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絶対君主のハリネズミは、専属マネージャーにだけ甘く牙を剥く〜崖っぷちアイドルをプロデュースしたら、世界一重い愛で包囲されました〜  作者: はりねずみの肉球
第5章:それでも関わる理由

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【Part 1】砕けたガラスと、絶対君主の孤独

翌朝。午前七時。

1402号室のリビングには、ごま油の香ばしい匂いと、出汁の優しい香りが満ちていた。

換気のために少しだけ開けられた窓から、ひんやりとした朝の空気が流れ込んでくる。


ダイニングテーブルには、炊きたての白いご飯と、豆腐とワカメのお味噌汁。それに、少し不格好な卵焼き。

その前に座っているのは、洗いたての金髪をボサボサにさせた陽斗と、グレーのパーカーを着た透だ。


「……いただきます」


透が、小さな声で呟き、箸を手に取る。

彼の両耳に、あの黒いイヤホンはない。外界の音を遮断する分厚い殻は、昨日の地下通路に置いてきた。

隣では、陽斗が目を真っ赤に腫らしながらも、大きな口を開けて白米をかき込んでいる。


「……んんっ、うまっ! やっぱひなちゃんのご飯、最高っしょ!」


「喉に詰まらせないようにね。お茶飲む?」


「飲む!」


私が急須から温かいほうじ茶を注ぐと、陽斗は両手で湯呑みを包み込み、ふぅ、と息を吐き出した。

透も黙々と箸を進め、やがて空になったお茶碗をそっとテーブルに置いた。


「……ごちそうさま」


「お粗末様でした。二人とも、今日は事務所が休みにしてくれたから、部屋でゆっくり休んでてね」


私が食器を片付けようとすると、透が口を開いた。


「……行くの」


彼の視線は、リビングの奥。

固く閉ざされたままの、一番大きな木製のドアへと向けられていた。


「うん。いつまでも引きこもらせておくわけにはいかないからね」


「……殺されるかもよ。昨日のルイ、本気でヤバかった」


透の言葉には、皮肉ではなく純粋な危惧が混じっていた。陽斗も不安そうに私を見上げる。


「大丈夫。私、けっこう頑丈にできてるから」


私は二人に向かってニッと笑って見せ、小さなお盆に、ルイの分のご飯とお味噌汁を乗せた。


(十五歳で、捨てられた)


お盆を持つ手に、ぐっと力がこもる。

昨夜、ファイルで見た彼の過去が脳裏に蘇る。

七歳から子役としてもてはやされ、周りの大人たちからチヤホヤされて育った少年。しかし、十五歳というどうしようもない『成長』を理由に、手のひらを返すように切り捨てられた。

信じていた世界が、突然自分に背を向けた時の絶望。

大人たちの身勝手な「商品価値」という物差しで、自分の存在そのものを否定された痛み。


彼のあの絶対零度の態度は、二度と大人に期待しないための、強固な防壁だ。

だからこそ、私はその防壁を真っ向から叩き壊さなければならない。

『仕事だから』という中途半端な距離感ではなく、一人の人間として、全力で彼にぶつかるために。


私はお盆を持ち、真っ直ぐにドアの前へと進む。

ノックはしない。

マスターキーを鍵穴に差し込み、カチャリと冷たい音を立てて回す。


ドアノブを押し下げると、むわっとした空気が漏れ出してきた。


「……入るよ」


声をかけて、一歩踏み出す。

部屋の中は、分厚い遮光カーテンが完全に閉め切られ、真夜中のように暗い。

鼻を突くのは、あの甘くてスパイシーな香水の匂いと、微かなタバコの残り香。


ジャリッ。


足元で、嫌な音がした。

視線を落とすと、昨日の昼間、ルイが投げつけて粉々に砕け散ったガラスの灰皿の破片が、床一面に散乱している。

危なくて、素足ではとても歩けない。


「……出てけっつったよな」


部屋の奥、キングサイズのベッドの端。

闇の中に溶け込むような黒い服を着たルイが、冷え切った声で呟いた。

彼は両膝に肘をつき、両手で頭を抱えるようにして座っている。その声の掠れ具合から、彼もまた、一睡もしていないことが分かった。


「朝ごはんだよ。昨日から何も食べてないでしょ」


私は足元のガラスの破片をスリッパで避けながら、部屋の中央にある小さなローテーブルへと近づく。


「いらねぇ。捨てろ」


「捨てない。食べるまでここに置いておくから」


ローテーブルにお盆をコトンと置く。

立ち上る味噌汁の湯気が、冷え切った部屋の空気をほんの少しだけ揺らす。


「……てめぇ、言葉が通じねぇのか?」


ルイがゆっくりと顔を上げる。

暗闇の中でも分かるほど、彼の眼光は鋭く、そしてドロドロとした怒りに満ちていた。

彼は立ち上がり、長い脚で無造作にガラスの破片を踏みつけながら、私の方へと距離を詰めてくる。


「お前みたいな『部外者』に、俺の人生引っかき回されてたまるか。昨日、そう言ったはずだが」


「聞いたよ。でも、私は部外者じゃない」


私は一歩も引かず、彼を真っ直ぐに見上げる。


「私、あなたの過去のファイルを見た」


その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がピシッと凍りついた。


ルイの動きが止まる。

切れ長の瞳が、限界まで見開かれ、そして次の瞬間、殺意に近いほどの怒りで燃え上がった。


「てめぇ……ッ!!」


ドンッ!!


