を一定のリズムでトントンと叩き続けると、やがて彼は、弾かれたようにバッと身を起こした。
「……っ、触んな。暑苦しい」
顔を背け、苛立たしげに前髪を掻き上げる。
しかし、その耳の端が微かに赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。あの絶対零度のオーラはすっかり消え失せ、今はただ、自分の感情を持て余して戸惑う、年相応の青年の顔がそこにある。
「はいはい。暑苦しくてごめんね」
私はクスッと笑い、足元に散らばったガラスの破片を見下ろす。
粉々に砕け散った灰皿。彼が自分を守るために周囲を傷つけようとした、不器用な威嚇の残骸。
「ちょっと動かないで。踏んだら危ないから」
私は部屋の隅にあったゴミ箱を引き寄せ、自分のスリッパの底を使って、大きな破片を一箇所に集め始める。
シャリ、シャリという硬い音が、静かな部屋に響く。
ルイはベッドの端に座ったまま、私のその作業を無言で見つめている。
「……何やってんの」
「片付け。このままだと、あなたが怪我しちゃうでしょ」
「俺が割ったんだぞ」
「知ってるよ。でも、こういう危ないものは、大人が片付けるの」
私が事もなげに答えると、ルイは小さく舌打ちをした。
「……お前、俺と二つしか歳変わらねぇくせに、マジで母親面すんのな」
「二つも年上のお姉さんって呼びなさい。ほら、とりあえず大きいのは拾ったから。スリッパ履いて、洗面所行ってきな。顔、ひどいことになってるよ」
「……うるせぇ」
ルイは悪態をつきながらも、私が差し出したスリッパに素直に足を通す。
そして、ローテーブルの上に置かれたままになっている、完全に冷め切ったご飯と味噌汁を一瞥した。
「それ……」
「あ、これ? 冷たくなっちゃったから、レンジで温め直してくるね」
私がお盆を持ち上げようとすると、ルイの大きな手が、私の手首をそっと掴んだ。
「……そのままでいい。食うから」
「ダメ。冷たいご飯なんて美味しくないでしょ。せっかく一緒に食べるんだから、温かい方がいいに決まってる」
私は彼の手を優しく振り解き、お盆を持って立ち上がる。
「リビングで、陽斗くんと透くんが待ってるよ」
その名前を出した瞬間、ルイの肩が微かに強張るのが分かった。
昨日のステージで彼らを切り捨て、楽屋で最悪の暴言を吐いた手前、どんな顔をして会えばいいのか分からないのだろう。彼のプライドの高さが、今度は彼自身の足を引っ張っている。
「……俺は」
「大丈夫。私がついてるから。顔洗ったら、おいで」
私は背中越しにそれだけを言い残し、部屋のドアを開けてリビングへと戻った。
リビングの空気は、ピンと張り詰めていた。
ダイニングテーブルの端と端に座る陽斗と透は、私の姿を見ると、弾かれたように顔を上げる。
「ひ、ひなちゃん……ルイくん、どうだった……?」
陽斗が、おずおずと尋ねてくる。
奥の部屋から聞こえたガラスの割れる音や、微かな怒声に、彼らはすっかり怯えきっていた。
「うん、大丈夫。今、顔洗ってるから。もうすぐご飯食べに来るよ」
私が努めて明るく答え、キッチンで電子レンジのボタンを押す。
ウィーン、という機械音が響く中、陽斗と透は信じられないものを見るように顔を見合わせた。
「……マジで? あのルイが、素直に出てくんの?」
透が疑わしげに眉をひそめる。
「素直かどうかは微妙だけどね。でも、ちゃんと来るよ」
チーン、という軽い音とともに、味噌汁が温まる。
出汁の香りが再びキッチンに漂い始めた時、リビングの奥の廊下から、スリッパを引きずる重い足音が聞こえてきた。
ビクッ、と陽斗の肩が跳ね、透が身構えるように背筋を伸ばす。
洗面所で顔を洗ってきたばかりなのだろう。前髪から水滴を滴らせたルイが、気まずそうに視線を彷徨わせながら、ゆっくりとリビングに姿を現した。
その顔には、昨日までの殺気は欠片もない。ただ、どう振る舞えばいいか分からず、不機嫌という仮面を被って必死に防御しているだけだ。
「……」
ルイは無言のまま、テーブルの一番端、陽斗と透から一番遠い席にドカッと腰を下ろす。
圧倒的な沈黙。
陽斗はルイの顔色を窺うようにチラチラと視線を送り、透は腕を組んで明後日の方向を見つめている。
私は温め直したご飯とお味噌汁を、ルイの目の前にコトンと置いた。
「はい、お待たせ。ちゃんと残さず食べてね」
ルイは私の顔を一瞥した後、不満げに舌打ちをして、乱暴に箸を手に取る。
そして、卵焼きを無造作に口に放り込んだ。
モグ、モグ。
咀嚼音が、静まり返ったリビングに響く。
美味しいとも不味いとも言わない。ただ、黙々と白米をかき込み、味噌汁をすする。
その姿を見て、陽斗の口から「ふぅ……」と、心底安堵したようなため息が漏れた。
透も組んでいた腕を解き、少しだけ肩の力を抜く。
言葉は一つも交わされていない。それでも、彼らが同じ食卓で、同じ温度のご飯を食べているという事実だけで、この部屋の空気が少しずつ、氷解していくのが分かった。
(……この子たちの居場所は、ここなんだ)
私はキッチンカウンターに寄りかかりながら、三人のつむじを眺める。
誰にも見捨てられたくない。誰かと繋がっていたい。
そんな不器用な願いを、鋭い棘で隠し持っている三匹のハリネズミ。
彼らのために、安全で温かい居場所を作る。それが、マネージャーである私の、そして元保育士である私の、本当の役目だ。
やがて、ルイが最後の一口を飲み込み、箸を乱暴にテーブルに置いた。
「……ごちそうさま」
聞き取れないほど小さな、消え入りそうな声。
それでも、彼が自分からその言葉を口にしたことに、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「お粗末様。……さて」
私はパンッ!と両手を打ち鳴らし、三人の視線を自分に集める。
彼らのバラバラだったベクトルが、今は確かに私の方へ向いている。
「腹ごしらえが終わったところで、一つ言っておくね。私たちには、あと三週間しかない。次のショーケースで結果を出さなきゃ、本当に解散になる」
私の言葉に、三人の顔に再び緊張が走る。
陽斗が俯き、透が唇を噛み締め、ルイが鋭い視線で私を見据える。
「昨日のステージは、確かに最悪だった。でも、あれがあなたたちの限界じゃないって、私が一番よく知ってる」
私は彼らの目を一人ずつ、しっかりと見つめながら告げる。
「あなたたちは、絶対に『最強』になれる。でも、そのためには、どうしても越えなきゃいけない壁があるの」
「……壁?」
陽斗が不思議そうに首を傾げる。
「そう。お互いの心の間にある、分厚い壁」
私はゆっくりとダイニングテーブルに近づき、三人の中心に両手をついて身を乗り出した。
「今日、この後。あなたたちの奥底に隠している『本音』を、全部ここに吐き出してもらうから。……逃げるのは、許さないよ」
それは、宣戦布告。
彼らをバラバラにしている「過去の呪縛」と「見捨てられる恐怖」という見えない敵を、彼ら自身の手で打ち砕かせるための、最後の荒療治。
張り詰めた空気の中、私の言葉が静かに、しかし確かな重さを持って響き渡る。
私たちの本当の戦い――『チーム』になるための儀式が、今、始まろうとしていた。