視界が激しく揺れ、背中に硬い壁の衝撃が走る。

ルイの大きな手が私の両肩を乱暴に掴み、壁に力一杯押し付けたのだ。


「っ……!」


息が詰まる。

至近距離に迫ったルイの顔。その吐息がかかるほどの距離で、彼は歯を剥き出しにして私を睨みつけていた。


「誰の許可を得て、他人の過去を探ってんだよ……! 面白かったか!? 落ちぶれた元子役の惨めな記録を見て、優越感にでも浸ったか!?」


怒鳴り声が鼓膜を打つ。

彼の指が私の肩に食い込み、骨が軋むほどの痛みが走る。


「違う……!」


「何が違う!! お前ら大人はいつもそうだ! 勝手に期待して、勝手に失望して、最後はゴミみたいに捨てるんだろ!! 俺はもう、誰の期待も背負わねぇ! 誰の言葉も信じねぇ!!」


過去のトラウマが、彼の理性を完全に吹き飛ばしていた。

彼の叫びは、怒りというよりも、血を流して泣き叫ぶ子どもの悲鳴のように聞こえた。


「俺に構うな……! もう、これ以上俺の中に入り込んでくるなッ!!」


壁に打ち付けられた痛みよりも、彼のその悲痛な叫びの方が、私の心を深く抉る。


(……この人は、ずっと一人で戦ってきたんだ)


誰も信じられない世界で。

いつ捨てられるか分からない恐怖と戦いながら、自分を完璧に武装して、孤独な王座にしがみついていた。

傷つかないためには、誰も自分の領域に入れないこと。それが彼の唯一の生存戦略だったのだ。


私は、肩に食い込む彼の手の痛みに耐えながら、ゆっくりと、自分の右手を持ち上げる。

そして、私の肩を掴んでいる彼の大きな手の甲に、そっと自分の手を重ねた。


「……っ」


私の体温に触れた瞬間、ルイの肩がビクッと跳ねる。


「……同情なんて、してない」


私は逃げ場のない距離で、彼の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返す。


「私はただ、怒ってるの。あなたを理不尽に捨てた大人たちと、それに縛られて、自分から居場所を壊そうとしているあなたに」


「……なんだと」


「期待して裏切られるのが怖いからって、陽斗くんや透くんまで突き放して……そうやってずっと、一人ぼっちの殻の中に引きこもって生きていくの?」


「お前に……俺の何が分かる……ッ」


ルイの声が、微かに震え始める。

重ねた手から伝わってくる彼の体温は、氷のように冷たく、そして小刻みに震えていた。


「分かるよ」


私は、自分の胸の奥にある、まだ塞がりきっていない傷口をこじ開けるようにして、言葉を紡ぐ。


「私だって、突然居場所を奪われた。大好きな子どもたちから引き離されて、明日からどう生きていけばいいか分からなくなった」


ルイの瞳が、微かに見開かれる。


「大人に振り回されて、全部を失って……期待なんて二度としないって、私も思った。でもね」


私は重ねていた手を離し、今度は彼の頬に、両手をそっと添えた。


「私は、あなたたちから逃げないって決めたの」


「……っ」


「あなたがどれだけ私を拒絶しても、どれだけガラスを割って暴れても。私は絶対に、あなたを見捨てない」


私の両手の中で、ルイの瞳が揺れる。

強固に張り巡らされていた彼の鎧の奥底にある、十五歳のまま時間が止まってしまった泣き虫な少年の顔が、そこにあった。


「……嘘だ」


ルイが、掠れた声で呟く。


「大人は、みんなそう言って……最後は俺を置いていくんだ。どうせお前も、俺たちが売れなかったら、さっさと別の仕事を探して消えるんだろ」


「消えない」


私は即答する。


「売れようが、売れまいが関係ない。私はあなたたちのマネージャーで、あなたたちの『味方』だから」


「……味方」


「そう。だから、もう一人で戦わなくていいんだよ、ルイくん」


その言葉が、暗く冷え切った部屋に静かに溶けていく。


ルイの肩から、スッと力が抜けた。

私を壁に押し付けていた腕が力なく下ろされ、彼はそのまま、糸が切れたマリオネットのように、私の肩に崩れ落ちるようにしておでこを乗せた。


「……っ、あ……」


私の耳元で、彼が苦しげに息を吐き出す音が聞こえる。

それは、長い長い緊張から解放された、安堵の吐息のようでもあった。


「……ウザい。お前、マジで……ウザい女」


肩に顔を埋めたまま、ルイが掠れた声で悪態をつく。

でも、その声にはもう、私を突き放すような冷たさも、暴力的な怒りも含まれていなかった。


「知ってる。元保育士だから、世話焼きなの」


私は小さく笑い、彼の背中にそっと手を回し、一定のリズムでトントンと優しく叩き始める。

大きな、背中。

でも、その内側には、温もりを求めて震える不器用な心が隠されている。


窓の外から、遠くの電車の音が聞こえる。

砕けたガラスの散らばる絶対零度の部屋の中で、私たちの時間が、ようやく本当に動き始めたような気がした。

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